見出し画像

こんなになっても人間って生きてるの?

「お電話でご説明させて頂きましたが、奥様の火傷面積はお顔も含めかなり広い範囲で…いわゆる私達が肌と認識している部分より深い所まで達しています。こちらの集中治療室で出来る限りの治療をいたしましたが、残念ながら回復が難しいと判断いたします。。意識レベルは残念ながら今はありません。
あと…こちらもお電話でお伝えしましたが、基本的には集中治療室は小学生のお子様は面会はお断りしています。ですが、患者さんの状況で面会を許可する場合もありまして…今回はお子様の面会はして頂いても大丈夫ですが…先程お知らせしましたとおり奥様の意識は無くて火傷はかなり酷い状況で、お顔も含め元気な時とはかなりわられていますので…面会されるかは、その事を念頭に置いて判断下さい。」

 医者は淡々と説明した。
急な電話で呼び出された父と娘
四十代の父親にとっての妻。
10歳の娘にとっての母。

その女。全身大火傷のその女は、3ヶ月前に愛人と駆け落ちして行方知らずだった。「朱里(あかり)…お父さんが先にお母さんに会ってくるから、少し待っててくれるかな…」
娘の肩をしっかり掴んだ父親の手のひらは酷くぬるついて冷たくて、震えていた。その手のひらの感覚が気持ち悪すぎて、夢中で払いのけた娘は母がいる集中治療室に駆け込んだ………人工呼吸器や、色々な管が差し込まれている身体は裸だった。殆どの皮膚は剥がれていて赤か、オレンジでヌラヌラしていた、黒く焦げている所はたまに黄色だったり、白い肌か、骨かよくわからないような部分もあった。頭や手足は形としてしっかり残ってはいるが、顔も半分以上が焼け爛れていてもはや誰というより男か女かもわからない。2つの目玉はひっくり返ているのか?白く瞳は無くて良く焼けた秋刀魚のそれに似ていた。こんなによく焼けているのにオシッコをとる管が差し込まれている…どれだけ人間には水がながしこまれているのだろう… 「小林さん!小林七子(ななこ)さん。お嬢さんがいらっしゃったわよ。」意識の無いのは一目瞭然なのに看護師は塩焼き秋刀魚の白目を見つめて声をかけた…女の看護師は朱里の肩に手を置いた。父とは違いなんだか温かくて朱里は気持ち良かった。 

「朱里勝手に入ったら駄目だろ!」朱里の父で小林七子の夫は目の前の妻を10秒もみれなかった。いちもくさんに廊下に走り出したが、トイレに間に合わずに嘔吐した。

娘は母を見つめていた。以前と同じ所を一生懸命探した。看護師は何も言わず二人を見つめていた。

「こんなになっても人間って生きてるの?」

朱里は泣きもわめきもせずに小さい声でつぶやいた。フワフワして他の女の人より大きい母のおっぱいが朱里は大好きだった。友達には秘密だったけど…たまにフワフワした母のおっぱいに顔を埋めていた。

「おっぱいが無いよ…焼けて溶けてるよ」

温かい手のひらで看護師はポンポンと朱里の肩を叩いた。朱里は看護師に頭を下げて…集中治療室から出た。

 それから20時間意識も痛みも無いらしい…唯一の希望が死ぬ事しかない時間を過ごして小林七子は絶命した。

 

「おばあちゃん…何処いくの?」

「今からお父さんとお話してくるから少し待っててね。お母さんと一緒だから待てるよね!」「うん…」朱里の腕の中には七子の骨壷がある「お母さん…おばあちゃんがお母さんを連れてかえるみたいだよ。」コンコンと桐箱を叩いて朱里は薄笑いしてから足をバタバタと座ったまま動かした。 

セレモニーホールは閉め切られていたが外はザーっという音がたちこめて夕立ちにおそわれた。
「そちら様には大変ご迷惑をおかけしてお詫びの言葉もみつかりません。事故死という形でまとめて頂き、まともにお葬式までして頂いて有り難いですが…現実の所を考えると遺骨は実母の私が受けとるのが自然かと思います。以前転送して確認済かと思いますが、遺書だと思われる私宛に届いたメールには骨を残さ無いで欲しい…納骨しないで欲しい…と。昨日主人とも話たのですが…空からの散骨にして供養しようかと考えています。後…朱里の事ですが…女の子ですし…祖母の私の所で生活させるのはどうでしょう?勿論戸籍上どうのはそのままで…」 

小林七子の実母で朱里の祖母は60代だが身綺麗でまだ女の匂いがしている。少し瞬きがゆっくりでいちいち艶っぽい。
「七子は事故死です。親戚友人にもそう伝えました。朱里にもそう話してあります。3ヶ月前から家は出ていましたが、私とは離婚もしていませんし、我が家の嫁です。ですから家の墓に入れます。当たり前です。そのつもりで私と結婚して朱里を産みましたし…いくらお義母さんでも勝手に散骨とか訳わからない事言わないでください。後…朱里は私の娘です。私が育てるに決まってるでしょ!意味わからないですよ。そりゃ男一人で育てるにはまわりの協力は必要ですけど!何かと朱里は貴方に甘えますが、それは貴方がおばあちゃんで、甘やかせるからでしょ?色々はきちがえないでください!」

酷い夕立ちの雨音が二人の声とリンクする。義理の母は義理の息子の両腕を掴みながら涙声を張り上げた…

「もう二度と言いません。なので良く聞いて下さい。あの…他人様には何を繕っても良いですが、貴男自身と朱里は本当の事を理解して下さい。辛い事であるのはわかります。私自身が娘の死を受け入れるのがどんなに辛いか…七子は死ぬ前に私にメールをくれました。遺書だと私は理解してます。時間指定メールだったから私には七子をとめる事は出来なかったけど…そのメールはとっくに貴男に転送しましたよね?七子は3ヶ月前にある男と蒸発しました。そして3ヶ月後に焼身自殺をしました。貴男を裏切った七子を恨んでいるなら朱里を育てるのは辛くないですか?私は出来る限り朱里を育てるサポートをします。朱里の養育が辛くなったりしたら直ぐに私に連絡を下さい。いくら心を誤魔化しても七子が他の人を愛して何もかも捨てた…つまり貴男も私も朱里も捨てられた事実はかわりません。だから…」

掴んだ両手がガクガク震えて崩れた表情からは、会話の内容と関係なく熟女の色気が匂ってくる。「あの…落ち着いて…手を離して下さいお義母さん。そんな心配しなくても大丈夫です。朱里は私の娘ですし、この3ヶ月間私達親子は色々悩んで話もしてました。七子が居ない生活についても想定していましたしね。七子がメールで何か言ってましたが…離婚せずに死んだのですから最後まで私の妻で死んだのですから…だからお骨は家のほうで管理します。しかもメールに書いてありましたよね。七子は男とは別れたってね…。何かあったら直ぐ連絡しますよ…直接朱里ともやりとりして下さい。じゃあ帰りますね。49日もよろしくお願いします。」

相変わらず酷い夕立ちは騒々しく対比してセレモニーホールは静寂していた。
「朱里帰るぞ、お母さんをしっかり持ってるんだぞ…タクシーで帰ろう。」「あれ?お母さんはおばあちゃんと帰るんじゃないの?」コンコンと桐箱を朱里は又叩いた」「こら、朱里!お母さんを叩いたら駄目だぞ!お母さんの家は私達の家だぞ、だから今から3人で家に帰るんだ…暫く家に居てそれから下北沢のお墓に入るんだよ。」

「ふーん。あれ?お父さんなんか急に箱からなんか臭い匂いがする…」

朱里は顔をしかめて桐箱を抱きしめながら肩に自分の荷物をかけてタクシーに乗ろうとしたその時不意に抱きしめている桐箱が軽くなり、熱い空気が吹き上げた。
「熱い!」朱里は小さい声をもらしたが、タクシー運転手への道案内に必死な父親は朱里の異変に気づいていない。七子の魂が熱風になって駆け抜けて行ったのか?
熱い肌の感覚だけでは無く、さっきまでの悪臭は瞬時に消えて…女の形の様な何かが朱里の腕から逃げ出した。ためらいも無く振り返りもせずに。朱里は泣いた泣きじゃくった。わんわんと声をあげて。驚いた父親は何も分からないまま、娘と今は空になった骨壷を抱きしめた。 

七子が家を出た時も、黒焦げのかたまりを見たときも、絶命を聞いたときも…きっと七子の魂は自分を見つめていてくれるだろう肉体を焼きはらっても魂は自分と一緒に生きるのだろうと朱里は信じていた。
でも違った。全部違った。真実をやっと理解出来た朱里は絶望した。

私はとっくに捨てられていたんだ。 

シングルマザーの女が、幼い我が子供を自宅に閉じ込めて遺棄した事件がニュースで何度も流れていた。いかにもビッチな雰囲気で派手な様子のシングルマザーの写真が何枚もテレビで紹介される…見た目の乱れは心の乱れですよ。単純なマスコミから単純な視聴者にむけたお粗末な編集のニュースが朝も昼も夕飯前までたれ流されていた。

「ねぇおばあちゃん…私ももし小さかったらこの子みたいに家で死んじゃったりしたのかな?」「朱里、前にも言ったよね?七子は…お母さんは家事や育児から逃げたんじゃないんだよ…全部棄てたんだよ。逃げれば追われて又逃げなきゃいけないけど、お母さんは全て棄ててしまったから誰にも追いかけられない。わかるかな?」
「良くわからないけど…私が小さくても私は置き去りで死んだりしなかったって事で良いの?」
「そうだね、逃げていたらすべてやりっぱなしで逃げるでしょ?だから始末が悪いの、すてる時はゴミならゴミ箱だし、粗大ゴミなら日にちも場所も指定で出すでしょ。心構えしなきゃすてられないから…逃げるのとは違う。あ…ゴミって言うと何か嫌な例えみたいだけど…凄く大切だった玩具でもいつかはゴミになって捨てる時があるでしょ?」

「八百屋お七なんだっけ?」

祖母はフフフと流し目をして朱里の頭を撫でた。

「そうそうそれは捨てる話とは違う目線だけどね…朱里ちゃんよく覚えてたね。おばあちゃんがふと考えたんだけどね…あの子は八百屋お七の生まれ変わりだよ、だから次生まれ変わっても焼かれて死ぬんだよ、輪廻転生だからね。朱音は違うから大丈夫、違う人生だからたまたまあの子に産んでもらっただけだよ。なんかね…七子って名前はお祖父ちゃんのお祖母さんからもらったんだけど…その人も火事で亡くなってるんだよね。綺麗で聡明な人だったみたいだけどね…。とにかくね。お母さんの事色々考えると思うけど…お母さんは自分で自分の今までをすてる前までは朱里の事とっても愛してたよ。今はおばあちゃんもお父さんもおじいちゃんも全力で朱里を愛してるから大丈夫だよ!もう9時半だから寝なさい。明日出張からお父さん帰ってくるから寝不足ばれるぞー!」 

母七子の話をすると必要以上にテンションがあがる祖母の家には父親の出張や、週末で、父親が接待飲み会の時に泊まった。朱里の専用の部屋も用意してもらっていて快適だったが…祖父母の夫婦生活と遭遇していまう擾わしさもあった。60代の夫婦がこんな頻繁な頻度でセックスするのか朱里にはわからなかったが…どうやら大人の女の女の部分は何か単純では無い…恐ろしいと感じる事が出来た。決まって騎乗位で祖父にまたがる祖母の姿は女を身体で表現していた。単純な身体や顔の造作、若い肉体の新鮮さなどでは手の届かない次元で祖母は弄っていた。気のせいなのだろうけど…焼け爛れた母から匂っていた強烈な臭いに似た匂いが祖父母の寝室から…祖父母のセックスから匂った。 

私大人になってしまったら、女になったらどうしよう。死ぬほど全て捧げなきゃいけないのだろうか?吸血鬼のように死ぬまで貪らなきゃいけないのか?女を保つ為に差し出すふりして獲物をとらえたら全てすいつくす。

普通で良いよね…友達のお母さんみたいに…普通で…

 

小林七子が生前入るのを拒否した墓の前に七子の夫と娘は立っていた。自分達より早く誰か来た様子で線香のかすかな匂いと白い百合の花が供えてあった。
七子の夫は百合の花を抜きとって持参した菊を供えた。七子がガソリンをかぶって焼身自殺してから3年後の命日だった。見事な白い百合の花を靴で踏み潰しながら墓石をにらむ父親はなんだかみっともなかった。踏み潰されている百合よりもかなり貧弱な菊が申し訳無さそうに風に揺れていた。

「あっ…」小さい声が朱里から漏れ、…朱里の太ももに生暖かいものが流れてきた。「お父さん…トイレ…お父さん…」白い百合の花弁の上に朱里の初潮の血が付く時まで父親は恥ずかしくてどうして良いのかわからない娘の声が聞き取れ無かった。
「何やってるんだ…朱里…汚いな…」やっと娘の人生の一大事に気づいた父親はただ動揺してそう口走った。
朱里はただただ涙が出た。悲しかった。恥ずかしかった。悔しかった。自分が女である事を呪いたかった。

朱里はトイレで1人処理をした。トイレットペーパーとお気に入りのハンカチを赤く汚して必死で太ももやふくらはぎを拭いたが何だかうまく全ては拭ききれない。祖母から言われてナプキンは持ち歩いていたがこんなふうに初潮を迎えるなんて想像もしていなかった。一度止まった涙が又頬を伝ってきた….。あの百合の花が無かったらお父さんはもっと優しかったのかな?朱里はふと考えたが…もうどうでも良いのだ。これから何十年と女の身体は毎月出血するのだから…男の父親には自分の気持ちはわからない。女の私の事はわからない。わかろうとしてない。
トイレから出ると所在無い父親がいた。
「悪かったな…タクシーで帰ろう。後でケーキでもかいに行こう。」
「何かお腹痛いから今日はもう家で寝るね…ケーキ買う時にナプキン買ってきて、おばあちゃんには少ししかもらってないから…」
「え無理だよ…男だぞ俺はいや…それは…」
所詮その男その程度であった。父親だと威張っているだけで、自分の許容範囲内の愛情しか発揮できない…。お粗末。
「じゃあケーキも自分でかうからお金ちょうだい。あと…血が付いたパンツとか洗う洗剤とかも買うから…あとあと…生理用のパンツも何枚か買うから、5千円位お金ちょうだい!」
財布から出した父親の5千円札を朱里は自分の財布にねじ込んだ。タクシーの中では気まずい沈黙が続いている…父親の靴には踏みつけた百合の花びらがこびりついていて、朱里の太ももには拭いきれていない血のかすが残っていた。そのせいだろうか…タクシーの中は甘くて血なまぐさくてムッとしてその匂いは鼻についた。

「お客さんすいませんちょっと…空気入れかえたいから窓少しあけますね。」

運転手は後部座席も5センチほど窓を開けて異臭を外にだそうとしたその時…不意に熱風が入りこんだ。たちまち熱風は父親の靴底の花びらのかすを舞い上げて、朱里の太もももと子宮のあたりを優しく撫でてながら通り抜けた。

「お母さん?」朱里は3年前の母が骨壷から抜け出した時を思い出した。「な、なんだ熱いなあ!おい!後ろの窓閉めてくれよ!」

父親は熱風に驚いて慌てて足をバタつかせた。

運転手はブツブツ言いながら後部座席の窓を閉めた。

 

第二章 

雨がふり続いている。目覚めても又眠りにつくと見てしまう悪夢の様に絶望的にふり続けている。梅雨特有の湿った空気のせいで寝具が全て気持ち悪い。何処にも行く気がしないし、怠くて怠くて仕方ないが、このまま自分の部屋にいたら身体ごと心が腐乱していきそうだ…悪夢から目覚める為に朱音は起き上がりベッドの下に転がっている自分のパンツを探して履こうとした。
「何やってんだよ…」
隣に寝ていた髭顔の男がその手をはらいのけて素早く朱里をよつん這いにして後ろから抑えつけた。
「もういいよ…ヤダ離してよ。」口先だけで拒否した朱音は髪をわしづかみにされたまま腰に噛みつかれた。「痛い!」朱音の腰には歯型がついて血が滲んみ赤く腫れ上がっている…それから何回も朱音のお尻を連打しながら痛がる朱音を後輩位で髭面は犯した。「ほら絞めてやるよ!苦しいだろ!大好きだろ?もっと泣けよ、泣いて喜べよ!」「苦しい…苦しいよ…xxx」「なんだよ?もっときつくしたいのかよ?死んじゃうぞ?」「死ぬ死ぬ…うっっっもうやめて…イクからやめてお願い…」頸動脈がバクバクと閉められたり弱められたり朱里の意識は空を舞っている。

どのくらいそうしていたかははっきりしなかったが…腰の歯型も、叩かれたお尻も、最中で絞められた首もくっきり赤かい痕跡になった。
何度も果てた朱音は上気したまま又ベッドに吸い込まれた。

「私腐っちゃう…」情慾と痛みしかない今の時間は天国みたいな悪夢。
やまない雨と身体のいたる所から感じる鈍い痛みはこの悪夢を上手に演出してくれた。

汗と唾液と湿気のカビ臭さが生臭く鼻をついた。覚めた朱里は気持ち悪くなり今度こそここからはい出た。窓をあけると外の湿度が更に部屋の空気を水っぽくしたが生臭い空気は緩和して行った。
朱里は今度こそ下着も服も着て歯を磨いた。性は生の最初の場所で生は生臭いのか…相変わらず外はシトシトと雨がふり続いている。

「今何時になった。?」「3時半だけど…帰る?今日は香(かおり)の家にいくんでしょ?」
「あー行くけどさあ…あいつ帰ってくるの8時位だし今日は会社で立食パーティーらしいよ。まあ…明日土曜日だし一応行くけどさ今日2回も出しちゃったからもうやれねーな。」

そもそも髭面は朱音の親友香の恋人だ。
そんなつもり無かったのにズルズル髭面とドメスティックなセックスを頻繁に繰り返してしまう。

「あんただったら一日3回くらい出来るんじゃない?相手が変われば気分も違うし…」ぶっきらぼうに答えた朱里を愛おしそうに優しく後ろから抱きしめた髭面はさっきまでの荒々しさとは別人だ。「朱里だから何度も出来るんだよ…俺の好きな事して喜んでくれるし…最高だからさ。」

朱里は小さく溜息をついて髭面の腕をふりほどいた。

「じゃあさあ…ご飯食べにいかない?蒲田に新しい回転寿司出来たんだよ!どうせ蒲田に出てから帰るでしょ?」「回転寿司か…寿司ならいいよ!焼き肉とか肉料理は無理だから…朱里と食いにいくのは…」
「なにそれ?意味わからないんだけど…」

ふりほどかれた腕を又後ろからまわしながら髭面は朱里の耳を甘噛みしてささやいた。
「お前が肉とか食べてる所みてるとさぁ…すっげー勃ってくるんだよ…いつもさぁお前の事食べてるつもりなのに、なんだか本当は食べられてるのかな…俺…とにかく勃起しながら飯は無理なんだよね…」 

