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MANABIYA 裏Report vol.32【笹尾和宏さん】

1.はじめに

光あるとこに影がある。表があれば裏がある。レポートも裏があってもいいんじゃないの?
ということで、レポートで書ききれなかった事例紹介をメインに裏レポートをお届けしようと思います。

2.小さな活動がまちを変える

(1)きっかけは面白い事をしている大人たち
笹尾さんが「自分たちの小さな活動でもまちを変えていける」ことを教えてくてた事例を4つ挙げていただきました。
①「立入禁止」と書いていない水辺の柵を超えて、みんなでランチ

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②勝手に水辺に筏を浮かべて花見をする人たち

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③集団でへんな事をまちなかですると、周りの人たちがその場のルールを勝手に解釈する

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④勝手にまちのイワレを作って広める活動(イワレ捏造技術開発機構)

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(2)「きっと水辺が好きになる」から始まった
【水都大阪】での活動を笹尾さんが関わったもの、それ以外のもの含めて3点あげていただきました。
①「水辺ナイト」:水晶橋でバーを開催(水晶橋は新地の0次会として同伴の起点として提案)

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②「北浜テラス」:川辺にデッキを作り大阪版川床をつくる

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③「水上移動演劇」:都市の風景をお芝居の舞台として風景の変化に合わせ演劇

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3.「都市生活者」目線のまちづくり

(1)変えていくのは都市生活者の考え方
今発信されている魅力的な都市を国内外にわたってあげていただきました。そして、そこには「見たい」に加え「過ごし方」が提案されていることを開設していただきました。
①渋谷109の前での盆踊り

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②なんばの道頓堀川でゲリラライブ

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③ニューヨークタイムズスクエアでのヨガ

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④パリエッフェル塔の前で白い衣装をまとってディナー(ディネ・アン・ブラン)

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⑤シカゴミレニアムパークのメディアアート前で水遊び

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⑥姫路駅前広場のキャッスルガーデンで佇む人たち

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(2)都市の自由使用
●しれっとのびのび上手にまちを使う。
水辺の魅力発信から都市の自由使用に移行したいろんな活動(遊び?)を紹介していただきました。
①外で朝ご飯を食べる

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②ゆっくり寝転んで公園で映画を見る

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③水辺でボートを浮かべる
→河川管理者に「ボート浮かべていいですか?」と相談したところ「護岸を傷つけないでください」といわれた

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④東京駅前で寝る。東京駅の大パノラマと朝日

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⑤深夜のオフィス街でディスコ
(オフィス街は夜間人口が少なく大きな音を出しても迷惑にならない)
(深夜の夜行バスの待ち合わせ所は明々と照らされている。一番近いマンションまで行って音が聞こえないことを確認)

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⑥公園で演奏

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⑦バーカウンターを作り路上でバーごっこ
(設置は通行の邪魔にならない場所で行い、カウンターは簡単に収納可能な状態となっている)

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⑧水辺ダイナー
テーブルクロスにきちんとしたカトラリーを用意して気持ちいい水辺空間でディナーを楽しむ

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⑨クランピング
水辺の柵にF型クランプを取り付け簡易なテーブルを用意。いつでも簡単に気持ちいい空間で食事やお酒を楽しむ。都市空間的に人を寄せ付けない空間から人が佇める空間になる。

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●とりあえずまちに居る。そこから。
今回のタイトルにもなっている「用がないならまちに出よう」を形に表すとしたら。それに対する事例についても笹尾さんは紹介してくれました。
①読書をする
②裁縫をする
③パソコンをする
④お餅を焼く
⑤将棋をする
⑥ハンモックで寝る
どれも家で出来ることを気軽に外でやってみたら?といった事でした。

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●経験を通じてみえてきたこと
さまざまな実践から見えてきたこととして「法律上やってはいけないこと以上に僕たちはやってはいけないと思っているのではないか」といった事が浮かび上がってきました。
そこで笹尾さんはやっていいこと悪い事をグラデーション化すれば、実はやっていい事が見えてくると考えました。このやっていい事の領域を増やしていくことでもっとまちの可動域が広がると笹尾さんはおっしゃいます。
そして、今日のお題となっている「用がないならまちに出よう」はどの部分に当たるか?それも定義してくれました。用がないけどまちに出るとは、「何気なさ過ぎて外かどうかも分らない状態」外でやっていい事の外にある新たな領域でした。この領域すら「これから考えないといけない」と笹尾さんはおっしゃいました。どこまでも研究熱心。どこまでも真面目。笹尾さんの性格がうかがえました。

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4.都市の自由使用がまちに対して良い効果を生む

都市の自由使用に対する活動はプロデュース型の都市デザインにも役立つとおっしゃいました。
その事例としてまず挙げられたのは笹尾さんが携わっていたグランフロント大阪の運営です。
①うめきた広場のベンチ
賑わいを生むまちの広場に簡易の椅子や人工芝を敷いてみる。そうすると、買い物客たちが佇める場所に変りました。ただでさえ注目を集める場所ですから、イベントを開催していない日でもまちに賑わいが生まれました。

