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一句《炎天下 浮世絵のこと LINEする》オペラシティホールでチャイナ・フィルのコンサート

2023年8月18日(金)19時、

東京オペラシティ・コンサートホールで催されたチャイナ・フィルハーモニー管弦楽団と合唱団による交響曲『空海』の演奏会へ行ってきました。

交響曲『空海』は弘法大師御誕生1250年を記念し、中国人作曲家の邹野ゾウ・イエが作曲した8楽章の大曲、この曲を創立23年のチャイナ・フィルが演奏し、蘭州らんしゅうの合唱団がコーラスを加えます。

現代の中国人がオーケストラという西洋の手法で「空海」という平安時代の日本人の僧侶を表現するという興味深いコンサートで、約100名の管弦楽と約80名の男女混声の合唱は、躊躇なく、大胆で、思い切りがよく、のびのびとして、その迫力に圧倒されました。

魅力的だったのは合唱による日本人におなじみの「お経」風の一本調子メロディから、和音を重ねて展開してゆく場面です。このときの合唱の声量がものすごくて、オーケストラの演奏を上回る音量で観客席へ伝わってきました。

ところで、浮世絵では葛飾北斎(1760-1849)も、1845年頃に弘法大師「空海」を題材とした肉筆画を描いていまして、鬼と犬が争う後方で「空海」が祈るような図として、縦横 1.5×2.4 mの大きな絵を残しています。(画像は西新井大師のサイトより)

弘法こうぼう大師だいし修法図しゅうほうず

この絵の「勢い」や「迫力」は、チャイナ・フィルによる交響曲「空海」の演奏と通じるものがあり、「空海」は静かなところで静かに祈ったのではなく、荒れ狂う怒涛の日々を納めるために渾身の力を込めて祈ったということがよくわかります。

さて、この絵の中で、弘法大師「空海」の顔をよく見てみると写実的で、北斎は85歳の頃には、すでに西洋画の遠近法や陰影の技法を習得していたことも見て取れます。

表情の拡大図

遠近法だの陰影だの、北斎が描いた「空海」の絵について、西洋画からの影響が気になるのはどうしてかといいますと、私が最近「浮世絵の美人画の顔が漫画のように省略されているのは、なぜか?」ということを調べていたからです。

浮世絵の美人画について

ということで「浮世絵の美人画の顔」について、いろいろな文献を調べているうちに本物が見たくなり、山種美術館へ行ってみたところ、次の作品に出会いました。

上村松園しょうえん(1875-1949)の「牡丹ぼたん雪」という作品です。

松園は女性として初めて文化勲章を受賞した日本画家で、美人画作品が多く、しかも、多数の随筆を書き残していたので、松園が日本画に対してどういう思いで向き合っていたのか、よくわかります。

それでは、松園のお言葉をいくつか引用しながら話を進めます。

松園の好み

浮世絵画家のうちで私は春信はるのぶ長春ちょうしゅんが好きです。

上村松園「名作全集」より

「浮世絵」には1枚の紙に筆で描く「肉筆画」と、版画として職人衆が多色刷りする「錦絵」があります。

「錦絵」の発展に寄与したのが、
 鈴木春信 (1725-1770)。

「錦絵」を描かず「肉筆画」に専念した、
 宮川長春 (1682-1752)。


錦絵と肉筆画どちらが良いか

春信でも英之えいしでも歌麿うたまろでも、どうもその肉筆物は錦絵で見るような、あの魅力がないようです。

上村松園「名作全集」より

つまり「肉筆画」と「錦絵」のどちらが良いかというのは、画家によって異なるようです。「肉筆画」よりも「錦絵」のほうが出来栄えが良いと上村松園に言わせる彫師・摺師の職人技に驚きます。

また、彫師・摺師も原作となる版下絵を忠実に版画として再現していたものでもないらしく、例えば、北斎は職人衆への手紙の中で「目の下まぶたの線を勝手に付けないこと」と注意した記録が残っています。


こちらは、鳥文斎ちょうぶんさい栄之 の「錦絵」(国宝・重要文化財)、

そして、喜多川きたがわ歌麿 の「錦絵」です。


女の顔

いよいよ松園の「美人画の顔」についての意見、やはり、時代によって流行り廃りがあるようです。

美人絵の顔も時代に依って変遷しますようで、昔の美人は何だか顔の道具が総体伸びやかで少し間の抜けたところもあるようです。先ず歌麿以前はお多福豆のような顔でしたが、それからは細面のマスクになって居ります。然しいずれの世を通じましても、この瓜実うりざねというのが一番美人だろうと思います。

上村松園「名作全集」より

松園が描いた「美人画」。


目か口か眉か

松園にとって、女性の顔を描くときに最も重要な部位は「目」でも「口」でもなく「眉」です。

目はとじてしまえばそれが何を語っているかは判らないし、口を噤んでしまえば何もきくことは出来ない。 しかし眉はそのような場合にでも、その人の内面の苦痛や悦びの現象を見てとることが出来るのである。
〜略〜
眉は目や口以上にその人の気持ちを現わす窓以上の窓
〜略〜
美人画を描く上でも、いちばんむつかしいのはこの眉であろう。 口元や目鼻、ことに眉となるとすこしでも描きそこなうと、とんだことになるものである。

上村松園「名作全集」より

そして、こちらの絵は、1827年4〜5月頃シーボルトが江戸に滞在した際、シーボルトの依頼で北斎または弟子たちが「端午の節句」を描いた作品。国内向けの浮世絵よりも立体感があり、西洋画風な仕上がりとなっています。(画像はライデン国立民族博物館のサイトより)

北斎による「端午節句図」

この絵の「眉」に注目しますと、赤い着物を着た女性は、新月のように秀でた自前の眉でキリリとした若々しさを感じます。一方、青い着物を着た女性は、眉毛を剃り落し「青眉」としているので、嫁入りして子供が出来たという素姓がわかります。

松園に「青眉」の魅力を語っていただくと、

十八、九で嫁入りして花ざかりの二十歳ぐらいで母になり、青眉になっている婦人を見るとたまらない瑞々しさをその青眉に感じるのである。そして剃りたての青眉はたとえていえば闇夜の蚊帳にとまった一瞬の螢光のように、青々とした光沢をもっていてまったくふるいつきたいほどである。

上村松園「名作全集」より


線か色か

松園は次のように書いています。

線一つでその絵が生きも死にも致します。
〜略〜
自分で線が描けたと思います時には、どうもそれに彩色するのが惜しくて堪らないことがございます。
〜略〜
色彩でごまかしたような画、そんな画を見ますと私達は純真の日本画の為に涙がこぼれるような心持になります。

上村松園「名作全集」より

日本画家の方々にも、いろいろな考えがあるとは思いますが、少なくとも松園は「浮世絵の美人画の顔」においても純真の日本画として「線」で描くことが理想で、

「色」をつけることも、ましてや色彩をぼかしての「陰影」なども「ごまかし」であり、松園はそんな残念な絵を見ては泣きたくなっていたのです。


結論


「浮世絵の美人画の顔が漫画のように省略されているのは、なぜか?」


「日本画は『線』を重視しているから」




読んでいただき、ありがとうございます。


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