13年前に朱里は処女を喪失した。

最中朱里は余りにも痛いので、痛い痛いと泣いたら相手の男が口に大きなアメ玉を放り込んだ。
「痛いよね朱里ちゃん…でも今は仕方ないから暫くしたら慣れるから、慣れたら違う痛みが欲しくなるよ。でもこれなめてたら気も紛れるでしょ?女は他の欲に気をとられていても出来るんだよ…男は無理だけど…じゃあ続きするから。」

今思い出しても変わった男。見た目も言動も悪がっている髭面とは反対のやさ男の医大生で朱里の家庭教師だった。確かにアメ玉の甘みが口に広がると不思議と膣の痛みが和らぐ気もした…。
「先生はね、バイセクシュアルなんだよ。男とやる時はネコ役ってわかるかな?入れられるほうだから朱里ちゃんの痛みは少しはわかるつもりだよ…アメ玉いれたら楽だったでしょ?」
コンドームを外してペニスのつけ根についた血液をティッシュで拭きながら家庭教師は淡々と話をした。
「うん。確かに楽だった…先生も男の人とした時何か食べたの?」膣のまわりで、まだにじんでいたり、太ももに飛んでついた血液を拭きながら朱里も答えた。

「先生は食べ無かったよ、先生の相手の人物凄く早かったから…」

家庭教師と朱里はクスクスと笑いながらティッシュを持っていない手でハイタッチした。
「来週から、予備校に切り替えるから今日でお別れですね。ありがとうございました。勉強は嫌いだけどね…先生は好だったからたのしかったです。最後に思い出も出来たし良かったです。」

「受験も頑張ってね何かあったら携帯に電話して大丈夫だからね。」 

性欲と食欲は相反するものなのか?
アメ玉が甘く溶ける感覚と痛みの中から滲み出てくる快感は似ていたし…口内の感覚を刺激すると快感と快感を導く興奮が得られるのに…やっぱり勃起しながら焼き肉を食べるのは違うのか…。朱里は懐かしい思い出がチラチラして目の前の髭面が、どんどんどうでも良くなってきた。
数十分後朱音は髭面と回転寿司屋にいた。普通にビールを飲みながら寿司をつまんでいる。二人には共通の音楽の趣味があるのでそんな話題で盛り上がっている。

まわりからみたら普通のカップルなのだろう。朱音の首のまわりの赤い絞め跡に気付く人は居なかったし…。
「朱里の来週の予定は?休みはやっぱり金曜日?」
右手でエンガワをつまみながら左手は朱里の太ももを触っている。外でも部屋でもホテルでも…髭面は甘々な高校生カップルの様にスキンシップしたがった。セックスの最中は浸すら罵倒して身体中傷を付けようとするのに。飴と鞭と言うには余りにも稚拙で10歳位の男の子が母親にやけに反抗したり夜だきついて寝るのを、せがんだりするのと似ていた。そんな行動を母性で可愛らしく思う女はこの世の中にゴロゴロしているが、朱里はあいにくそんな母性は持ち合わせていない。手を握られても5分たてばお互いの手汗が気になって振り払ってしまう。
「来週も金曜休みだよ。月曜火曜が遅番で水曜木曜が早番です。今の所はプライベートの予定は無いよ…ビールもう一杯頼むね…あと…人目がある時はさぁ、身体触ったりするのやめてね…誰か知り合いが…いたら困るじゃん?香に殺されるなら仕方ないけど…ちょっと知ってる奴につべこべ言われたりさ、彼氏さんですか?とか聞かれるのめんどくさいでしょ。私が。」
「そっかそっか…気を使わせて悪いな。朱里が可愛いからつい触りたくなるんだよ…なぁ」
二杯目のビールを飲みながら二人は好きなアーティストのライブの話と今日から公開の映画の話をした。太もも、手のひら、ほっぺた、髪の毛…結局朱里は髭面にお触りされ続けた。
「じゃあ俺帰るから又月曜に部屋にいくよラインだったら土日でも大丈夫だぞ…いい子にしてろよ。」
朱音の頭をクシャリとなでて髭面は京浜東北線の改札に入って行った。時間は通勤帰宅ラッシュと重なったので、たちまち髭面は人混みに消されて行った。津波にのまれて行くようにも感じて、どことなく今生の別れのようだった。 

金曜日か…サービス業の朱音は金曜日休みで明日から週末の浮足立つ人ごみとは真逆な気分に落ちていく。
一人自分の部屋に帰るのは惨めな気がするし…適当に飲んだビールも程よくまわっている…。回転寿司を食べていた蒲田は人でごった返していた。買い物もさほどしたくない。今頃から誰かさそって飲みに行く気にもならない。自分の行き先を探しあぐねて人混みをながめていた時、朱里は軽い目眩に襲われた。同時に…気のせいでは無く人混から異臭がした…誰かゾンビでもいるのか?と思う様な死臭だ。今でもあの時嗅いだ匂い…燃えて爛れた母親の匂いがする時がある。今漂う匂いは少し違う…何だか肉が腐っているようなチーズの強烈な匂いのような生ゴミが酷く腐乱しているような…とにかく酷く気持ち悪いのに、なんで、皆平気な顔をしているのだろう?

自分がおかしいのか?何だか怖くなって朱里は池上線に飛び乗って蒲田から逃げ出した。
不思議なもので電車に飛び乗ったらさっきまでの匂いは全くなくなり悪夢から覚めた様に普通の状況で、普通の池上線に乗っていた。
母親の七子の事が頭に過ぎった。何か母からのメッセージなのだろうか?似たような事は今までに幾度かあった。
それは朱里の一大事というよりは…七子自身が関係している時だった。初潮になった時…今思えば朱里への気持ちではなく、百合の花を踏み潰された事への抗議だった気がする…。

アメ玉をしゃぶりながら痛みに耐えた初体験の時も。酷いいじめにあって手首を切って救急車に乗った時も…朱里にとっては一大事な時は全く何も起きたためしはなかったのに…。七子の遺品を廃棄した日は勝手にガスコンロがついてボヤになったし…七子の携帯電話のロック解除しようとしたら、いきなり携帯電話が発熱して壊れてしまった。そしてそんな事が起こる時は決まって朱里は目眩や、異臭を感じている。

お母さん…何かあったの?何があるの?

心霊現象。心霊現象?朱里は誰にもこの不思議な感覚を話さない。話せない。話す必要がない。

蒲田から池上に着いた。異臭から逃れて4分。
結局自宅駅まで帰って来てしまった。今日は何処かに行っちゃ行けないって事かな?改札を出て長くない商店街を少し歩いて踏切を超えた。後5分も歩くと自宅だったが、以前から気になっていたバーに寄ってみよう…ふとそんな寄り道が頭に浮かんだ。

家から5分位…その店のドアを開けてみた。
「いらっしゃいませ。」
ハスキーなマスターの声とチャンダンのお香、そしてタバコの匂いが朱音の耳と鼻をくすぐった。
「初めまして。カウンターのお席にどうぞ…」
50代頭位なのだろうか…ハスキーな声がよく似うダンディでセクシーなマスターはコースターを朱音の前に置いた。
「何飲まれますか?」
「初めましてです。え…と、ラムコークお願いします。」
朱里は頬が熱くなった…しかも急にドキドキして久しぶりに大好きだった初恋の人に出逢った気分だ。
え…何なの私…まるで誰かの気持ちがすっぽり入りこんでしまったみたい…朱里は驚きと戸惑いで声が出そうになる。それを抑えるのについ口を手で抑えた。
「ラムコークどうぞ…ん?口どうかしたの?」
すかさずマスターが朱里の様子をうかがってニコリとした。タレ目の目尻にシワがよってチャーミングな笑顔だった。つられて朱里もニッコリしてグラスを手にとった。

「いただきます」
一杯目のラムコークを飲み終わる位にはマスターの名前が、亮太(りょうた)である事。常連さんはだいたい9時以後に来るので7時過ぎの今頃はお店は暇である事…舞台俳優を若い時からやっていて、舞台のある時は他の劇団仲間がお店を営業している事。そして70年代ロックが好きでバツ1今は独身…。そんな自己紹介を朱里はドキドキする心で聞いていた。
「私最近は舞台…お芝居は観に行って無いですね…昔は…子供の頃は母が芝居が好きで、二人で観に行っていました。下北沢の…なんだっけ?狭い階段のアパートみたいな造りなんだけど…いがいと人が入る劇場…世田谷カトリック教会が裏にある所…」
朱里は20年以上前の記憶を甦らせていた。

お墓参りをして暫く歩く…母と手を繋いで…母の手は冷たくてサラサラしていて気持ちが良かった。いくらつなぎ続けても手汗なんて感じる事は無い。

「今日もお芝居観て帰ろうね。」

母は楽しそうに優しく何時もより幸せそうな顔で、ニコリとする。芝居を観るのは昼公演で…お昼ご飯は駅前のマクドナルドだった。ハッピーセットの玩具が嬉しくてご機嫌な朱里。芝居を観に行くからご機嫌な母。そんな二人の高揚感をクールダウンするのが世田谷カトリック教会のルルドだった。
何故か芝居を観る前はルルドの前に行き母は何か祈っていた…それは懺悔をしているように朱里には映った。クリスチャンでもないのに…母はここで心を鎮めていた。そんな母は何時もより柔和にもみえた…ルルドのマリア像をみているとそうなるのだろうか…母性が注入された母の顔でずっといて欲しかった…それだけは今でも朱里の心にしっかり残っている。しかし残念な事にルルドから出て2分後…劇場の階段を登りチケットをもぎって、客席に座る位には…びっくりするほど艶っぽくギラギラしているのだ…口紅を塗り直した訳でもないのに唇は濡れて身体中から甘い匂いが漂った。
「スズナリじゃない?その劇場」亮太から簡単にアンサーをもらい朱里は我に戻った。
「そうです。そこです。子供だったからあんまり覚えていないけど…今思えばアングラな芝居をみていたきがします。なんか良くわからない場面があって…でもお話は、はじまってちゃんと終わる…で、けっこう面白かったのを覚えています。」
亮太は真っ直ぐ朱里を見つめる。朱里は身体の芯が熱くなって下半身が、濡れてきた…自分でも驚くほど亮太に反応している。
「俺出てたりしてね…俺の劇団アングラだからさ!もうお母さんも観に行ってないのかな?」
「あ…母は事故で亡くなってしまって…父は観劇の趣味は全く無くて。私もタイミング失って…行ってないです。あ、もしマスター出るなら教えて下さい。久しぶりに観たいなぁ。」

亮太は一枚のフライヤーを朱里に渡した。少し先の芝居のフライヤーだった。寺山修司の作品で、役者の写真がのっていた。その一人に亮太もいた。二杯目のラムコークが半分くらいになった時には…朱音の名前と、平日休みで池上に住んでいる事。映画が大好きでエイドリアン.ライン監督作品のファンである事、東京出身である事を亮太に話した。

「エイドリアン.ラインかぁ…若い人からなんか懐かしい名前聞いたなあ…俺のイメージはやっぱりナインハーフとか危険な情事とかエロティックだけど綺麗で少しせつない感じの作品なんだけど…そう言うのが好きなの?」「私が一番好きな作品はロリータです。ロリータって…映画だとキューブリックがポピュラーだけど私は原作読んでから観たから…エイドリアン・ラインのほうが好きです。あと…フラッシュダンスかな…勿論不倫物も観ましたけど。」
「え?フラッシュダンスってエイドリアン・ラインなんだ…俺リアル世代なのに!知らなかったよ。役者やってるのになんか恥ずかしいよ。教えてくれてありがとう。」
亮太は豪快に笑い飛ばした。つられて朱里も笑ってしまった。話の内容はさほど笑えないのになんだか二人は笑い合った。
「あ、ラムコークもう一杯お願いします。あと…トイレってあそこのドアですか?」

トイレに入ると朱里は我に帰った気がした。用を済ます時下着が濡れているのに驚いた…あきらかに自分から発している感情や感覚では無い何かに支配されている。亮太をみると胸の奥から熱くてせつない感情が湧き上がる…今まで一度も味わった事がない感覚…もしかしたらこれが胸が締め付けられる…ってことなの?亮太の仕草や声、全てに欲情する。まるで盛りのついた動物だ。朱里は怖かったトイレから出たく無かった。きっとこのドアを開けて亮太を見れば自分は桃色お化けになってしまう。でもそんな心とは裏腹に鏡の前で髪を整えて化粧直しをしていた。そしてドアを開けた。

カラン…気持ちの良い氷の音がしてコースターの上に3杯目のラムコークが置かれた。
「朱里ちゃん?ひとつ聞いても良いかな?」
朱里が良いも悪いも答えていないのに亮太は続けていく…
「店に入って来た時から気になってたんだけど…首の赤い跡って締められてついた跡だよね?」
カウンターから伸びた長い亮太の腕が目の前の視界を遮り、長い指先で朱里の首を撫でた。今まで味わった事の無い高揚感でいっぱいになった朱里は、ただ首を撫でられただけなのに我慢が出来ない性欲に襲われた。朱里の身も心も制御不能になった。

「ここだけじゃないの…」
朱里は自分から服を脱いで白い肌から浮き出た真新しい傷たちをみせた。店の鍵を閉めた亮太はその傷の一つ一つを優しくなめ上げた。朱里の中にいる誰かがひどく歓喜している。自分では無い誰かのリビドーは凄まじいものだったが…亮太はそれを全て受け止めて答えていた。
「こんなきれいな肌…可愛い身体をこんな風に傷つけたらダメだよ…こんなに素直に感じてくれるのに…可愛い…すごく嬉しいよ…」
朱里の身体は何度も絶頂した。朱里自身は初めて亮太とのセックスしたのに、全てこの快感を身体は既に知っていた。もはや朱里の身体であって朱里の意識ではなかった。

「綺麗だ…女神みたいだ。又女神に会えたんだ…う…」
朱里のお尻に射精した亮太は申し訳なさそうにそれをふきあげて朱里を抱きしめた。
「君の首にある締め跡がどうしても気になったんだ…朱里ちゃんはそんな子じゃないと思ったから。ごめんね。」

朱里は三杯目のラムコークには口はつけなかった。二千円を亮太に手渡した朱里に亮太は千円札一枚だけ受け取った。ラムコークは一杯650円だった。
バーから出て5分間…自宅に帰る間には朱里の中の何かはいなくなった。

いつもより熱めのシャワーを朱里はしっかりと浴びた。締め跡も歯形もとれなかったけれど…バーでついたたばことお香の匂いは落ちた気がした。酷く疲れた朱里は何も考えず、何も感じず…眠りに落ちた。

女性用下着売員の朱音の土日は忙しいくて慌ただしい。仕事に追われて疲れ果てて終わってしまうのが常…土曜日の夜、日曜の夜、亮太の店の前を通りながら帰宅した。やはり9時以降が忙しいらしく…店の外まで騒がしさが伝わってきた。亮太に会いたいとも、セックスしたいとも…セックスしたことを後悔したりもしてはいない。店の中で感じた感覚はもはや嘘のような本当…とにかく後ろ髪を引かれることもなくすんなり帰宅出来た。

まだ9時過ぎだからよいかな?朱里は洗濯機を回した。キャベツに鶏ガラの元とめんつゆをかけてレンチンしながらウインナーを焼いた。簡単なつまみが完成すると缶チューハイを開けてソファーベッドに座り込んだ。熱っ…ウインナーの肉汁が口の中をいじめた。
一人の時間は嫌いじゃない。自分勝手に寝て食べて起きる。結婚…子供を産みたいと思うこともある。でも…自分すら大事に出来ない自分になんて…。母性の先っぽすらいれらたことないし。
(よい子にしてるか?この間話した映画みたよ!面白かった。良かったらこんど一緒にみようよ!二回目も行けそう)
珍しく日曜の夜に髭面からラインが届いた。スマホを開いたついでにインスタをのぞいてみたら香の投稿が最新で上がっていた。髭面との写真と映画の感想そんな諸々が心ではなくて目に飛び込んだ。
…そもそも髭面は朱里の親友の恋人だ。そんなつもりなかったのにズルズルとドメスティックなセックスを繰り返す自分が嫌で罪深くて哀れすぎて週末になると何かに懺悔している。自分はちっともマゾヒストでないのに…髭面が求めると同じことを繰り返す自分が理解できない。

回していた洗濯が終わったようだ丁度うまいタイミングで缶チューハイも飲み終えた。
洗濯物をベランダに干した。ほぼ満月な夜はほんのり夏の匂いがした。

 明日は来るなと髭面に連絡を入れよう。
恋しくも愛しくも無いから…叩かれても噛みつかれても首を絞められてもほかの女の所に帰っても…痛くも痒くもないんだ。
心と身体はリンクしている。愛しくて恋しいたまらない人に捨てられた心の痛みを自らの身体に与えた母親七子…心と身体の痛みのバランスを取ろうとしていたのかもしれない。ふと朱里は考えた。

八百屋お七の輪廻転生…祖母がまことしやかに話していた言葉が急に嘘くさく思えた。しかも何度生まれ変わっても自分の娘が焼け死ぬなんて…酷すぎる。親友と思いながらその親友の恋人と平気で寝る。しかも好きでもない男なのに…そんな自分。このメス豚三世代母子!酷い現実にもはや朱里は苦笑した。
(もうわたしのところには来ないでね。もうふたりではあわないからね。」
ただそれだけのメッセージを髭面に送った。何でこんな簡単なことが今迄出来なかったの?
この勢いで全ての悪行を、何もかもを、香にぶちまけて…怒号罵倒…場合によっては殺されてしまいたい。わがままにそんな妄想も月を見上げてしてみた。

髭面とのラインもSNSも何もかもとにかくブロックした。一昨日までの絡み合いは自分にとって何だったのか?まだしっかり残る歯型や首の赤い絞め跡…それらが忘れ物みたいに朱里の身体に記されて残っていた。身体の傷なんか刺青じゃあるまいしすぐ消えるのよ…。そうしばらくしたらね。

梅雨は明けてセミがけたたましく鳴いている。髭面とは音信不通のまま一ヶ月弱が立ち上がたち朱里の身体は綺麗になった。とにかく数え切れないほどの傷は新しくくわえられることなく癒えていった。

 