②ゑびす男選び
これは笹尾さんが大学時代に地域の商店街の人たちと協働で企画した路上の駆けっこ大会です。学生と商店街のノリで開催した企画ですが、メディアに取り上げられた結果、自治体や学校側にも認められ次年度以降は正式開催となったそうです。

逆に残念な事例も紹介してもらいました。
①綺麗に並べられた広場でのこたつ

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②ベンチとの距離が遠いテーブル

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③居心地よさそうな場所にあるゴミ箱

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④整列して並べられることで一番前の人が後ろの人から覗かれる椅子

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本当は居心地のいい空間を作ろうとして配置した什器ですが、配置した人たちの想像力が少し足りなかったことで使っている人が使いにくい状態になってしまっている。
これも実践することで想像力が養われれば、ちょっとした改良でよい空間になります。

5.感想

今回のタイトルでありテーマでもある「用がないなら“まち”に出よう!」は僕がPUBLIC HACKを読んだ時に心に残った言葉です。

1.偶然の出会いが起こるまち
用がなくても“まち”に出る。用があるないに関わらず、まちに出ることの大切さを僕は大阪の水辺で学びました。4月のはじめ、仕事終わりに中之島の水辺に出てみると、闇に沈む間際の夕日と暗闇の中にキラキラ光るまちの明かり。そして水辺には色とりどりの船といっぱいに咲いた桜たち。そんな素敵な瞬間を楽しむように佇むまちの人たち。その光景は本当に一瞬であり、瞬間的に僕に都市の豊かさを教えてくれました。

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また、お昼休みに水辺に出てみると、思い思いに過ごす人たちが僕の目に飛び込んできます。見ず知らずの人たちだけれど、その空間を共有しその空間を楽しんでいる。そんな気分になりました。

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大阪の水辺ではないけど、仕事終わりにふらふら歩いていると路地で遊ぶ子供たちに出会いました。一心不乱に球を追う子供たちを見ると懐かしくなると同時に時代が変わっても子供たちの無邪気さに心打たれました。

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「用がないなら“まち”に出る」それは偶然の出会いを求めているのかもしれません。成熟した社会に暮らす今、自分たちが欲しい情報はすぐ手に入り、自分たちがやりたい事は実現可能になりました。そんな世の中だからこそ、偶然の出会いに価値があるのではないかと思います。その偶然の出会いを生むのはやっぱり人だと思います。

そこに人がいるから愛着が湧き、親近感を覚える。「用がないなら“まち”に出よう!」はそれ単体で成り立つ話ではなく、日々の用事でまちを過ごす人たちがあってこそ成り立つものかもしれません。まちで過ごす人たちが多様であればあるほど、「用がないなら“まち”に出る」ことの輝きが増していくのだと思います。

2.エッジがグラデーション化するまち
一方で笹尾さんが提示されたように、家でやっているような事を“まち“でやることも「用がないなら”まち“にでよう!」になります。この場合は偶然の出会いではなく、空間のエッジなのかもしれません。

「公共空間」と「私的空間」

よく対にして話されますが、公共と私的は対なのでしょうか?家の中のゴミは拾うけど、駅前のゴミは拾わない。でも、家の前にゴミが落ちていたらたぶん拾うと思います。公共空間と私的空間という使い方ではなく、空間をどこまで自分事として捉えることができるか?そのエッジがどこにあるのか?といった事かと思います。

外で本を読む
編み物をする
外で筋トレする

どれも屋外・屋内を問わずしていい行為だと思います。その行為に着目するのではなく、その場所でやりたいと思える場所かどうか?自分たちが気持ちいいと思える場所があれば、そこは自分事の場所であり「用がなくても“まち”に出る」のだと思います。いや、「出る」という表現自体がおかしいのかもしれません。部屋に戻る、家に帰ると同じように「用がないから“まち”に戻る」と言った表現が良いのかもしれません。

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3.“用がない“事の価値
前述したようになんでも手に入る世の中だからこそ、“用がない”ことに価値があるのかもしれません。

ギリシアのアテネ、ローマ帝国~後漢時代のシルクロード、江戸時代の日本など、文明が進めば社会は成熟し、成熟した社会では文化が発展します。そして、文化とは今まで必要とされていなかったことを追求していき価値化したものではないかと思います。絵画、彫刻、芸能などどれも生活するうえで必要なものではありません、でもそれがあるからこそ生活に豊かさを与えてくれます。

笹尾さんがお話の中で紹介していただいた、ヤン・ゲールが唱える屋外活動の三つの型では必要活動、任意活動、社会活動があり、屋外空間の高質化により任意活動が大きく増加すると言っています。この任意活動が文化であり、必要と思われていないことの価値だと思います。文化とは数値で測れないものです。“用がない“を価値化することは難しいかもしれませんが、一つ一つ丁寧に”用がない“行為の中から自分たちが見出した価値を丁寧に説明することが大切なのかと思います。

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