第三章

「片倉!池上の火災の件なんだけど…ちょっと話いいか?」

警部補によびとめられた刑事の片倉は…刑事というよりは身なりもしゃれていてアパレル業界にでもいそうな青年だ。
「あ、行政解剖にまわしたんですよね…どうでしたか?伯父も火傷の状態が不自然だから気にしていましたよ。まあ伯父…も若い時はICUにいたりしたんで熱傷の患者はかなりみているみたいですが…なんですかね…一酸化炭素中毒の死因なのだろうけど、下腹の熱傷深度が酷すぎる、故意に焼かれたにしかみれない。【中世ヨーロッパの鍋責め】拷問かよ?みたいな事ブツブツもらしていましたけど。あとたまたま現場近くの開業医としても警察の役に立てて良かったって、よろこんでました。」
警部補はしばし苦笑してからもったいぶる咳払いをして手持ちのエコバッグから缶コーヒーを出して片倉刑事に手渡した。
「おじさん中々面白い人だな。くれぐれもよろしくな…まあ検死の時も同じ事言われて、珍しく解剖してくれたんだがな…やはり死因は一酸化炭素中毒だな。後…かなりアルコール摂取していて酔いつぶれていたようだ。お前もみただろう?あのおびただしい蝋燭の量…。まあ事件性はなかった。自殺でもないようだし。上からもこれ以上深追いするなとのことだ。まあ俺もおじさんと同感であの局部焼肉は腑に落ちない。拷問ってよりは俺的には阿部定の八百屋お七バージョンだな。なんだか女の情念の跡みたいだった…今回の件はあれだ。つまりあちらの案件だな…俺たちが税金使って動いてどうのこうの問題じゃないな。久々のあちら案件だな」
警部補は勝手に納得してして片倉刑事の肩を叩いて立ち去ろうとした。
「いやあの…俺も色んな現場見てるつもりです。あの、あちらって…心霊現象とかですか?警察がそんな非科学的な理由で終わらせてよいのですか?しかも解剖までした監察医もその結論なんですか?死んだ人の声を拾う為に我々がいるんですよね?」
警部補はニヤリとしながら今度は片倉刑事の肩をしっかりとつかみながら優くささやいた。
「俺だって何度も出会えてないし、出会いたくもない。勿論お医者先生なんて科学的な事言わなきゃ飯食えないんだよ…でもな…たまーにあるんだよ。ノンキャリアの現場育ちの上司さんも小さい事故だから適当にしろよー。とはいってないから安心しろ。まあそうだな…結論を出すのはお前が最後で良いぞ。その代わりちゃんとまとめろよ。日本の警察らしい感じで。エックスファイルじゃだめだぞ。今この状態で事情がわかるのは死亡者の店に入ろうとして火傷で重症の女だね…まあその重症さん…事件のショックで失声症になってるらしいから中々話するのは難しいかもね…でも裏を返せばそれだけすごいもの見たのかも知れないな。死亡者の身内は今の所いないみたいだな…親兄弟皆さん東日本大震災で亡くなったらしいから。とにかく今週中はこの件でうごいても大丈夫にしておくよ。」
今どきの若者らしからぬ昭和の正義感発言のせいなのか、警部補の意地悪なのか?何だか面倒くさい事になってしまった片倉刑事はとりあえず警部補から渡された缶コーヒーを飲みながら池上火災事故の資料を読み返した。ここまで自分で調べているのに…なんで俺にまとめさせるんだよ…パワハラ上司め!…今週中夜のデートは無理だろう…そんな事も頭によぎらせながらため息をついた。 

朱里は病院のベッドで祖母の話を聞いていた。
【火災事故に遭遇して火傷を負った。左右の足の火傷が酷く、左右の肘下から手のひらまでと…頬にも深い火傷ができてしまったらしい】
そんなことおばあちゃんに説明してもらわなくても目は見えているし…痛みも自分が一番よく分かっている。言い返したいのは山々なのだが綺麗な肌だけでなく朱里は声も失っていた…失ったといっても喉が焼けてしまった訳ではなく。いくら声を出そうとしても出ないのだ。【心因性失声症】医者はそう告げた。
「心理的なストレスや心理的葛藤なんかでね…突然なるんですよ…事故の直後ですからねぇ…傷の治療が進んで痛みも和らいできたら心療内科治療されても良いかと思いますが、気持が落ち着いてきたらふと出たりもしますしね。手の甲も火傷があるので鉛筆持つのもきついかと思うのでスマホか、パソコンでお話されるのをおすすめするので用意出来ますか?一応病院の筆談ボードも後でお持ちしますね。」
医者の言う通り鉛筆も筆談ボードのタッチペンも握るのが辛かったので、面倒くさいし…今は何も話す気力も出なかったので、ひたすら祖母の話を聞くに甘んじた。
「朱里…昨日貴女のお父さんが警察の人と話をしたみたいなんだけどね…火事の現場で貴女以外にも通行人が何人かいて煙をみたそうね。そんな中…朱里だけがお店の中に入って火傷をしたみたいだけど…あの…あの店のマスターとは知り合いだったのかしら?」
祖母の顔はこわばりながら笑おうとしているので気持ち悪かった。未だに綺麗なお婆さんだが流石にしわだらけの顔で変な表情されると実の孫でも後ずさりしたいが、寝たきり雀なのでそれも叶わない。仕方なくそのままこくりと、頷いた。
「あのマスターさんね。亡くなったそうなの一酸化炭素中毒だそうよ」
そのまま言葉に詰まった祖母は下を向いて嗚咽したままグズグズハンカチをもじもじしていた。
かつて男に馬乗りになっていた妖艶なカウガールはすっかり姿を消してしまったようだ。さすがの祖母も灰になるまで女ではない。物乞いの老婆みたいな祖母をみて朱里は酷く安心した。少女の時に感じた女をであることを貪り続けていくプレッシャーから解放されたのだ。何だか声が出るような気がした。
「お…ぱあち…ん。亮太…おか…さん。」
かすれてやっと出た声をなんとか聞き取れた祖母は余計に泣いた。今度は号泣していた。母や祖父が死んだときにもそれなりに取り乱していたけどそんな時よりも余計に余計に泣きじゃくった。そう、、、老婆が身体を小さくして泣いている。
そんな時に朱里のスマホがけたたましく鳴り響いた。朱里の父からだ。祖母は瞬時に取り繕い朱里のスマホに出た。高齢なのに起点と勘の良さ機械の扱いが達者な彼女は、朱里にも通話を聞かせる為にスピーカー通話にした。

「朱里?朱里か?病室に行けなくてごめん。実はなお父さん…本当はいの一番で病院に行きたかったんだが、その何というか…お母さんの時のことが頭に浮かんでどうしても具合が悪くなっていけないんだ。申し訳ない。情けないな。勿論おまえの傷は何としてでも治していこう。退院したら家に帰って来なさい。新しいお母さんも出来るからお前は元気になるまでは身の回りのこと気にしなくていいんだ。勿論新しいお母さんもこのことは承諾済みだよ。あ、あとな…警察と話をしててきた。おまえの話を聞きたいみたいだけど…とりあえず断ったよ。ただお前の連絡先は教えたよ。」
矢継ぎ早に自分の話をした父親の一呼吸の間に、すっかり呼吸を整えた祖母がかつてのように艶のある声で答えた。
「あの…朱里は今会話が出来ないんですよ。今スピーカー通話になっておりますから勿論朱里も聞いておりますけど…もしこちらに来れないならラインとか文字のやり取りにしてください。今日朱里のノートパソコンを用意しましたから簡単な返信ならできるかもしれません。でも手の甲辺りまで炎症していますのでその辺りわかってください。警察には朱里が今しゃべれないことは話したのですか?私がいないときに電話をしつこくかけてきたら困ります。それと、私にとっては関係無いですが再婚の話きちんときまったら報告だけはしてくださいね。朱里が退院後どうするかは子供じゃあるまいし…すきにさせましょう。」
「あ。お義母さんすいません。そうでしたね。朱里ごめんな…あの警察には声の話はしました。あの…じゃあこれからはラインしますよ…あの再婚の話は朱里にはしていたのですが、ご報告が遅くなって申し訳ありません。又あらためてお話させて下さい。朱里のことお願いします。」
「私にはメールやラインしないでくださいね目が悪くてパソコンでも長い文章はきついのでね。朱里もニコニコ手を振ってますから切りますね。失礼いたします。」
かつての義母息子の会話は終わった。朱里は声は出なかったが笑った。
父親が自分の姿を見れないのは察しがついた。くろこげの母の姿があの匂いが相当トラウマなのだ。父子家庭でそれなりに頑張ったのだからもう黒焦げから解放されたいのにきっと自分の傷跡をみたらいやでも思い出すのだろう。仕方ないもう父親にはあわないようにしよう。朱里は笑いながら心に刻んだ。不思議と悲しくなかった。ほっとした。父親を愛していない…そう思った。昔からそう気づいていたけど父親がかわいそうで認めてなかった。でも今認めた。お父さんを愛していない。彼を愛していない。愛したことはなかった。たまに愛したふりをしていただけ。以上 

「今の電話聞こえたよね?おばあちゃんのあの対応でよかったかな?朱里の火傷はひどくないし跡だって消せるのにお父さん本当にいくじなしよね…まあ七子のせいだろうけど…男って本当にデリケートで面倒くさい。あ、貴女のお父さんなのにごめんなさい。」
朱里は笑いながら首を左右にふった。そして親指を立ててグーさいんをした。祖母もグーさいんをして笑った。時計は夕方の5時を回っていたのを確認した祖母は、身支度をして朱里の右頬を撫でた。

「じゃあ明日も来るからね。もし何か必要なものあればラインしてね。細かい字は見にくいから出来るだけひらがなとカタカナにしてね。あと…さっき頑張って声出して伝えてくれたこと…無理して色々教えてくれなくて良いから。あとね…お父さんは亮太さんの名前は知らないから安心してね。知っているのはおばあちゃんと朱里だけね今生きている人間ではね…」
祖母は病室を静かに閉めた。祖母がいなくなり急に朱里は寂しくなった。寂しいよりは何だか怖いのだ。自分でもよくわからない胸騒ぎがしてきた。気のせいか消毒薬の匂いがさっきよりも鼻につく感じがした。とりあえずスマホに手をのばして履歴やらを確認した。非通知設定の電話が何回かかかって来ていてドキリとしたが…警察からの電話が非通知かもしれないと、思い直して気分を落ち着かせた。友達からのお見舞いやら職場からの有給休暇の申請や休職のなんやかんやのメールがある中で…香からのラインがあった。髭顔と連絡をしなくなって暫く何もかも終わったみたい香からも連絡はなかったのに…急に現実が朱里の脳内を支配した。
(暫くぶりだね…ご無沙汰してます。元気かな?実はね…最近新しい彼氏ができたのよ。その辺り話せてないから今度飲みに行こうよーお見合いパーティーで知り合った彼氏だから今回は真面目でまともなのだから安心してね。)
どうやら香は新しい彼氏が出来た様子だ…良かった。しかし自分のした全てがこれで消滅するわけでもない。そう思うと今の自分の今の姿がざまあみろだった。
(連絡ありがとう。実は私先日事故にあっていま入院中です。命には別条ないのだけど声を出せないので暫くは飲みに行けないのよ。ごめんね。退院したら連絡するね。新しい彼氏おめでとう)
何だか白々しいけど仕方ない。自分の十字架は自分で背負うのだ。丘に登って、はりつけになる勇気がなかったのだから嘘の十字架が…ときには重く、ときには痛く、自分をせめ続けるのだ。魔女は火やぶり…なるほどそうかもしれない。魔女は悪魔とののセックスは酷い苦痛と快感を味わうと…何だか自分の今の火傷の痛みも醜態も懺悔であれば地獄の予行演習みたいで致し方ないのかもしれない。とにかく香のおかげで火事の諸々だけじゃない自分の何かを思い出した。でも出来ればもう少しポジティブなものがよかったかもしれない。以前映画で観たジャンヌダルクのラストシーンばかりが脳裏によぎった。
香からの連絡以外は取るに足らないものなので、無理にいたみを我慢して返事をしないことにした。
「小林さん!夕飯ですよ。」給仕のスタッフが不意に部屋に入ってきた。「一応食べやすいスプーンとフォークにしてあるんだけど一人で食べられますか?もし難しかったらナースコールしてもらえば直ぐに看護師さん来てくれるからお願いしますね」
雑な感じの言い方に悪気はないんだろうけど…弱っている人間にはもう少し優しくして欲しいと思うのは患者の思い上がりなのだろうか?ベッドに置かれた移動式のテーブルの上の夕飯を暫く眺めていたら何だか虚しくなった…今日はホワイトシチューが出ていた。何だかはるか昔に食べた母親のホワイトシチューの匂いによく似ていた。なつかしくなって何だか涙が止まらなくなった…
そんなことを思い出していたらふと横に母の姿があった。若くて可愛らしい母の七子はにこやかに朱里の髪を撫でた。スプーンにホワイトシチューをのせて朱里の口に運んだ。朱里は泣きながら食べた。

「ちゃんと食べないと早く火傷が治らないわよ…朱里ちゃんはホワイトシチューすきよね?昔学校でホワイトシチューが出るといつも怒ってたよね?なんで学校のはまずいのよーって。お母さん凄く嬉しかったのよ。」
母親はにこやかにシチューを食べさせた。朱里は嬉しかった。母親が母親として自分を見てくれている。私だけのお母さんだ…幻覚でも幻でも何でもよかった私がずっとお母さんにこうして欲しかった。七子は朱里を抱きしめた。朱里は母親の腕を握った。

母親の腕の皮膚は握ると剥がれた。剥がれて下からは黒焦げの皮膚が露になった…朱里は七子の姿を恐る恐る見上げた…それはあの時の黒焦げの皮膚が所々めくれて出てきているのだ…あの時と同じ匂いで瞳は無くて白目で、でも多分自分を睨みつけていた。
「あの時あの人にどうしても会いたかった…あの人が欲しかった…13年もさまよい続けて我慢してやっとのことでお前の身体を借りただけなのに!お前は調子に乗って私より楽しみやがって……しかもあの人の心の中までいじくりやがって…とんだあばずれだよ。私は私は…ただあのひとが恋しいだけであとは全て無くなってよかったのに…肉も筋も目玉も骨も燃やしたかったの!そうすれば風や空気になってあの人の髪や皮膚にこびりつけたのに…お前とおまえの父親の嫌がらせのせいで骨の残骸を墓に入れたせいで不完全な魂のまま彷徨い続いているんだよ!」
朱里は酷い恐怖と同時に、正しいと思っていた母性や理性や倫理観そして愛をむしりとられた。黒焦げの悪魔から離れると、ベッドの反対側にも人間がいて朱里の肩を掴んだ。
「そーなんですよ。このあばずれは、わたしの彼氏をもてあそんで飽きたらいきなりブロックして涼しい顔してるんですよ…あの日も散々私の彼氏とSMプレイしてシャワーも浴びないのに…バーで他の男とやりまくって何度も何度も声出してぎゃんぎゃん騒いでいきまくったのよね?色情女!恥ずかしくないのかよ!」
香が自分を罵倒していた。当たり前の言い分だった。当たり前すぎて苦しかった。
「朱里…貴女のお父さんはどんな教育してたの?まさかあの父親ともねたの?早いし…つまらないし優しくもないから…あれじゃ物足りないわよね?でも友達の恋人と寝るのは駄目よ…まあ隔世遺伝なんでしょうね…あの婆さんも、とんだ淫乱だからね。私のむかしの彼氏ともその彼の父親ともやりまくってたのよ。しかも私の初体験の家庭教師ともわたしの部屋で…子供じゃこんな事出来ないでしょう?とか自慢しながら口でひーひー言わせて大喜びしてたわよ。私の大好きな先生だったのに…私とやりながらばばあの名前でいくのよ…本当に最低よね?朱里?そっくりじゃない?あんた。」
母親は皮膚をズルズルと自分で剥がしだした。はいだ皮膚は朱里の顔に投げられたり床に落ちたりして吐気のする酷い悪臭でたちこめると、七子はひーひーは喜んで、あの黒焦げの姿にすっかり脱皮した。白目のまま朱里のバギナをさわると…その指先は恐ろしく熱くて朱里はのたうち回った。反対側から香が来て朱里の乳房に噛みついてから首を絞めた。

「だいすきなんでしょ?ほらほらほら喜びなさいよ」

二人は楽しそうに笑いながら喜んで朱里をもてあそんだ。声の出ない朱里は必死でナースコールに手を伸ばした。苦しくて熱くて身動きが届かない…夕飯の何もかもが床に落ちそこらじゅうに食べ物と七子の皮膚が散乱した。ナースコールが押されたかは定かではないが、物音で看護師の一人が朱里の部屋に様子を見に来た。

「小林さん?どうかされましたか?こ…小林さんなにしてるんですか?落ち着いてください!や…」

若い看護師は部屋から逃げ出して助けを求めた。何もしないで仕事を放棄したということになるが、…看護師である前にひとりの若い女の子なので致し方ない。
若い看護師が見たのものは…

ナースコールをバギナに入れて激しくこすりながら左手で自分の首を絞めたまま笑いながら口には枕の四つ角をくわえながら渾身の力でなめていて…瞳は正気を失ってしろめをむいている女…朱里だった。 

朱里が目覚めると目の前に祖母が居眠りしていた。
どの位時間が過ぎたのか…何か思い出そうとすると…昨日までの火傷の痛みだけではない違和感があった。首の周りがヒリヒリするし、女性器に痛みと違和感がある。口の中も切れてるみたいで鈍い痛みがじんわりと広がる。そしてよくよくみると両腕は縛られていた。足は縛られていなかったがそもそも火傷の痛みもあるからうごかしたく無いが仕方がない…バタつかせて祖母を起こそうと試みた。しかし祖母はいびきをかいて熟睡している。仕方なくもう身体中動かせる所を動かして物音をだした。
「小林さん大丈夫ですか?」
飛んできて声をかけくれたのは祖母では無くて看護師だった。そこでやっと祖母も目を覚ました。
「小林さん。気分はいかがですか?おばあさまもいらっしゃいますよ。落ち着かれましたか?」
事故直後でもあるまいし…何で看護師がそんな風に話しかけるのかわからないが、とりあえずうんうんと頷いて、縛られた所を外してほしいと目で訴えた。
「小林さん今医師を呼んできますのでお待ちくださいね。あ…トイレ大丈夫ですか?」
朱里はうんうんと頷いておしっこを、処理してもらう。膣がしみて少し痛かった。すっかり眠りこけていた祖母は隣で無言で処理を見ていた。しばらくすると主治医ではない医師が看護師といそいそと病室に入ってきた。

「小林さん気分はいかがですか?精神科の医師で、渡辺です。昨日夕食中に意識が朦朧されたのですが…何か…その時の事思い出されますか?」
朱里が首を振って答えた。渡辺医師は看護師に腕の拘束を外させた。

「小林さん、パソコンでの筆談ができると聞きました。今日は、はいか、いいえの質問ですからパソコンは使わなくても大丈夫ですが…この先も定期的なカウンセリングをするのでその時はパソコンで、お話聞かせて下さいね。」
朱里は頷いて渡辺医師の目を覗き込んだ。精神科医とはどんな感じの生き物なのだろうか?目は心の窓なのだ…子供の頃からよく父親に言われた。だから嘘をつくとわかるし…笑っていても目が笑ってない人は無理しているんだよ…と。妻の浮気がわからなかった間抜け男が何を偉そうに論じれるのだろう?と、思いながらも朱里は出来るだけ人の目をみるようにしていた。

「しっかりと目を見てお答え頂いて嬉しいです。落ち着かれたみたいなので少しご説明いたしますが…小林さんは昨晩夕食中に意識が無い状態で自傷行為をされていました。命にかかわる様な行為では無かったですが…女性器を傷つけていたのと、ご自分で首を絞めていたそうです。あと枕をくわえていたそうです。だいぶ興奮されてたので鎮痛薬を打ちました。非常時の対応でありますのでご理解お願いします。婦人科の医師の治療もすんでいますので、まだ痛みはあるかと思いますが、ご安心ください。又目を覚まされて興奮されると危険ですので手を拘束していました。おばあ様には先に説明させていただきました。ここまでの私の説明でわからない点、納得出来ない所はありますか?」
朱里は一呼吸ついてから首を横に振った。渡辺医師の目は一度も笑わないのに口角だけはあがりつづけていた。きっと自分は面倒くさい患者なんだろう。それだけはよくわかった。…ありったけの思いを瞳にたくして朱里は医者の一重まぶたの眼を見つめて包帯の巻かれた手で医者の手を軽く握った。ほんの一瞬だが精神科医は普通の男の何かをみせた。朱里と祖母はそれを…見落とさなかった。同時に朱里は昨日の母親と香…いや、母親七子が自分にした事がまざまざと頭の中で蘇ってきた。
「小林さん色々ご理解頂いてありがとうございます。事故のカウンセリングも外科医と相談しながら無理なくしましょうね。痛み止めを飲んでも服用可能な安定剤を処方しようと考えてます。いかがですか?」
朱里は小さく頷いて黒目がちで大きくてまつ毛が長い瞳を潤ませる。

精神科医の口角はだらしなく下がり、いつの間にか渡辺青年になり…病室を出た。

「小林さん…何かあれば直ぐナースコールしてください。うちの外科のナースは精神科も経験しているのもいますしね。」
冷静に看護師は仕事をこなして出ていった。医師が仕事を見失っているのを見破っているかどうかはわからなかったけれど。

朱里は祖母と二人になった。ノートパソコンを無言で祖母は朱里にわたした。朱里はパソコンのノートのページの文字を出来るだけ大きくした。
(心配かけてごめんね。昨日お母さんが来て凄く怒ってた。小林の墓に入っているのが嫌みたい。私はその辺りよくわらないけど、勿論わたしのことも。私はおかしいのかな?でもこのままだとお母さんに殺されそう)
かつて妖艶だった祖母は優しく朱里を見つめた。
流石に今は80代の老婆であるのだが…目がだいぶ不自由なだけで、頭も感覚もほぼ昔のままで達者だ。
「朱里。怖い思いをしたね…可哀想に…七子は私の所にも来たよ。」
祖母は胸元を開いて酷いひっかき傷を見せてくれた。
「絶対に朱里の所にも行く気がしていたんだよ。あのね…あえて朱里には見せてなかったけど…20年前の遺書を今日は見せるね。昔のe-mailをずっと消さずにとっておいたのだけど…もう私はよく読めないんだよね字をどうやって大きくするかわからなくてね…でも内容は一語一句覚えているからね…しかしこんな時になんだね…わたしがよく読めなくて朱里には面倒かけるね」祖母はスマホをみせた。
(いつも好きな人ができるとあなたに邪魔された。やっと死ぬほど好きな人と愛し合えたのに朱里が可哀想だから一度別れようっていわれたの。私は全部捨てたのに。私は明石亮太と言う人に全てを捧げます。彼が私をいらないなら私も私なんていらない。血も肉も残さないで灰にするから。もしも私の骨が残ってしまったら墓に入れないで絶対に入れないで細かく砕いて風に紛れてあの人に会いにいくの)

いじらしいほど自分本位な感情だけの遺書。
七子にとって愛とは恋する自分自身の熱量のみだったのだろうか?母をしたう幼心や、娘を思う母性は愛ではなかったのだろう。

「このメールは朱里のお父さんにも転送したよ。ただ明石亮太って言う固有名詞はぬいたけどね…後…いつも好きな人ってのは…昔七子の家庭教師の男の子が何だか私に言い寄ってきた時の事かな?この遺書の散骨を希望した件は火葬場でお父さんと話したのは朱里も覚えてるかな?とにかくこのままお墓に七子をいれておくのは無理なのかもしれない…昨日みたいな事が朱里におきちゃだめだからね。どうせ医者に相談しても頭がおかしいからって薬漬けにされて退院出来なくなるだけだから。朱里はまだ30歳なんだから…これからなんだから…まともに生きなきゃダメなんだから。」
朱里は七子の大きなおっぱいが好きだった。白くて柔らかくて暖かい胸に顔をうずめると、決まって七子は朱里を優しく抱きしめた。この優しい愛情に嘘もまやかしも無いはず。 

心優しく美しい八百屋お七は恋をした。気がつくとそそのかされて火をつけていた。そのせいで多くのひとが焼けただれて煙に巻かれて苦痛の中で死んだ。恋しい気持ちはひどく利己的に化けて満足できない麻薬になる。
朱里の頭の中で恋に狂ったお七は黒焦げの七子だ。

暫くするとスマホに父親からメッセージが届いた。刑事が事故の話を筆談で構わないから少しだけ聞かせてほしいとのことだった。祖母がいる時間帯に電話が非通知でかかるから対応して欲しいと。朱里はこの文面をコピペしてパソコンの画面に大きい文字に引き伸ばして祖母に読ませた。更には刑事から連絡が来たら、明日以降で早めにきて欲しいと…その時のやり取り時には祖母の同席のお願いしたい事を書き加えた…。さらには明日までに警察への状況説明を兼ねて自分と亮太との関係を文章にするのでその時にちゃんと受け止めて欲しい…とも。
「そんなことおばあちゃんはしらなくても大丈夫だし警察に細かいこと話して何か疑われたらどうするの?」
丁度その時朱里のスマホに非通知の着信があった。祖母はもじもじして口をとがらせていたが…朱里が無理矢理スマホを手渡した。
「はい。もしもしそうです。私は祖母です。山本と申します。ええそうなんです。孫が今日お話出来る事を書き留めるそうなので。あーはいはい10時で大丈夫です。私も同席します…えーと中央病院の外科ですね。5階です。はい。わかりました。はいはい。では明日…ごめん下さい。」
通話を終えた祖母はスマホを朱里に手渡した。相手の若い男の刑声もスピーカー通話で、聞こえたので朱里は頷いて祖母に笑いかけた。ゴソゴソと鞄をあさり祖母は一枚の写真を朱里にみせた。赤ん坊の朱里を幸せそうな笑顔で抱いている七子…公園のような場所。
「御守りで、もっていなさい。これを見たらきっと朱里を傷つけたりしないはずだよ。あとお父さんには今度こそ七子を散骨出来る様に早く頼もうね。明日警察に話終わったらそっちの話を何とかしよう。お父さん再婚するなら丁度良いタイミングだし。私も後何年生きれるか…動けるかわからないし。そんなこんなで悪いけど昨日は私も眠れなかったから今日は帰るね明日は9時過ぎには来ますよ。」

朱里は御守りを眺めながら頷いた。祖母は胸元からもう一枚の御守りを出した。若くて綺麗な祖母が可愛いワンピースでリボンの七子ちゃんと満面の笑みを浮かべていた。朱里は親指を立ててグーさいんをして祖母を見送った。

御守りは肌身離したくなかったので薄いタオルに包んで胸元に入れた。不思議と膣の痛み、火傷の痛みも弱まった気がした。お陰で明日の為に用意する文章を打ち込むのもスムーズに出来た。
「昨日の傷はどうですか?首は時期に良くなりますよ。下半身の痛みがまだあるなら婦人科の医師を呼びますがいかがですか?渡辺医師の診察は済まれていると思いますが…今後も不安やイライラ何でもよいので何かあれば直ぐにナースコールでお知らせくださね。」
外科の女医は朱里の目を見ないでそそくさと立ち去った。
正直者だな…き○○いは…ここじゃないのだろう。そもそも朱里の火傷は広範囲ではあるけども浅達性Ⅱ度の火傷がほとんで長期入院は要らない。朱里も長く入院したいわけではなかった。足や腕に残る火傷もそのままで良かったし。退院後の自分も、とりあえず自分で生活したい…そのぐらいだった。 

片倉刑事は池上火災事故の唯一の事故現場目撃者である小林朱里の父親に連絡をいれた。が…なかなか本人と会えそうもないとの答えをもらう。警部補の言う通り朱里は失声症状になってた。そもそも喉がどうもなってないのに声が出なくなる意味が…やはりわからなかった。男が生理痛の物理的な痛みやでは無くて、イライラや諸々の苦痛が生涯理解出来ない、それと同じだった。物理的に実感もわからないけども;;
出火原因は店にあったおびただしい数のロウソクだろうとの事だった。こんな多量のキャンドルを焚いて何かの儀式をしていたのか?焼けた写真が現場に落ちていたことも考えると…もしかしたら誰かを弔っていたのかもしれない。

いずれにしても事故当時明石亮太のバー常連客2人が、店に入ろうとすると店から煙が出ているのを発見して通報。そこに後から店の前に現れた小林朱里がためらいもせず店内に入って2.3分後に火傷を負って飛び出してきた。店内で朱里の叫び声や怒鳴り声みたいなものが聞こえたと、常連客は証言している。
【他殺でも自殺でも無い明石亮太の死体の不自然な火傷】解剖でもわからない理由…そして警部補からの宿題提出期限は刻々と近づいてきた。思い切って片倉刑事は朱里本人に電話をしてみる…付添人の祖母が出てくれるかもしれないが…悩ましく考えあぐねていたがとにかく何もしなければ何もわからない。

「あ。お電話失礼いたします。私池上警察署の片倉と申します。小林朱里さんのお電話ですか?…そうなんですか…?あ、明日ですか?大丈夫です。ありがとうございます。何時に伺いましょうか?はいはい。病院の名前と病室を教えてください。なるほど…はいはい。では明日!失礼いたします。」
何とか約束を取れた片倉刑事はやれやれとデスクに座って伸びをした。

「なんだこの前の火事の宿題できたのか?」
警部補はニヤニヤしながら又コーヒーを差し出した。不意打ちにやってきたので片倉刑事はひっくり返った」
「あ、いやまだです。でも今さっき失声症の方とのアポとれました。パソコン使って話してくれるそうです。付き添っているおばあちゃんも一緒にいてくれるみたいだし…何とか状況聴いて書類作りますから来週頭には何とか出せますよ。」
ニヤニヤ顔から急に真顔になった警部補は、暫く片倉刑事を見つめてから頷いた。
「頑張れよ。信じられない事言われてもただ話だけ聞いて自分で消化して現実に変換しろ。あちらとこちらのバイリンガルにならなきゃな。」
この間からやけにこの事故を押し付けて、やけに脅してくる警部補の行動はもはやパワーハラスメントの域じゃないのか…なんの嫌がらせなのか?明日のことを考えて何か策をとらなくちゃいけないのか?不得意分野でやけに追い詰められた片倉刑事はこの事故の現場で明石亮太の死亡宣告をした医師の伯父に連絡を入れて助けを求めた。開業医の伯父と池上の居酒屋で待ち合わせをしたのでいそいそと仕事を切り上げた。

「どーしたんだお前から相談事なんて初めてじゃないか?驚いたぞ刑事さん!」伯父は今は開業医で外科を専門にしていた。
「忙しいのに悪いね伯父さん…あのさ…このあいだの火事の事…で…」
「おーちょっとまて!その先の台詞おれが当てるぞ!見事ご名答なら今日はお前のおごりな!えーとそうだな。あの後に…あの一酸化炭素中毒なのに陰部のみ激しい火傷の彼は解剖されてやっぱり事件性なしで適当に処理しようと思ってたけど…どうも気になってたら知らないうちに責任者を押し付けられて困ってる。しかも事件のおおまかな所が非科学的にすすんでいる。…オカルト的なことも人間の心の屈折も苦手なお前は、この試練みたいな宿題を出す上司にも困っている。違うかな?」

生ビールを飲みながらどや顔の伯父を見て…全く図星の自分が切なかった。「90%当たってるよ。元々勿論奢るつもりで誘っているから安心して…あのね話は少し進んでいてね。明日の午前中に事故当時に唯一現場を見ている女性に話を聞きに行くんだ。で…その女性が事故のショックで失声症になってるんだよ。明日はパソコンで筆談てか…コミュニケーションするんだよね。女性のお婆さんも同席するからふたりきりじゃないんだけど…伯父さんのご指摘通り俺はスピリチュアルもメンヘラさんも苦手だからね…で、その女性との対応で気を付ける事と…なんか先輩の警部補…この間現場にもいた人ね…なんかこの事故はスピリチュアルてか…遺恨がある心霊現象みたいにさ、決めつけてるんだよ。そういうの好きな人だから仕方ないけど。だったら自分が話を聞きに行きゃいいのに。意地悪されてるとしか思えないよ。」口をとがらせた30歳の片倉刑事のは、伯父さんの前でただの甥っ子の秀喜君になって生ビールをぐいっと喉に流し込んだ。
「秀喜。まずな…その警部補先輩は意地悪じゃなくてな、仕返しだよわからないか?」
小学生みたいに唐揚げを頬張る甥っ子秀喜は怪訝そうに首をふった。
「あのな、お前と先輩は以前から心霊現象やらのそちらの話を仕事絡みでしているんだろ?で…その時にスピリチュアル大好き先輩がその手の話を熱熱と語ってるのに、嫌な顔しながらでも聞いてあげるのがお付き合いな所をお前は…多分、俺は興味がないし、お化けで済むなら警察いらないですよ!とかいったんだろ?」
…図星すぎた。甥っ子は苦笑して生ビールを飲み干した。伯父さんは大笑いして生ビールを飲み干した。
2杯目はハイボールを…二人共頼んでから伯父さんの為になる話は続いた。「とにかく、後輩のくせに小ばかにした態度をとるお前に今回の件で、リアル世にも奇妙な物語を体験させてやりたいんだろうね。まあその先輩が自信を持って仕返しでぶつけてきた案件って…あの事故はそれなりなんだろうな。で、その当の本人との話だけど…本人が話をするって事なら何か言いたいことがあるんじゃないか?失声症になっているならいずれにしても精神科の診察は受けてると思うんだけど、精神科医に話をすると、病気の補てんにされるのが嫌なんじゃないかな?でも誰かに聞いてもらって少し楽になりたいんじゃないかな?しかも出来れば口外しない人間がいいんだろうね。知人友人じゃあ面白がられて絶対に口外するからね。どんな話をするか俺にはわからないがね、どんなに嘘くさくても、とにかく否定せず聞いてあげなさい。お前は医者じゃないんだからね、その女性を治す必要もない。神様でもないから救う必要もない。恋人じゃないから包み込む必要もない。ただ聞いてあげなさい。真面目にね。自分の仕事で使えるものは使うと教えてあげなさいよ…そうしたらその女性もただ自分の欲求のためだけじゃなくて話が出来て、それが何かの役に立てたことで更に話をしたことの意味を勇気を…感じて喜ぶと思うよ。言っておくけどこれは彼女が心身ともに痛めているからの話じゃないからな。人間ならさ…自分が意を決して話したらそれなりに肯定もされたいだろうし、話した甲斐がないとがっかりだろ?」

お医者さんの伯父さんの言うことはもっともなのでなるほどな…明日は何とかなるかもな…とハイボールを飲み干しながら少し片倉刑事は安堵した。3杯目は飲まないつもりだったがハイボールを又2杯頼んで伯父さんにお礼を言った。
「まあお前も警察官として何とか頑張っていてくれて嬉しいな。老兵の武勇伝だけどな…俺もお前ぐらいの時は緊急にいたからさ…色々毎日あったよ。何だかこの間の火事現場をみてから20年前の焼身自殺の患者さんを思い出したよ。病院に運ばれた時にはもう黒焦げの女患者でね…普通にこの姿でも生きなきゃいけない命ってやつが…つらかった。これをつらいとか思う時点で俺は医者向きじゃないな。でも。その家族の父子が連絡したらさ…のこのこやってきてさ、親父の方は患者をみるなり嘔吐だったよ…見る前に説明したのにな。まあ臭いしね。酷いからな…でも一緒にきた10歳位の娘は微動だにせずちゃんと母親に話しかけていたぞ。まあこんな事は救急はよくあるんだけどね。でな…この患者さん絶命するまでの間に、仮眠室の俺のところに来たんだよ…火傷を負う前の姿で。魂なのかな…現れたんだ…俺しか見てはいないんだけど…。
彼女いわく早く殺してくれ苦しくて構わないから今すぐに肉も骨も筋も焼き尽くせ、楽になりたいわけじゃない。とお願いされたよ。焼身自殺をするなんて相当な覚悟とまあ場合によってはメッセージがあるだろうから。でな、頭からガソリン被って自殺しているから顔は無くなっていたから現実ではわからなかったけど…朧気な姿なんだが。その患者さんの元の姿…美人だった。娘も可愛かったし…お母さんっていう人もいい歳だったが色っぽい…いい女だったなあ…この間のバーのマスターもいい男だったじゃないか…あんな所だけ酷い事になってな…生前色々あったんだろうな。あの世の人ともな。まあ美男美女も大変だな。」
医師の伯父からこんな「怖い病院の話」みたいな事を聞くとは思いもしなかったので驚きよりも何だか不快感が上回りそのせいで片倉刑事の気持ちは曇ってしまった。
「つまり…伯父さんは心霊現象を体験していて、それは病院なんかじゃたまに起こることで…非科学的なことなんだけど受け入れてるんだね。俺はそういうのよくわからないけどさ、飛び降りの現場とか行くといつも思うのがさ…この人さっきまで生きていたのに本当にこれで良かったのかな?見た目もひどい有様だし…もし何か悩みを抱えているなら何かの解決策はあったはずだし。その為に警察も行政も心療内科も弁護士もいるんじゃないかな。それをさ、わかってもらいたいよ。」
甥っ子の肩をポンポンと外科医の伯父は叩いた。ジョッキのハイボールを一気に流し込んで席から立ち上がった。
「相変わらず真っ直ぐなんだな。組織にまかれてないのはすごいぞ!明日は冷静に話を聞いてやれよ。後…多分その失声症の女性だけど、美人だな…俺の経験上。あとな死にたい人間は何もかもなげだしたい。辛いもの、苦しいことから今すぐ解放されたい。今までの全てに絶望しているんだから解決策を探す事は無理だな。その前に気づいたら死なないし…誰かが気がついて手を差し伸べていたらこれまた死んでないよ。たぶん。…じゃあごちそうさま。」
残っている枝豆と唐揚げを食べながら伯父さんの言葉を頭の中で整理していると脳裏には今迄仕事で立ち会った自殺現場というよりは…自殺者を思い出した。巡査時代初めて立ち会った自殺現場はローカル線に飛び込んだ女子高生の現場…女子校は生きていて両足が切断していた。痛い痛い痛いと泣いていた顔は今でも忘れられない。
飛び降り自殺現場で…どうしてそうなったかわからないが、足から落ちてしまい足が粉々になって一命を取り留めた老人の姿も酷い拷問のようだった。

明石亮太の死体もよくよく考えれば酷い有様だ…顔も上半身も綺麗なのに男性器と睾丸はむしり取られる様に焼けちぎれていた。警部補が阿部定の八百屋お七と、例えたのは今考えるとなるほど上手い例え…なのだ。明石亮太の死因は一酸化炭素中毒死ではあるが、あの火傷が意識がある時なら相当な苦痛だろう。明日はその話を聞くのだ。その為とも言える。
協力してくれる女性の話をとにかく聞く事をに努めよう。どんなに支離滅裂でも非現実的でも。きっと書類作成のフィニッシュの糸口になるだろう。警部補先輩の仕返しの宿題提出を終わらせる。
帰宅してシャワーを浴びた片倉刑事は伯父にラインを送って今日のお礼をした。実は先に席を外した伯父さんが居酒屋の支払いも済ませていた。まだまだ伯父さんにおんぶにだっこの30歳だ。ついでに事故の時に明石亮太の火傷を中世ヨーロッパの拷問と例えた拷問はどんなものなのか?阿部定八百屋お七テイストよりしっくりくるものなのか疑問に思い尋てみた…。23時…丁度眠ろうとしたその時に伯父さんは返事をよこした。
(何時でも俺でよければ呼び出してくれ。どうせ暇だから。夜はな。この間の火事死亡者の火傷の例えだけど…【鍋せめ】のことだよ。対象者を縛り付けて露出した腹部に接触した部分に穴が空いた大鍋を置いて…大鍋の中に鼠をいれてふたをする。鍋を熱くて鼠が熱さから逃れるために対象者の身体の中に逃げる…何匹かいる鼠に腹部に穴をあけられて内蔵を食いちぎられるやつだ。丁度ペストが流行していた頃だから鼠自体が拷問道具としては効果てきめんだったらしいぞ。)
メッセージだけで十分なのに伯父さんは鍋せめの資料をこれでもかと、言う感じで添付してきてくれた。見なきゃよいのに全部目を通してしまい…関連動画までみてしまい…すっかり夜更かしになってしまった。時計が深夜2時を指したとき片倉刑事の脳内は明日の対策じゃなくて…鼠の拷問にすり替わってしまった。そして…阿部定の八百屋お七の方が的確な例えであることも忘れて無駄に使った記録の記憶を脳ミソに詰め込んだまま眠った。 

第四章 

夏の盛りなのに梅雨が戻ってきたような湿度と気温と生臭い午前中。病院の入り口は、この中に蔓延る痛みや辛さなんかの苦痛があふれ漏れている。病棟内からあふれ出したそれが、そよそよと、吹いてきて目には見えないものが目に見えないようにひたひたと根をはっていた。健康な人も…あまり生きれそうもない人も…皆その苦痛を踏みつけていた。
指定された時間に片倉刑事は朱里の病室を訪れた。仕事ではあったが…自費で小さな花束と、若い女の子が好きそうな可愛らしいプリンを4種類手土産にして病室の前にいた。
不意に警部補の言葉が胃のあたりに溜まってムカムカしてきた。もともとスピリチュアルな事も話も苦手だし…今更ながら心に爆弾を抱えた人間の話をうまく聞き取れるのか?不安になってきたのだ。
まぁ…その為に昨晩伯父さんとハイボールを飲んだのに…結局一番印象深く頭に残ったのが、鼠の拷問…。

そもそも片倉刑事は心の病を理解出来ない。辛いとか悲しいとか悔しいとか一律に共感できるのだが…死にたいとか…死ねほどショックなどと言う思いは全くわからない。自分の感情に身体が支配される事。他人の言動行動で自分の感情が支配される事。
精神的に病んでいるから殺人犯が無罪になる…これが一番理解出来ない。そんな思いが根底にあり、実は少年期には検事になりたい夢があったが、残念な事にそこまで勉強が得意では無かったと言うよくある夢の末路だが…体力と正義感だけは人一倍あったので…警察官志望に切り替えた。火災の時の亮太の死亡確認をしてくれた伯父…昨日あれこれアドバイスをしてくれた人物。そして…当時も一喝いれられた。
「お前の言ってる事、考えている事はとても正しいぞ…でもな、世の中はもっともろくて弱くて病んでいるんだ。健全な身体でも健全な心が宿れていないんだよ…例えば虐めている奴らは絶対に自分も虐められているんだ、虐待を受けている子供が動物を殺す。夫からDV  を受けている母親が子供を虐待する。アル中父親の息子はアル中になる。アル中の父親の娘はアル中と結婚する。負の連鎖はとめられない。お前は心の病は医者が逃げたい患者に勝手に名前をつけているだけ…って言うがね…逃げたい人に立ち向かわせたらね…それこそ自殺者も、犯罪も増えるよ。そこは理解出来なくてもね、そうなんだと言う理屈だけでも頭にすり込まなきゃ警察官になってもうまくいかないからね。なんだったら消防士のほうが良いんじゃないか?体力は自身あるんだろ?」
「伯父さんの言う事おぼえておくよ…でもね!消防士にはならないよ…消防士ってさ…警察とは真逆でしょ、医療者に近いじゃん。とにかく誰でも救う仕事でしょ。とりあえず警察学校に行くのはきまったしね。又何か俺が目に余ったらアドバイスしてよ。」
警察学校への進学が決まった時に唯一反対した身内の伯父から言われたセリフをふと思いだした。そして、けむたくて適当に答えた自分の受け答えも…。その時の事を考えると…昨晩伯父と話をしたとき自分に必要以上の事を言わなかったのは…もしかしたら一人前の刑事として以前ほどの心配は必要ないと思ってくれているのか?少し嬉しくこそばゆくなったが、実は今も進行形で精神疾患や、人の心の闇も、病みもよくつかめない。よくわからない事それが……刑事としては非常に致命傷なのかもね…と言うのがわかってきた。
とにかく朱里の病室の前で片倉刑事は引き返したい気持ちを振り切りながら小さい声で自分を勇気付けた。そもそも昨晩伯父さんと話をして下準備をしたじゃないか…
「警部補からの仕返し宿題だ…やりきる。」病室のドアをノックした。

「池上警察署の片倉です。」

病室のドアを開けた祖母と思われる女性の奥に小林朱里がいた…。色が白くきめが細かい肌にぷっくりした唇が色っぽい美人だった。左頬におおきなガーゼがあてられていたので、もしかしたら酷い火傷跡になってしまったのかもしれないが…そこが酷いケロイドでも痣でもそんなの付け足してもお釣りが来る位魅力的な女性がそこに存在している。片倉刑事は朱里に見惚れて一瞬自分を見失った。

「あ…この度はお怪我もされているのに事故当時のお話をしていただけると言う事で、あの…ありがとうございます。昨日お祖母様には電話で挨拶させて頂いたのですが…片倉と申します。」
あきらかに朱里をみてドギマギしている片倉刑事は頭を下げながら花とプリンを前に突き出した。少女漫画の一場面を演じているみたいな片倉刑事の一部始終わかりやすすぎた。…祖母は思わず後を向いて肩を、ゆすっていた。ニコリと会釈をした朱里は花とプリンを祖母に手渡して…直筆の手紙を片倉刑事に手渡した。ノートを破いたもので筆跡はガタガタと揺れていて読めるけれど不自由のある老人が書いたようであった。朱里の包帯は手のひらまで巻かれていたので片倉はどれだけこの手紙を書くのが大変だったかを想像した。
【片倉様
事故当日の事はあらかじめパソコンで入力したので、私のスマホに転送させて頂いてます。実は祖母にも当日の詳しい状況を伝えていなかったのです。祖母は目が悪くてパソコン画面もよくよめません。文章は長いですが、スマホを音読してください。もしも文章を読み進むなかで質問があれば聞いて下さい。私はパソコンを打ってお答えします。パソコンをうつのが一番らくに文字をおこせるので…火事とは関係ない私の1日の行動も書いてあります。かなりプライベートな事も書いてあります。私自身は恥ずかしく無いので一語一句はしおらず音読して下さい。
小林朱里】
こんな綺麗な女性が何を書いたというのだろう?初めて会った刑事に何を教えてくれるのか?普通質問されてイヤイヤ答えるか、保身する為に無口なるのに…しかも文章だと瞬時に訂正出来ないのに。やはりこの事故は何かあるんだろう。知らなくて良い事を今から音読するのか?
いや、彼女の勇気にはそれなりの覚悟があるのだから…答えなくてはいけないのだ。
片倉刑事は手書きの手紙を読みおえて深く頷いた。
「小林さんご協力ありがとうございます。こちらからの質問も受けていただけるので問題無いです。お身体辛いかと思うのに事前準備ありがとうございます。」
「あ、あの…」
祖母が後から声をかけた…とても逼迫している声だった。
「朱里?お母さんの事と、今回のあの人とお母さんの事私から先に伝えたほうがよいよね?」
朱里は優しく祖母に頷いてから片倉刑事にニコリとした。
「あの…これから孫の書いた手紙にも書いてあると思うんですがね。今回の火災で亡くなられたバーのマスターさんいらっしゃいますよね?明石亮太さん。孫と私しか今の所知ってる人間は居ないと思うのですが…この子の…朱里の母親とお付き合いしていた方でした。お付き合いしていたのは20年前です。お付き合いしていたというより不倫関係で駆け落ちしました。駆け落ちの末、朱里の母親のみ単独で焼身自殺しました。遺書も…当時の携帯電話からの簡単な物でしたが…私宛にありました。自殺直後は一命をとりとめましたが意識がないまま死にました。片倉さんは刑事さんだから焼死体をみる機会もあるかと思うのですが…生きてはいましたが…酷い姿でした。その時のトラウマで朱里の父親は朱里に会いにこれてない始末です。
警部補の予感は当たったのだろう…気のせいかも知れないが…何かが焼ける匂いがした。いや…そんなはずは無い。片倉刑事はこの後読む手紙を読みきれるか?ふと心配になった。そしてそんな自分が情けなかった。
「あ、あのそのような事情までお話されなくてよいですよ…話を聞きたいと言って来たのにこんな言い方おかしいですが、明石さんの解剖も…現場の状態も目撃者も現場に多数いましたし…事件性も無いと考えています。ただ…明石さんの火傷に不自然な事があったので小林さんが唯一店内を目撃されたのでお話を聞きたかったのです。」
ノートパソコンをカタカタと朱里はうちはじめた。
(事件性は勿論ありません。私は火事がおきた物理的な原因は全く関係ないですが…色々な因果関係があってこの事故はおきたと思います。片倉さんには悪いですが…祖母に事情を飲み込んでもらうためにもお付き合い願います。知人友人親戚では口外する可能性があるので刑事さんにお願いしたいのです。)
「え?いやそこまでは私の仕事では…」
途中まで言いかけた片倉刑事は朱里の何か祈るような強い意志が宿った瞳に気がついた。もしもここで朱里の申し出を断わったらこの瞳に焼き殺されそうだ。大袈裟で無く本当にそう思った。怖かった。

「わかりました…」
生まれて初めての気分に片倉刑事は襲われた。朱里からスマホを預り恐る恐るその文章を読み始めた。 

(先ずはこれを読んでくれる貴方様に感謝します。祖母は年齢の割には前衛的な考え方でこの文章を聞いても驚いたり怒り出したりはしないので安心して読み上げて下さい。そしてこれを聞いたおばあちゃん…全て事実です。)7/19日炎天下にくたびれた花束を抱えて私は母親の墓参りにいきました。誰か先客がいたようで白い百合が墓に備えてあり何となく線香が香っていました。
「命日にしか来れなくてごめんなさい。」
no手を合わせて頭を下げた私に一瞬風が吹き抜けて、その風はうだる暑さよりも熱く熱風でした。…焼死した母親は今尚地獄で焼かれているのではないか?そう思えて、私は墓石に夢中で水をまきました。墓石の水が蒸発すると人が焦げた臭い…かつて亡くなる直前の母の臭いになりました。
せっかく命日の墓参りに来たのに何だか心がざわついたまま私は下北沢の街をフラフラしていました。父方のお墓は下北沢からほど近いお寺で、小学生の時はお墓参りの後で母の友人の芝居を観て帰るのがセットになっていたのですが…
何故か父と3人での墓参りの時は芝居には寄らない。その理由は大分大人になり自分で理解出来ました。
芝居に出ていた役者は母の愛人だったのでしょう。愛人の芝居をみる予定に墓参りをくっつけて、疑われ無いように娘もくっつけてて出かけていたのでしょう。
母の愛人とは芝居が終わった後に挨拶をする程度だったけれど…子供だった私の記憶には朧げなものしか残っていなかったです。母よりは大分若くてハスキーな声で、舞台から降りても花があった。そんな事を考えながら古い記憶を辿って子供時代に母と通った「スズナリ」に向かいました。昔からあまりかわらない芝居小屋を前にしたらなんだか母が憑依したような気分になり、喉の奥が焼けて目眩がしました。私は誰かに助けを求めました。そして、何処からか呼ばれました。
「此処においでなさい。」
私はフラフラとスズナリの横の坂を少し登り教会の敷地に入りました。そこにはルルドがありマリア像の優しい微笑みと十字架。健やかな緑と安らぎが広がっていました。実はこの場所も母と観劇前に寄る懐かしい場所でした。ルルドで深呼吸すると私が私に戻るのがわかって安心しました。聖母の優しい微笑みに涙が流れて母との幸せな思い出だけが私を包みました。何故母が芝居の前にここで祈っていたのかわかりました。でも、うまく説明はできません。私は又フラフラと今度は反対側の坂を下ってスズナリの前に戻りました。
「朱音ちゃんだよね?」
振り返るとそこには明石亮太さんが立っていました。目眩のせいなのか…亮太さんが母の愛人と重なりました。はっきり覚えていない20年前の記憶の男がそこに立っていました。幻影のように。

「どうしたの?芝居観に来たの?昼の部はもう終わったよ。夜は7時からだけど。」
彼は私に優しく話しかけていました。きっと20年前もそうだったのでしょう。
「あの…20年前に私の母が焼身自殺をしたの、今日は命日で熱くて苦しくて悲しかった母に沢山お水をあげてきた。」
私も亮太さんも長い時間の記憶の扉をその時開けました。母がそうさせたのかもしれません。
「七子さん…七…ごめんなさいごめんなさいぃぃ…」

目の前の亮太さんは泣き崩れて私の足にすがりつきました。肩を揺らしながら突然玩具を取り上げられた子供みたいに嗚咽し続けました。
「初めましてですよね!って聞かれた時は思い出してなった。私はお母さんには似てないし、貴方もきがつかなかったでしょ…今何だか此処にきたら…全て繋がったみたい。」
私は地べたで号泣する亮太さんの背中を擦って手を取り、かろうじて立ち上がれた亮太さんは私に肩を借りて歩こうとしてみたのだけど…泣きじゃくるので上手く歩け無かったです。
「この後時間ある?スズナリの芝居に出てる訳じゃ無いよね?」
駅近くのホテルまで何とか引きずって部屋に入りました。まだ泣きじゃくる亮太さんにタオルとティッシュを渡して私はお風呂の準備をしました。 

「お風呂に入ろうよ、気分が落ち着くから、もう泣かないで、おじさんが泣いてるの恥ずかしいし。誰か知り合いに見られてても私は責任取らないからね。」
クスッと笑ったた彼は軽く頷いて服を脱いだのですが…
50代だけど…流石役者だなと思う筋肉がのった亮太さんの身体は綺麗でした。母と愛し合った時はもっと若くて美しかったに違いない。母がのめり込んだのも無理は無い…肉欲より母性の方が強いと誰もが信じたいとは思うだろうけど、凄いご馳走を前にしたら、母性も、理性も吹き飛ぶに決まっている…人間は常に発情出来るふしだらな動物だから。
二人で身体を綺麗に洗い合ってからバスタブに入りました。 

話が前後しますが、この日から約一ヶ月前に私は自宅近くの彼のバーで亮太さんと出会っています。私はその時、性的にサディスティックな趣向がある男性と関係していました。その時は首に締め跡があってその事を亮太さんは気にしてくれて優しくしてくれました。多分その時母が身体の中にいました。憑依されていました。私の中の母は身体も心も彼を欲していて…彼も同じ気持ちだったのでその時私達は関係をもちました。事が終わって自宅に帰った私は全く自分の行動が信じられなかったです。そしてスズナリ前で彼…亮太さんに会うまでは…亮太さんに会いたいとも抱かれたいとも思いませんでした。
「私の身体綺麗になったでしょ。」
「うん。本当に良かった…もう痛い思いはしていないんだね。別れたの?傷つけていた人と…」
「もともと付き合ってた訳じゃなかったの、友達の彼氏だったし…何でそんな関係続けているかも自分でわからなかった。だから思いきって友達とも、あいつとも縁を切ったんだ…あ、亮太さんのおかげじゃ無いからね。自分で決めたのよ。」
クスッと笑って彼は私の手をにぎりました。
「今日お母さんのお墓に白い百合があったけど…亮太さんが持って行ったの?」
強く手を握り合いながら…亮太さんに真っ直ぐ見つめ続けられました。
「そうだよ…毎年命日には手を合わせに行ってるんだけどね…以前はやっぱり百合の花を持って行ってたのだけど…良く考えたら命日は他の家族もいらっしゃるだろうし…お花を持って行くと目立つからやめていたんだよ、でも今日は少し報告したい事があったしね。」
「店に来た時俺バツイチだって話したよね?あれは七子さん…お母さんの事だよ、籍は入っていなかったけど…七子さんは唯一無二の人だったし、朱音ちゃんが成人したら籍を入れる約束してたから…でも…出来なかった…だからバツイチバツはバッテンじゃ無くて罪と罰の罰なんだよ…でね…今日報告した事は、七子さんと会えなくなってから初めて恋をした事…ごめんなさいって謝った。お店に来た女の子で、まだ一度しかあって無くて…でも…年がいもなく彼女をみたら興奮してしまった事。」 
「まさかそれが七子さんの娘だったなんて…又謝らなきゃ…」

私はもう十分でした。母と亮太さんについて…知りたく無かった。

全て偶然か、必然かはわからない。ただ母は亮太さんに酷く恋していた。ただそれだけ。彼は今私を好きだと言うけれど…それもピンと来なかったし。ただ目の前の亮太さんが背負っているものを少しだけ軽くしてあげたかった。私は彼の両手を握って言いました。
「確かにお母さんがいてくれれば…って思った事はあるけど、亮太さんを恨んだ事は一度も無かったよ。死ぬほど恋が出来てお母さん幸せだったと思うよ。だからこれからはもっと自由に生きなよ…結婚だって子供だって…今からでも大丈夫でしょ…私は…亮太さんに、恋も愛も今は感じ無いの…多分お店に行った時は私の中にお母さんがいたの。私じゃなかったの。でも亮太さんには幸せになってもらいたい。」

お湯の中で私達は抱き合いました。

「お願いして良い?…湯船から出て俺をみてて…」
真剣な眼差しの彼はバスタブから出て…言いました。
「俺もこれ以上朱音ちゃんを傷つけないし、汚したりしない。でも今だけ一緒に居て…」

亮太さんは自慰をしました…真っ直ぐに。
私は、ただ見守るしかなかったです。
「朱音ちゃん…朱音ちゃんイク」
彼は私を見つめて涙ぐんで射精しました。
ホテルを出て私は実家に向かいました。彼は店を開けると言っていました。実家に帰り父親と夕食をとって父親が婚約をしたと聞いてから自宅の池上に帰りました。駅から自宅までの道のりに亮太さんのバーがあるので当たり前の様に店の前を通ると火事に遭遇しました。

長い前置きを読んでくれてありがとうございます。おばあちゃん…もしもショックを受けていたらごめんなさい。多分これからが警察の知りたい部分ですね。 

当日、バーの前で、二人の多分…バーのお客さんだと思う人が消防署に電話していました。バーの扉が少しだけ空いていてそこから煙が出ていました。私は夢中でバーのドアを開けて中に入りました。多分二人のお客さんは私を止めたと思います。店内は沢山の蝋燭が倒れていて店の中がメラメラ焼けていました。
亮太さんは倒れていて、生きているのか死んでいるのは、分からなかったです。そして…
母がいました。母の形をした炎が亮太さんの上にまたがり…うっとりと亮太さんをながめて腰を動かしていました。
亮太さんの下半身はメリメリ焼け爛れていくので「お母さんやめて、もう十分だよ。」私は叫びました。次の瞬間母は部屋じゅうの炎と同化してすぐさま細かい火の粉を私に降らせませました。顔を守ろうとして手を出して手の甲を火傷…足を炎で巻かれたので足は一番酷い火傷だと思います。いずれにせよ母は私を殺そうとはしていなかったと思います。ただ…恋人を奪われたと思い、嫉妬して私に嫌がらせをしたのでしょう。手術しなければ私の手も足も頬も生涯の傷が残るそうです。火傷をして流石に辛くて熱くて店外に逃げました。
「店で亮太さんが倒れています。でも…もう無理だと思う…」二人の客に抱きかかえられた時に話ました。丁度消防車と救急車が到着した時だったので私は救急車に乗せられました。
これは私の憶測です…母は生前キャンドルが大好きでした。亮太さんは店で母を弔っていたのかと…。私が一ヶ月前にお店に行った時もお店に母が好きそうなキャンドルがありました。今思うと…と言う感じですが。私の記憶はそこまでです。)

片倉刑事はしっかりと読み終えた。祖母はすすり泣きながら椅子に座って何も言葉が出ないでいる。朱里は片倉刑事を見た。

(何か質問はないですか?)瞳がそう語った。

「詳しいお話ありがとうございます。お母様の事、明石さんの事よくわかりました。こちらからお知らせ出来る事ですが…先ず明石さんの死因は一酸化炭素中毒死です。亡くなる前にかなり飲酒されていたようで、かなりの量のアルコールが体内に残っていました。つまり小林さんが明石さんを発見した時は既に亡くなられていたと言う事です。
亡くなられた明石さんですが…小林さんがお知り合いなのでお伝えいたします。明石さん自身のご家族ご親戚は東日本大震災で皆様亡くなられていて、住んでいた自治体が全ての処理をする事になる予定です。明石さんのご実家は岩手の津波の被害が酷かった所で…ご実家もお墓も…勿論ご家族のご遺体も無い状態です。こう言った身上の方なのでお墓も無縁墓地の共同埋葬になります。所属していた劇団の方が今後の事は関与なさられるかもしれないから…そちらに問い合わせるのもありかもしれません。」

(ご家族にそんな事情があるのはしりませんでした。お墓の場所は是非知りたいので…問題が無ければわかり次第教えて頂きたいです。)
朱里はにこやかにパソコンを打ったが、横にいた片倉刑事は朱里の首にしめられた跡を発見した。

「小林さん…この傷どうされました。まだ新しいですよね、入院中にどうされました?」
あまりにも唐突に、直球に真面目な片倉刑事に朱里は驚いた。同時に笑った。かすれていたけど少し声を出して笑えた。
「いやいや笑ってる場合じゃ無いです。かなり赤い跡になってます。片手ですよね。でもしっかり締められてますよ!かなりきつく。先程文章に書いてあった男性がいらっしゃいましたか?」
片倉は至って真面目なのに朱里はなおさら笑い続けた。ヤレヤレと横から祖母が口を出してきた。
「片倉さん…先程の朱里の話をどの程度事実と受け止めていらっしゃるかわかりませんが…もし少しでも話を理解してくれているなら今からの私の説明も聞いて下さいね。あのね。朱里のこの傷は一昨日ついたものです。先程から話に出ている朱里の母親の七子の強い執念が形になって襲いました。ただ実際には朱里が自分で自分の首を絞めていたのですよ…他にも酷い自虐をしていて目撃した看護師さんもかななり動揺されたそうです。失声症の事もあり今は精神科のドクターも日に一度は来てくれる事になりました。ちなみにね、同じ日に…一昨日に、七子は私の所にもやってきました。昔ね…七子の家庭教師の男の子が私と七子にちょっかい出した事があって…まぁ…そんな事を私には恨んでいてね。めちゃくちゃにひっかかれました。まぁ…実際は私が自分でひっかいていたみたいですね。私の爪に私の皮膚や血が詰まってましたから。」
祖母はブラウスのボタンを外して傷をみせた。酷かった。余り手当てをしてないんじゃないのか?まだ生々しい傷跡だ。老婆の弛んだ皮膚が見事にえぐられている。
「お、おばあ様…私が帰ったら外来に行かれて手当てして下さい。膿んだりしたら大変です。私はスピリチュアルな事は全くわかりませが…あの…大変恐縮ですが…お二人の話を聞いているとその七子さんは酷くないですか?不倫して自殺して恋人も殺して生前の恨みや、死後の嫉妬を自分の親や娘にはらしたり…わがまますぎませんか?じゃあ生きてどうにかすれば良いんですよ。そもそも自殺とか駄目です。どんな方法でもかなりの苦痛だし…基本的に綺麗じゃないし。自分もまわりには悲しみと苦痛しか残しません!」
そもそも声が大きい片倉刑事の声は、ナースステーションまで轟いていた。
朱里と祖母は目を丸くして絶句したあとに…タガが外れた様に笑いだした。「小林さん!今大きい声出してたのはこの男性ですか?楽しいのは良いんですが…ここは病院ですよ。わきまえて下さい。」
「すいません。自分です。失礼しました。気をつけます。」

片倉刑事は深々と看護師にお辞儀をして恐縮したが…二人は全く笑いが止められなかった。
「大きい声だしてすいません。…てか、なんでお二人とも笑っているんですか?私は真面目に真摯にお話させて頂いているのに。」
「真面目に答えてくれているからですよ。」
朱里が声を出して答えた。少しかすれて声量は無かったけれど…。

片倉刑事は絶句して、祖母は歓喜して泣いて朱里に抱きついた。
「ありがとうございます。片倉さんのおかげで声がでました。しかもこんなに真剣に笑えたのは初めてかもしれません。少なくとも母が失踪してからは真剣に笑えていなかったとおもいます。」
朱里は手を出して片倉刑事の手を握った。
「私…仕事だし…刑事さんだから適当に話半分にきいて適当に同情するふりして…頭のおかしい女の妄想話で…結局下半身の火傷の理由は原因不明じゃ無いか…って思うと思っていたんです。でも…やっぱり全て本当の事話しようと思いました。そしたら…まさかの本気対応だし…母に苦言まで…私も多分祖母も…母が死んでから常に母を意識していました。時折みせる母の匂いや気配などにドキドキしながら生きてきました。祖母以外にこの事実を話したのは片倉さんが初めてです。話せば必ず面白がられます。除霊をしようといわれても相手は母ですから排除したいわけではないのです。子供の頃は心霊現象であっても母を感じると嬉しいものでした。」
朱里に手を握られ続けて顔が赤くなっている片倉刑事は自分の手汗が気になり自分の手をを朱里からほどいた。
「私…心霊現象とか体験したことはないのでよくわからないんです。でもお二人が嘘をついているとは思っていないです。あの…お母様は何を求めているのですか?明石亮太さんを連れていったのであればもう充分じゃないのですか?」
朱里に水を差し出した祖母は、片倉刑事の目をみながらにこやかに話始めた。よくよく見ると老女ではあるけど綺麗な人なのだと確認できた。80代ぐらいなのだろうけどまだ女性の色をもっていた。自分の祖母は勿論母親も、既にこの色は持ち合わせていない。そもそも全ての女が女の色をもっているわけでは無いのかもしれない…。じゃあ自分は男の男としての色があるのか?多分明石亮太は色をもっていたのであろう。残念ながら死体の火傷ばかり気にしていた。そういえば伯父さんは明石亮太の事を、いい男だと話していた…やはり伯父さんは何枚も上手だ…あ、警部補も気づいていたのかもしれない。阿部定事件も色男が殺されてる。何だか自分はまだまだ経験値も想像力も無いのか…。
30歳の刑事は何だか打ちのめされた。この世の事件と色は常に馬鍬っているのに、自分はお粗末だな…。これからはもう少し人を惑わす色を感じよう。かぎ取ろう。

「片倉さんのおかげで朱里の声が戻りました。ありがとう。本当に真摯な方ですよね。私の考えている警察の方のイメージがだいぶ変わりました。娘は。…娘の七子は遺書で自分は灰になりたい。もしも骨が残っても墓に入れないで欲しい細かく砕いて風に吹かれて明石亮太さんの所に行くから…と言い残していました。20年前の七子の葬式の後で私は七子の遺骨を海洋散骨しようと朱里の父親に相談しましたが…頑なに彼は拒否したので…今も七子は小林家のお墓に入っています。20年間も居心地の悪い思いをしているとは思います。まあ今回の件とは別に朱里の父親が再婚するそうなので、近いうちに骨を受け取って海洋散骨を致します。それであの子の思いが少しでも楽になるなら…海洋散骨は場所の特定は難しいのですが明石さんのお墓の場所がわかればできるだけ近くにしたいです。後、娘の擁護になりますが…娘は直接的にに明石さんを連れていってはいないと思います。あくまでも偶発的な火災事故で二次的な心霊現象かと思います。本当は死後離婚もさせてあげたいのですが…世間体と自尊心が人一倍強い朱里の父親がなんというのやら…」

余りにもしっかりと意見する老女も娘の成仏を願い…心霊現象でも母親を感じることが出来たのが幸せだったと話す娘。

二人共小林七子を愛している。愛している?

ケロイドを残す火傷を負わされても?首を絞められてバギナを傷つけられても?自分の身体を使ってセックスされても?10歳で自分の全てを放棄して焼身自殺して酷い悪臭と惨い死にぞこないのなりを晒しても?家族よりも愛人とセックスする事を選んでいても?娘と生きるよりも色恋で死んでも?愛している?

お母さん大好きだよ。 

胸元を爪でえぐられても?淫乱とののしられても?本当は関係なんてなかった家庭教師の話を勝手に逆恨みされ続けても?自分より先に死んで親不孝の極みで親の気持ち子不知のうえに遺骨の処理まで要求されても?愛している?七ちゃんわたしの可愛い一人娘

世界一大好きだよ。 

「お二人のお気持ちと言うか、遺骨の移動で明石さんの情報が必要なのはわかりましたが、警察としてはお答え出来ない…。個人的な協力が出来ないことが殆どなので余り期待には添えないかと思います。今回の件でお二人にお話を聞けて本当に良かったです。刑事としても、個人的にも勉強になりました。ありがとうございます。あの…小林さんのも山本さんもご自愛ください。私の名詞を置いていきますのでもしもお困りのことありましたらご連絡ください。後プリン食べて下さい。では失礼いたします。」
「あ。片倉さん。私の先程の文章をメールしましょうか?他の人にはあまり読んで頂きたく無いのですが…事故についての書類作成したりしますよね。」
「あ。もし出来る事なら…では名刺の裏側に私の個人のGmailアドレス書きます。ちなみに秘密ですよくれぐれも。基本的に個人的なやり取りはしないので。でも小林さんのご協力感謝しています。では本当に失礼いたしました。」
片倉刑事は丁寧に頭を下げて病室を出た。腕時計をみると11時を過ぎていた。予定より長い時間を費やした。思惑以上に…沢山の経験をしてしまった。 

「あ!片倉お帰り!どうだった?面白い話聞けたか?」
「今から書類仕上げますので後でお持ちしますね。その時に話しますね」自分のデスクで書類作成をした。朱里からのメールを待たずに…朱里との会話は思い出さずに。嘘ではないけど嘘みたいな本当の事は書かなかった。気を抜くと事件の内容よりも朱里の事が脳内を支配しそうで怖かった。白い肌、大きな瞳、ふっくらした唇一つ一つがねっとりと頭の中で幻覚になる。気がつくと自分が勃起していた…。自分の下半身に気が付いた片倉刑事は慌てて周りを伺った。
こんな事は人生で初めての珍事だ。学生じゃあるまいし…いや学生の時だってそんなこと無かった。

「片倉さんどうしたんですか?ボーっとしてると思ったら今度は周りきょろきょろして。ちゃんと書類作成しないと定時で上がれなくてまた彼女に怒られますよ」
女性後輩の声でさらに動揺して前のめりになったが幸か不幸かこの後輩の顔と声ですっかり通常時に戻れた。

片倉刑事は面食いだった。

自分もそれなりの顔立ちとすらりとした長身に自身があるからか…あえて自分から進んで好意を寄せるのは恋人だけでは無く、友達もそうであった。勿論それは男女平等に向けられている。両親はそこそこの美男美女であり妹も何処かの局アナの様なルックスでデートの相手には困らない生活を送っている。身内で唯一母方の祖母は低い鼻が上を向き、クリクリとした目は左右に離れていてパグをさらに潰した様な顔だった。そして秀喜は、その祖母が嫌いだった。。

「僕おばあちゃん嫌い。抱っこしないで。」
「どうしてかな?おばあちゃんは秀喜が大好きだよ。良い子だし可愛いから…抱っこしたいな。抱っこして良い?」
「やだ。おばあちゃんは変な顔だから。変な顔嫌い。」

4歳はその素直な発言の後暫くその祖母と会うことは無かった。後日秀喜少年が15歳の時に母親から聞いた話だと母親とパグ祖母は血縁が無く、祖父の後妻だと…。とてもやさしくて家庭的な女性で5歳で実母を亡くした母親は実の娘の様に育ててくれたパグ祖母に感謝しているとのことだ。そして自分の顔を気にしているので子供は作らないと決めていたそうだ。そして血縁はないと言っても愛い初孫に一番気にしていることを指摘されてさぞかし傷ついたのだろう。流石に秀喜少年も申し訳なく思った。

「小さい時の事だけど僕酷い事したみたいだからおばあちゃんに謝るよ。今更だけど。」
「今更瘡蓋剥がすことになるから…謝らなくても大丈夫よ。ただね、秀喜は人を見た目で選り好みするでしょう?勿論見た目が美しい事は素晴らしいことなんだけど…顔や身体のバランスも造作も自分で選ぶことは出来ない事なのよ。だからこそ心底気にしている人もいるからそれを良く理解してこれから他人と接して欲しいの。後おばあちゃんとお母さんの関係も今なら理解してくれるかな?と思ったの。」

母親からのメッセージはしっかりと心に響いた。これからの長い人生で仕事や日常生活で何千何万の人間と出会うし…それを全員見た目で振り分ける訳には行かない。今迄祖母以外にも色々な人を知らないうちに傷つけていたかもしれない。気を付けよう。でも、心の中ではどうしようもないことなのだ。そう。そう感じてしまう。
パグ祖母と血縁が無くて良かった。あの遺伝子が自分の身体に入って無くて良かった。実の祖母は美人であったのだろう。母や伯父がそうであるように。 

「ねえ片倉さん?お腹痛いんですか?大丈夫ですか?」
女性後輩は更に覗き込んできた。一重まぶたのたれ目に不釣り合いな盛り付けまつ毛エクステが痛々しく…脂が浮いた丸い鼻と薄い唇が更に近づいてきた。
「大丈夫だよ。ご心配には及びません。お前も今日はなんかあんのか?そのまつ毛?」
「えーわかりますう?片倉さんって天然ぽいのに女子の変化気づいてすごーい。うちの彼氏なんてぜんぜんですよ。だから今回はけっこう本数増やしてみたんですよ!私も頑張って定時あがりでデート行きますよー。私の彼氏学校の先生じゃないですか?仕事終わるの早いんですよー。」

この後輩と仕事をするのは少ないので身の上はよく知らないが…何かにつけて話しかけてくるのと、忘年会の時に少しプライベートの話をした程度だ…どうやら小学校教諭の彼氏がいるらしい。仕事上の付き合いがあるので普通の会話もするが本来の片倉秀喜の領域からは明らかに外れた容姿の持ち主だ。でもそのおかげで予想外に暴走した息子を諌める事が出来た。

しかし、逆の状態になれる小学校の先生はどんな感覚かは考えたくもない… 

まぶい地蔵を抱くよりはぶすでも使えるええものもち。 

昔公衆トイレでこんな落書きがあった。自分は真逆だと思った。自分もそんな心身ともにええものもち。な良人になれれば素晴らしいと考えたがやっぱり無理。そうブスは男も女も動物も。

兎にも角にも【9月19日池上バー火災事故】の書類を書き終えた。警部補に書類を提出する前に一息ついて自分のスマホに目を通してみた。朱里からの文章がGmailで、来ていたが…これは仕事中は危険なので目は通さず。ラインを確認すると彼女からのメッセージが何件か溜まっていた。そもそも今週は週末まで会えないし…金曜日は18時以降で約束しようと決めていた。とりあえず19時新宿にはいけるよ。それだけメッセージがを返して警部補の所に参上した。
「あーはいはいお疲れ様でした。こちらお預かりしますね。」
書類を何処かに整理したりしながら今日は珍しく緑茶を差し出し、警部補はニヤニヤした。
「で。本当はどんなこと聞けたんだ?それとも何も聞けなかったか?聞いても信じられなかったか?筆談うまくいかなかった?パソコンでも面倒くさいからな…」
ニヤニヤよりヘラヘラが相当な警部補の話しぶりはかなり不快だが、そもそも自分の以前からの態度の付けでもあるので片倉後輩としては甘受した。
お話しした方…だいぶ元気になられていて…少し声も出ていらっしゃいました。元々死亡したマスターとは客として面識があったそうです。正義感の強い方で…勢い余り現場に入ってみたけれど…マスターは既に倒れていて生死は定かではなかったそうです。ただマスターの上を跨った女の形の炎がみえたそうです。騎乗位で腰を振る様にみえたそうです。助けようと試みたけど自分にも炎が迫り火傷を負いながら逃げたそうです。」
「つまり一酸化炭素中毒死した後に炎の女に死姦されてあんな火傷が出来たわけだな。で…お前はその話聞いてどうしたんだ。メンヘラ女に遠慮してそのまま鵜呑みにしたふりでもしたのか?」
いかにも朱里の人物像を特定したような警部補の口ぶりに、片倉刑事の目は一気に吊り上がり今にも殴りかかりそうだった。
「お話を聞いた小林さんは至って冷静で真摯にお話をしてくれました。今迄精神的に弱っている人と話をした経験はありますが…彼女はその様な印象はありませんでした。正常な分別がついているとかんじました。…私は今迄非科学的な事に目を背けて居ました。警部補…先輩の話も色々飲み込んでいなくてすいませんでした。小林さんに話を聞いて良い勉強になりました。小林さんも同席したおばあ様も信じられないなら無理に信じなくて良いと言われましたが、彼女が話す話は嘘や幻覚には思えなかったです。これからはもう少し視野を広げて仕事をします。良い課題をありがとうございました。」

わざとらしく深々と頭を下げた片倉刑事に、先輩の警部補は鳩が豆鉄砲を食って…溜まってしまった。
「おつかれさまでした。」 

金曜日の新宿は人がわらわらと湧いてきていた。この狭い街でこれからどの位の人が食べて飲んで笑ってセックスして泣いて死ぬのだろう。。どんな事が起きても起こっても驚かない。どんな生き物が身を寄せても受け入れる。どんなセクシュアリティも文化も民族も宗教も。優しく受け入れてくれる。何かが殺されれば涙を流すし。殺さなきゃいけなかったなにかにも、仕方ないねと許す。有り得ない懐の深さと偉大なる優しさを持った街。それが新宿。優しい母、寛大な妻、欲のない愛人である新宿が語りかける。

 

【生まれて来た事を後悔しながら生きる奴らに優しくできるのは簡単じゃないでしょ。せめて産まれた時の痛みや苦しみを乗り切った事でも思い出せれば強くなるのかしら?今迄ぬくぬく育つだけの子宮から命を懸けた脱出をする為に頭蓋骨を折りたたんで血と肉に締め付けながら何時間もかけていたぶられるのって凄い苦しみなんだから、それを思い出せれば少しは強くなれるんじゃない?薬もお酒もお金も痛みを無くしてくれないのに。まあどんな苦しみも弱さも悲しみも大丈夫…ここでは受け入れてあげるから。ほかの街じゃあ中々難しいわよ。もし痛みや苦しみから卒業してしまえば又違う街に移動すれば良いんだからね。取り敢えずどんなあなた、ここならいつまででもいてくれてよいからね】

「秀ちゃんお待たせしました。ごめんね。」
片倉の彼女は約束の時間より10分遅れで到着した。息をあげて急いでいる様にしていたが、汗一つにじませずに化粧の仕上がりも完璧で丁度いい香水の漂い方…髪の整い方。身支度優先で遅刻したのを全身で表していた。女性に詳しいのではないか、刑事と言う仕事のせいで人の行動の裏側をよんでしまう。まあ到着した彼女の仕上がり度は完璧なので秀ちゃんは仕方なく笑った。
「この前ラインで送った店あるじゃんあそこのメキシコ料理行きたいんだけどよいかな?」
ふたりは婚活パーティーで出会った。公務員の男性とアラサー女性のカテゴリーのパーティーの中で容姿端麗の秀喜と、センスのある出で立ちでスレンダーな美人は明らかにそこだけが浮き出ていた。シンデレラのお城のパーティーの様に、王子様とシンデレラ以外はもうただのエキストラに過ぎない空気になるのはエキストラの僻みでは無くてそれが事実以上のものでも、それ以下でもないからだろう。残念ながら見た目とは形を追求する盲目では無い人間のさがなのだ。
「いつも香に決めてもらってごめんね。でも丁度コロナ飲みたかったから嬉しいよ。明日も休みだからゆっくりできるし。気になってた事故の件も一応終わらせたし。」
秀喜は彼女の手を握った。そのまま歩いたが、頭の中は午前中に朱里に手を握られた感覚がムラムラとたちこめた。柔らかくてあたたかい。包帯のうえからでもその肌感覚が感じられた。包帯を外して痛々しい火傷の傷に舌を這わせて少しでも朱里の痛みを癒したかった。
「今日は家に来る感じで大丈夫?」
食事は和やかに終わった。二人の休みの前の日は一人暮らしの彼女の部屋で過ごす様になって一か月が経過していた。二人はセックスを当たり前の仕事の様にしていた。香と言う彼女はそれなりの美人でバレリーナの様な無駄な肉が無いしなやかな身体をしていた。胸は無いがお尻がキュッと上がって観賞用には申し分ない。片倉秀喜もそんなルックスが好み。勿論見た目が良いのだから抱き心地は、いまいちだ。そもそもパンケーキみたいな胸なら揉まなくても済むのでめんどくさくない。そんな雑なセックスで二人はなんとなく結婚を前提に付き合っている。他の若者たちがだいたいその程度なように。
「先シャワー浴びてくるね。冷蔵庫のビール飲んでよいからね」
冷蔵庫にはビールと水…最低限の調味料しか入っていない。普段どんな食生活をしているのか…実家暮らしの片倉秀喜にはこの冷蔵庫の中身が正解には感じられなかった。
何となくスマホをいじっていて夕方Gmailで来ていた朱里の文章を確認した。
朱里の赤裸々な文章はどんな官能小説よりも危険物なのに。

朱里の白くて綺麗な肌を赤く腫れ上がるまでいじめていたサディストな男の気持ちが何故か少しわかる気がする自分に驚いた。同時にそれが許せなくて傷をどうにかして癒して痛みを伴は無い快楽を提供したかった亮太の気持ちは素直に同感した。香を抱きながらずっと朱里の身体を想像した。目を閉じ無くても目の前には朱里が見えた。
「あなたがもっと欲しい。本当に欲しい。」

2度目の射精の後に少し焦げ臭い臭いが鼻について片倉秀喜は我に返った。「どうしたの?今日はそんなに溜まってるの?ごめん私もう疲れたし…痛くなりそうだからやめたい。」

何も言わずに片倉はシャワーを浴びた。なぜか鼻の奥に焦げた臭いが残っていてその臭いを吸い込むと有り得ない快感が走って手で触れてもいないペニスは射精した。怖かった。朱里の母親にいかされたのだ…何故だかそう確信出来た。
「昨日の夜はごめん…しつこくて…なんか仕事のことが頭の中で残っていて今日は疲れが抜けないから家に帰るよ。」
まだ朝の8時なのに身支度を済ませた片倉は香にすまなそうに装った。
「私エッチって嫌いじゃないんだけど…途中で乾きやすいし長いのとか何度もとか苦手なの。前の彼氏が結構しつこいし、エス気質でそういうの好きで…拒否ってたらなんか浮気してるっぽいし別れたんだよね。まあ仕事もたいしたことないしそろそろ結婚したいし別れたの。まあ見た目はいかつい感じでかっこよかったんだけどね。秀ちゃんも昨日みたいにスイッチ入るときあるの…以外だった。タンパクなのかなとか思ってたから。まあ私赤ちゃん早く欲しいし、何とか頑張るよ。」 

セックスは生殖行為です。しかし人間は快楽と生殖を分けたりします。結婚したら生活を伴う関係が殆どです。恋愛と結婚をわけることはあります。恋愛とセックスを分けることもあります。でも嫌いな人間とはセックスはしません。でも嫌いな人からセックスを要求されてレイプされる事があります。結婚すると相手のことをレイプする事があります。それは結婚していると同時に相手とセックスする権利があるからです。結婚していても望まない妊娠は起こります。多くの既婚者が望まない妊娠からの出産を経て望まなない我が子を愛するふりして育てるのです。
セックスをしたい人同士がセックスを目的にセックスを楽しむとセックスはもしかすると愛になるかも知れません。未熟な愛がうまれるかもしれません。

愛からはセックスは生まれませんよ。人間は常に発情していますから。 

「え。俺昨日ゴムしてたよね?二回とも」
香は不思議そうな顔をして頷いた。
「そうだよね。じゃあ今日は帰るよ。ごめんね。又連絡するよ。」 

中央線は休日の朝なのにそこそこひとが乗っていた。とにかく家に帰ろう…香の部屋で一睡も出来なかった眠気と疲労感が襲う。朱里の代わりに香を抱いたのか?香を抱いても朱里の残像に取りつかれていたのか?どちらにしてもその後は小林七子の存在からの洗礼を受けた。怖かった。自分もこのループにはまってしまったのだ…抜け出さなきゃ。でもそう思えば思うほど朱里の白い肌と人を吸い込むような瞳がなまめかしく自分の全てを刺激した。

【片倉様へ

お陰様で明日退院する運びとなりました。声も今ではしっかりと、出るようになりました。片倉さんのお陰です。事故現場も近いので住んでいたアパートからは引っ越して、祖母の家に帰ります。火傷の跡はそこそこ残りましたが、このままで良いかなと考えています。精神科への通院はお願いされていますが、その辺のは何とか誤魔化してスルーしようと考えています。勿論そちらの薬も飲んではいません。余談ですが…父親と話し合いがうまくいきまして、無事に母の遺骨を回収する予定です。骨を砕いて風に葬むれば母の気持ちが楽になるかどうかは正直言ってわかりません。でもそうしなければいけないと思います。感じます。片倉さんとお会いして本当に良かったです。勝手にこんなメール書いてすいません。でも…私は今迄母の事を誰にも相談できずにいました。感覚を共有している祖母は別ですが…どうせまともな話ではないから…そんな自分は何かにつけ自暴自棄になっていたのだろうと思います。恋愛もセックスも友情も、真面目にしていなかったのです。正直今回の事故で母に殺されればよかったとも考えました。亮太さんを救えなかったことは、今なおくやまれています。今後母が又何かおこしても…、もう誰かに聞いて頂くことはないと思います。片倉さんの様な方には出会えるともおもえないので。最後にもう一度…ありがとうございました。

小林朱里】 

明石亮太の49日が過ぎて納骨が済んだ頃…。
片倉秀喜と小林朱里はひさしぶりに再開した。だいぶ涼しくなり、待ち合わせ場所のテラス席は人が少なかった。
「すいません。立場的に私が貴方をお誘いするのは良く無いとは思うのですが…どうしても貴方に直接にお礼を言いたかったので、後何か私のことで困らせたことがあると思って…」
相変わらず魅力的な朱里の頬にはケロイドが残っていたが、そのケロイドすら繊細なアクセサリーか、アートメイクの様に見えて朱里の魅力に溶け込んでいた。
「メールでもお話をしました。私は…俺はあたりまえの自分の感じた事をしただけです。困らせたことは…貴女のことが頭から離れない事です。最初のうちは本当に困りました。貴女の姿を考えるだけで欲情したり。でもそのおかげで気がつきました。付き合っていた彼女を愛していないこと。自分の容姿に対する偏見的な性格も。
あなたのことを考えると…どうかしてしまう事を何とかコントロールしようと色々試行錯誤してみました。愛しているふりをして恋人を貴女の代わりに犯したり…貴女を考えて気が済むまで自慰行為もしました。事故現場にお花も持って行きました。貴女に伝えることができるかもしれないと言う理由で…明石亮太さんの劇団のかたにもお話を伺いました。とにかくあなたのことを考えると…たまらないのです。自分を返してください。朱里さんのお母さんが明石さんにそうであったみたいに…。明石さんがお母さんと朱里さんにそうであったみたいに俺は今頭の中で貴女を考えて全て焼けてしまいそうです。多分そんな気分になれる人間はそういないとおもいます。とてもとても苦しくて辛くて多分幸せですよ。貴女を思う…それだけでいきそうです。とても困ります。貴女はサキュバスなんでか?」

二人は見つめ合い、薄く笑みを浮かべた。
「そうかもしれません。とても嬉しいです。」

朱里は片倉秀喜の手を握り大きな瞳で包み込んだ。
「ズボンのとパンツの替えを買いに行きませんか?鞄でとりあえず隠して。」

「多分こうなると思っていたので用意してあります。でも…今履いている物を洗わないと使えなくなるので何処かホテルで着替えて洗濯したいです。」朱里の瞳から一滴涙がこぼれた。
「ぜひそうしましょう。」 

男は生まれて初めて女性器が美しいと感じた。ここから産まれた神秘を感じた。ここに入れる喜びを感じた。相手は悪魔かもしれないのに女神にしか見ない。神々しい女神に沢山喜びを与えたかった。女神に自分の子種を全て差し出したかった。今初めて二人はお互いが全てを求めて与えることが出来た。そんな事は人間みたいな脳が大きくなりすぎた下等生物は難しいはずなのに…。セックスが欲しいからセックスを与える。貴方が欲しいから貴女を与える。愛がほしいから愛を与える。そんな簡単な事が頭が大きくなると難しいのだろう。 

第四章 

7/19母の命日は亮太の命日でもある。空葬をした七子の魂は亮太の所にあると信じて一緒にいて欲しいと願って。朱里は白い百合の花を亮太が埋葬された無縁墓地に供えた。念の為空に向っても手を合わせた。自由な母はもしかしたらたまに空を散歩しているかも知れない。

「赤ちゃんの事は話したの?」
「見ればわかるでしょ。もう臨月なんだから!」
朱里は、片倉朱里になって大きなお腹を抱えて汗を拭った。暑い夏を越した妊婦は丈夫な赤ちゃんを産む。よく耳にするが、真夏に重いお腹と、何時も以上の代謝量を浸すら乗り越える妊婦に対する労いなのだろう…。ぐっと我慢していれば良い事がありますよ。だから我慢しなきゃ駄目ですよ。日本人らしい思考でもある。食べられません勝つまでは…みたいな。
今まで激動と言えるであろう人生を、送ってきた朱里にとって今は本当に健やかな時間だった。公務員の妻で今は産休中の主婦だ。
父親は再婚をして音沙汰もないので多分元気なのであろう。
祖母もそれなりに元気で暮らしている。もうすぐ会える曾孫の事であれやこれやと動きまわり、更に若返っている。
香とは全く連絡をとってはいないが、風の噂では、結婚して夫と共にタイに行って駐在員妻になっているらしい。
勿論髭面の消息は知る由もない。まあ、今更髭面がノコノコ出て来ても、夫は全て知ってるし、いきがっているだけの髭面より、刑事の夫のほうが明らかに全てに分がある。
顔のケロイドは思ったほど酷く無いので朱里は全く気にしていなかった。父親と片倉の両親は整形手術をすすめていたが…子供に遺伝する訳でも無いんだし、逆に火事や火傷の怖さを生まれて来る子供には教えたい。いずれは祖母である七子の話もしたいと朱里は考えている。
ただ再婚した父親の現在の妻をおばあちゃんと、呼ばせるのは何か違う気がした。朱里の火傷以後お骨の話の事もあり…父親との関係は、ギクシャクしていたし、そもそも父親とは良好な親子関係でもないが…男手一人で育ててくれた恩があるので孫位抱かせてあげたかった。
但し父親が孫を抱きたければの話だ。親だから子が可愛い。孫だから目に入れても痛くない。それは全ての人間の感情では無い。 

自分が大好きで自分の生き方が大好きで自分の路を貫き通して家族が二の次だった親は特に男は…孫に一番美味しいものを無意識に渡せないらしい。
自分のやりたい事を我慢して仕事、家事、子育てをしていた親。特に女は…愚痴ばかりを他人に漏らし、孫を視えない所で粗末にする。自由を得られなかった不満を間接的にしか発散出来ないゆえに結局尽くした者にも他の人にもうとまれる。
2者は真逆と考えられるかも知れないが…2者共に誰も幸せに出来て居ない。自分も。

全てマジョリティーに進んで行っている様で皆なんとなく躓いている。 

「暑いし…歩き回るのは家の近くにしよう。何かあったら困るよ。大事な妻や娘に。」
片倉夫妻は手を繋いで墓地を後にした。
「又ねお母さん亮太さん。次は赤ちゃんと一緒にくるからね。」

柔らかい風が漂って白百合の香りが舞い上がった。意味はわからなかったけれどそれは母からの答えであると朱里は頷いた。

「悪いね…1日休みに出来なくて…今さぁ面倒な事件担当しててさ…今日は夜遅いから先に寝てて。夕飯も要らないし。でも、もし何かあったら直ぐ連絡してね。立会い出産するって…職場には伝えてあるから。」
妊娠37週目に入って朱里はいつ出産しても良い身体になった。今の所子供も順調に成長している。出産自体の心配もあるが…朱里には気になる事があった。
2ヶ月ほど前朱里は、祖母に胎児の性別を伝えた。その時一瞬祖母の顔が曇ったのだ。曾孫の性別を気にする理由は何だろう?女であることが何か意味しているのか?祖母も母も自分も胎児までも。まさか何か…。
久しぶりのひとり夜時間に、朱里は何かに突き動かされてパソコンで検索した。
【女夢鬼、淫魔の血族

確認されている最古の話は鎌倉時代の前半に、妖艶な白拍子をみた男たちがその白拍子を忘れることが出来ず日常生活が破綻。その白拍子は夜な夜な男たちの夢に出てきて男たちの子種を奪って行った。身分も長男であることも関係なく男たちは種なしになり、家はh滅びてしまう。男たちの子種は女夢魔から子供を授かれない夫婦に届けらる。…女夢鬼の身体から男達の身体へ、男達から妻の身体に。そうして女夢鬼の淫血は末広がりに拡散さらた。

元禄時代になり花街に店をかまえる店主は女夢魔の素質の少女を求めていた。女衒も女夢鬼を見つけだして高額に女夢鬼の少女を売りたいとしていた。女夢鬼の遊女は男を、子種の数まで通わせると伝説が残り。有名な花魁や太夫にも女夢鬼が多くいたのではないか、と言われている。

明治になり政治家や貴族の一部からは、女夢鬼抱きたいと名乗る快楽者はかなりの数がいた。女性好きで有名な時の内閣総理大臣、伊藤博文首相もそうであったといわれとぃる。

もともと女夢鬼の言い伝えがあるのはО県集落で、なかなか子供に恵まれなかった夫婦の間に念願の子供ができたがこの子供が女夢鬼であり夜這いの風習があったこの集落の男たちはたちまち女夢鬼に骨抜きにされて妻を相手にしなくなり。困った集落の女達は団結して女夢鬼を焼き殺した。
この様な話はО県だけでは無く、全国的にまことしやかにあるのだが、О県のこの集落の古い名家に文章で女夢鬼に関して記した話があり…更にはこの様な注意書きがある。
1.
三年間子供が出来ない夫婦に出来た子供が女であれば女夢鬼であることがある。成長して以下の特徴が見られた場合は直ちに焼き殺して灰にする事。
2.女夢鬼の特徴。
白い肌で美形。男であれば感じるであろう妖気を持つ。(幼女でも素質がでる。)
太股の内側に花の様な痣がある。まれに蝶の痣を持つ者もいる。蝶のあざの者はより血が濃いとされる。痣は10歳位から出るとされる。
3.
.女夢鬼が産んだ女子は必ず女夢鬼になる。男子は鬼の血は継がないので生かしても問題ない。
4.
女夢鬼は必ず焼き殺す。殺してもそのまま地にうめてはならない。女夢鬼の血肉をのこしてはならない。必ず灰にする。
尚女夢鬼の血筋を受け継ぐ女性は現在もいると思われる。ただ大多数は子供の頃に土着信仰の裁きで死に絶えていると思われるのでその血はわずかであろう。キリスト教の中で悪魔と言われるサキュバスと似ているが、そもそも人間以上の変身もしないので人の心が生み出した偶像の鬼ではないかと考えるのが常識的であろう。】 

これ本当の話なの?。自分の事かもしれない酷く朱里は怯えた。 

一生懸命に朱里は自分の太股の内側を覗き込んだが臨月のお腹が邪魔になり、なかなか難しい…。自分が産もうとしているのは女夢鬼なのか?自分も女夢鬼なのか?だとしたら何故祖母は何も教えてくれなかったのだろう?
祖母も母も色っぽく色白で、タイプは違うが美人だ…今迄の自分が感じてきた女の性(おんなのさが)は鬼の血のせいなのだろうか?
もしもそうだとしたらこれから産もうとしている娘もそれを背負って…それから逃げられないのだろうか?

「ただいま。朱里あれ?まだ起きていたの?どうしたの?具合が悪いのか?」
夫に抱き着きついて朱里はただ絶望の涙を流した。
「私の…私の内腿に花とか蝶々みたいな痣ってある?お腹が大きくて自分じゃよく見えないの。」

両脚を開いてスカートをめくりあげてソファに仰向けにになった朱里の太股をなめながら片倉は痣が無いことを確認してくれた…
「痣なんてないよ…でもここには綺麗な花があるけどね…もう直ぐこの綺麗な花園の奥から天使が出てくるんだよ。楽しみだね」

優しく優しくなめ上げてもらうと今までの不安は快感と共に薄れていく…そして快楽のみが朱里を支配した。
よかった私は女夢鬼じゃない。おばあちゃんもお母さんも赤ちゃんも…。私達は幸せになれる。幸せになる。女は快感のトンネルを抜けるとそこには違う空を見れる。見ることができる。 

「おめでとうございます。片倉さん。可愛い女の子ですよ。とても元気で美人さんだわ」
中年の助産師はまるで自分の子供をみるように愛おしそうに朱里の娘を抱いて近づいてきた。

朱里は何だか怖かった。痛みと苦しみの長い長いトンネルから抜けた空の色。世界。空気…何もかもが自分にとって幸せの空間なのかどうか…酷く不安で、ケロイドが所々残る腕が震えた。
「どうしたの朱里?大丈夫。痣もないし俺にそっくりな美人だぞ」
ただただ片倉秀喜は朱里の不安を取り除きたかった。病院で一目惚れした時からそう思い続けている。

「片倉さん?おめでとう。母子無事でよかったよ…まさか曾孫がみれるなんて本当に長生きするものね…赤ちゃんは鏡越しに今見てきた。色が白くて美人ね。片倉さんに似て鼻筋が通って。朱里は?」
「今眠っています。今日は授乳も出来る範囲で少し休ませて下さいとので…少しばかり出血の量も多かったので…」
「そうなのね…じゃあ起こすのも可哀想だから帰ろうかしら。赤ちゃんには会えるからね。又退院の時も迎えに来るし」
「あ。おばあさん…少しばかり伺いたいことがあります。もしよろしければ下の階の喫茶店でお話を出来ますか?」

軽い溜息をついてから朱里の祖母は強い口調で答えた。
「女夢鬼の…話かしらね?」 

二人はアイスコーヒーを並べて難しい顔をしていた。以前朱里が検索した女夢鬼の内容を片倉は祖母に話した。色々調べたがそれ以外の情報はパソコンでは探せなかった。そもそも朱里が検索できたのが奇跡的でもあった。しかも後日見返そうとしたが…気味の悪い話で…既にそのページは削除されていた。まるで朱里に読んでもらう為だけに存在していた様に。
「私の母は芸者でした。それはそれは綺麗な人でね…踊りもうまかった…あちらもすこぶる素晴らしくて旦那さんになる方は骨抜きにされると噂でした。それでも母の旦那になりたい人は後を絶たなかったみたいです。私は当時母が内緒でお付き合いしていた物書きの子供でした。母は当時の旦那の子供だと言うことにして私を産んで直ぐ死んでしまいました。縁起の悪い話で悪いけど…まあその当時はよくあることだからね。私は言い伝えみたいな感じで周りの大人から女夢鬼の話を聴いていたの。ついでに私の母は女夢鬼で…多分私もそうだと…。七子が女夢鬼の話を聞いたのは明石亮太さんと駆け落ちする少し前だったかな?わたしの異母姉妹の姉さんから聞いたのよ…異母姉妹だけど…まあ本当は血も繋がらない母の旦那の正妻の子供よ。まあ何かと意地の悪い姉さんだったけど…何処かで女夢鬼の話を聞いたみたいで、親戚の葬式の時かしらね…わざわざ七子に話したのよ。」

二人はアイスコーヒーを飲んで少しばかり黙ってつぎの言葉を考えた。

「あの。内腿に花とか蝶々の痣って言うのは本当なんですか?10歳位って聞いたのはどういう意味かご存知でしょうか?」
奥でトーストを焼いているせいかなんだか焦げた臭いが、ふたりの鼻先をほんのりかすめた。
「痣は私にもあります。もうだいぶ薄いけどね。自分のことしかわからないから確実な事分からないんですけど…痣は女夢鬼の脂の乗りで変化するみたい。もし朱里に痣あるなら今は薄いでしょう。又授乳が終わり女の身体に戻れば濃くなるはず。こうやって私は自分の体質を理解して付き合えたから朱里も曾孫も大丈夫よ…でも…出来たら男の子だったら何の心配もないから…つい曾孫の性別聞いた時、私顔に出ちゃったのね…駄目ね…」
「あ、あの…俺嘘をついてしまいました。朱里には痣なんて無いと…朱里の痣は本当に本人ではわかりにくいところにあるんです…だから前からあるのを知っていましたが、なんだか怖くて言えなくて…もしまた朱里が女夢鬼の事を気にしだしたらおばあさんに相談しても良いですか?」
アイスコーヒーの氷は全て溶けてしまい焦げた臭いも無くなってiいた。…気がつけばもう夕方だった。

「今日は丁度良い機会だから女夢鬼の事を片倉さんに知ってもらって良かった。でもね女なんて本当に好きな人ができれば皆女夢鬼のになるんじゃないかしら。」
祖母の言葉に安堵しながらも、本当に朱里が女夢鬼だと言うことが、片倉秀喜には信じられずにいた。この間までスピリチュアルな事は一切受け付けない人間だった割には、かなり柔軟であるが…。

自分の娘が生まれた日に自分の妻が鬼の血を引いていますよ…そして産まれたての赤ん坊も…。悪夢の様な現実。

とにかく疲れた。明日も仕事なので朱里と娘に挨拶して帰ろう。

 

 

最終章 

「ねえ!お母さん女夢鬼って何?伯母さんが、私のおばあさんは色に特化した芸者で男を骨抜きににしていたんだよって…その血は娘だけに受け継がれていて、お母さんもそうだし、私もそうだし、朱里もそうだって…何なのそれ…なんで教えてくれなかったの?これから朱里に何て話すのよ。」

七子は母親の髪を引っ張ってから胸を押した。

「落ち着きなさい七子。姉さんがどんな風に話したか知らないけどあの人が意地悪なのは知ってるでしょ?しかもあなた自身が30年以上も生きて自分が好色鬼だなんておもわないでしょ?貴女いつも真面目に恋愛して結婚して朱里にも産んで優しいお母さんじゃない?そうでしょう。」
七子は母親の髪を離さないでぐるぐると回しながら引っ張り回した。

「そうよ、そうだったのよ。いつもお色気ムンムンでちっともお母さんらしくないお母さんが嫌だったし。お父さん以外の人とも直ぐに寝たりするし…そのくせお父さんとも夜な夜なうるさいし。私はそんな恥ずかしい女にはなりたくなかったのよ!だからずっと無理してたの。眼鏡だって本当はかけなくて良いくらいの視力だけど…裸眼だと…目で誘われたとか言い出す奴もいたし。とにかく自分にもそんな気質があるのをずーっと隠してた。無理してたの。だから誰よりも鈍感な夫と結婚したのよ。あいつ眼鏡外したら弱視でほぼ見えないし。物凄い早濡だし。とにかくお母さんみたいになりたくないからがまんしてたのに!」
「七子?何かあったのね?伯母さんの話を聞いてなにか合点がいく事があったの?それとも朱里に何か?」
泣き崩れる七子は眼鏡を外した…明らかに黒目が大きくて少したれ目で少女の様なあどけなさがあった。母親同様白くてきめの細かい肌と良く溶け合っている。
「最近痣ができたの、内腿に…最初は小さかったの…徐々に大きくなってクローバーみたいになってきたの…皮膚科に行こうかと思っていたら…伯母さんに、話を聞いたのよ。今じゃ蝶々みたいになってるのよ。色も変わるのよ。…朱里とお風呂に入る時は薄いのに濃くなってるときもある…もう私無理かもしれない。無理なの。永い間我慢していたのに。そうよ…女夢鬼の事わかっていたらもう少し上手にできたかもしれない。ちゃんと教えてくれてさえいれば…」
「七子…ごめんごめんね。私は知りたくなかったから。だから知らない方が幸せかもしれないって。つい。でも無理って…どうしたの?好きな人がいるのね?上手くお付き合いできないの?朱里といれば平常心が保てるなら大丈夫なはずよ。あと…一人にのめり込むとその人を食べてしまうから…」

鬼の形相で母親の頬を平手で叩いてから、乱れた髪を整えた七子は身支度をして靴を履いた。
「どうせ鬼なんだから食べるんじゃないの。私はあんたみたいに中途半端な事できないのよ。血や肉は残しちゃいけないのよね焼き殺すのよね。もし私が女夢鬼の事わかっていたら子供なんて産まなかったけど…。今更朱里焼き殺すわけに行かないでしょ。あとはあんたが責任とって淫乱性教育してあげてよ。私の人生…生まれた時から淫乱なんて本当笑える…恨んでるから。あんたから産まれた事恨んでるから。しかも淫乱になる娘産まされた事恨んでるから!」
母は娘に罵倒された。

当然の報いかどうかは当事者にしかわからない。娘は何処に行くのであろう。止めることは出来ない。孫娘にはどう教育すればいいのか…もう10歳になる…女夢鬼。そうね私も血や肉は残せない。
七子ごめんね。貴女を愛しているのよ。普通の母親と同じように。女夢鬼はほかの鬼と違い人間の血肉では無くて子種をほしがるの。それを食らうの。今迄我慢していて辛かったでしょう。お腹いっぱい大好きな子種をむさぼりなさい。 

朱里の娘は朱里の母乳をしっかりと飲んで母子無事元気で、今日退院になる。

「片倉さんの赤ちゃん本当美人さんだよねーパパも本当イケメンだしさ。でも片倉さんの火傷マジで酷いよね…すごい美人なのに…なんで治さないのかな…スタイル良いのにあのケロイドじゃ生足も半袖も無理だよね。でもさー.知ってた?大先生さあ…片倉さんの診察で…」
30代後半の看護師は、豊かな二の腕をかきむしりながら、同僚の看護師の耳元でいやらしく笑った。
「え?それ医師として一番だめでしょ。しかも大先生でしょう。もう70過ぎてるのにやばすぎ…まあ私達が誰にも言わなきゃいいんじゃない。ふふふ。」
「妊娠中の診察の時は普通のだったのに…この調子じゃあ…一か月検診の時とかもダメでしょう。問題になってからじゃまずいからやっぱり若先生に報告しようよ…女医の方がいいでしょ。」
「そうだね…私達の職場が無くなっても困るし…片倉さんさあ…産んでから凄い色気出たもんな…でもさーふふふ…プロでもあるんだね。医者のくせに…バイアグラでも飲んでたのかな?ふふふ」
看護師達は無責任にお喋りして楽しんでいた。 

朱里はあれやこれやを鞄に詰め込んだ。これから始まる子育てに自身は無し。母乳の事や自分の産褥の事。ひたすら目の前は前進のみのジャングルみたいだ。たった5日間入院生活のでは余りにも足りない。全く自分が頼りない。
「朱里?」
「あ、おばあちゃん。ありがとう迎えに来てくれて。タクシーは玄関にいる?」
「私が乗ってきたのを待たせてあるから大丈夫よ。荷物はそれだけ?荷物は私が持つから赤ちゃんはよろしくね。じゃあ院長先生に御挨拶して帰りましょう。」

祖母と朱里と赤ん坊は院長や看護師にお礼を言って一礼した。
「退院の記念に皆さんで写真を撮っているんです。一か月検診の時に写真をお渡ししているので良かったらおばあ様も入って下さい。でも…なんですかねぇ…おばあ様もとても美人でいらっしゃる美形の遺伝子がここまで脈々と受け継がれている方々もまれですなぁ。」
写真撮影の時にさりげなく朱里の腰に院長は手を回した。2人の看護師はしっかりと確認してクスクスと笑った。

「貴女はが産まれた時も同じ事を言われたのをおもい出した。」
「え?何の事?」
「さっき院長先生が言ってたでしょう。美形の遺伝子が…とか何とか。あ…七子が産まれた時もそうね。同じ事言われたのよね…懐かしい。」

暫くタクシーの中は沈黙が続いた。炎天下の昼過ぎに黄色い帽子の小学1年生が重そうなランドセルを背負いながら歩いている。その光景に、何故か朱里は涙が出て悲しくて苦しくなった。
白い産着で白いおくるみの白い赤ん坊は小さく息をしていた。かつては自分も母に抱かれながらそうであった様に。そして母も祖母に抱かれてそうであった様に。

「そうだ…名前は決めたの?出生届出さなきゃいけないわね。」
朱里は涙がとまらないので答えなかった。狭い路地に入ってタクシーは止まった。タクシー運転手は女性で彼女が振り向くと不思議と甘い百合の花の香りがした。 

部屋は綺麗にかたづいていた。ベビーベッドの横には新生児用のオムツやおしりふき。洗濯の済んだ肌着やバスタオル。ガーゼやおへそ消毒用の綿棒にベビーオイル。キッチンには哺乳瓶や赤ちゃん用の洗剤。哺乳瓶の消毒薬などが整理整頓されて並べてあった。夫が全て夜な夜な仕事終わりに整えてくれたのだ…。
「しっかり整えてくれてるじゃない。片倉さんがしてくれたのでしょ?朱里はこんなに几帳面じゃないから」
ずっと無言だった朱里はやっと微笑んだ。
「おばあちゃんお茶入れるね。カフェインレスのコーヒーだけど…赤ちゃんねている間におやつ食べよう。洗濯も回さなきゃいけなかった。」

髪を結んで目の前の事だけを見ようとした。
「私がもう少し若かったら朱里は寝ててもらうのに。何だかかわいそうね。」
朱里は鼻で笑った。
「10歳の時からそうじゃない。もう仕方ないよ。お母さんはいないんだし。あとね…女夢鬼の事私調べたの…。書いてある事は余り詳しくなかった。多分言い伝えとかだし…嘘もあると思う。おばあちゃんは知ってる事沢山あるかもしれないけど…私は今は知りたくないの。だからね。私が聞いた時に教えてくれたら良いから。あとね…もう子供は産まない。避妊手術を受けようと思っているの。とにかくこの子を大事に育てる。そのせいで離婚されても仕方ないと思う。で…今はこれだけ教えてください。お母さんは私を産むとき自分が女夢鬼である事は知っていたの?」 

朱里は至って冷静だったが、かつての七子の様に真実を教えて貰えなかった憤りは隠せなかった。もしも女夢鬼の事を知りながら人生を送るなら…これまでの生き方のままで良かったのかもしれない。
適当に髭面の様な男とセックスして自分で生きてセックス出来なくなったら適当に死ねば良い。自分の欲望と付き合えば良い。至ってシンプル。これまでの自分なら結婚も妊娠も求めていなかった。恋愛すらしていたかと聞かれれば…していなかったかもしれない。大体の男は自分を求めてきたし。それが愛なのか愛欲なのか?なんて対して気にしていなかった。
ただ片倉秀樹は違った。有り得ない位の愛欲と愛情をぶつけてきた。真面目な美青年が性奴隷のように朱里に諂い。暴君の様に何度も求めた。全ての子種を朱里に捧げようとしているのがわかった。
i今思えば…あの時下北沢のホテルで亮太が自慰行為して射精したのも朱里に捧げたかったのかもしれない子種を。 

「七子が女夢鬼の話を知ったのは、亮太さんと駆け落ちする前だったのよ。話をしたのは私の異母姉だったけど…知らせていなかった事を酷い剣幕で怒っていた。でもね…多分その前から七子は自分が何者かを、気が付いてたみたい。子供の頃から私の事を反面教師にして性にも慎重にしていたの。朱里なら分かると思うけど…それはかなり大変なことよ…でも亮太さんに出会って、たがが外れたのね。」
カフェインレスのコーヒーを飲みながらお見舞いでもらったプリンを遠慮なく食べながら、まるで世間話でもするように祖母は話をした。流石に80年間も生きている鬼は違うのだ…朱里は絶望に近い馬鹿馬鹿しさで笑えてしまった。
「お母さんの気持ち少しわかる。お母さん…私の身体を使った時も本当に飢えていたもの。でも結局亮太さんを食い殺してしまった。かわいそう。亮太さんを殺したく無いから自分の事を燃やしたのに…」
「あのねぇ、朱里実はね…七子はね…。今しかいう時が無いから言うけど…妊娠してたんだよ。亮太さんの子供をね…だから焼いたんだよ自分事も赤ん坊もね。血も肉も。」
酷い話だと朱里は思った。母親七子は何て哀れだ。きっと亮太には普通の女であると思わせたかったのであろう。だから最後も亮太を一酸化炭素中毒で殺してから死姦したのだ。

おやつを食べ終わると出産祝いの入った袋をテーブルに置いて祖母は靴に足を通した。
「明日はお七夜でしょう。鯛は焼いて持って来るから。あと赤飯は今熱いからお寿司でも頼みましょう。明日夕方にまた来るね。必要なものあれば買って来るから電話してね。」

正直祖母の言葉に驚いた。あんなにも淡々と娘の不幸な人生を語れるものなのか?今母親になってみると…余計に違和感を感じた。でももし祖母が母に女夢鬼の事を話していたら自分もいなかった。そして祖母が自分に話していたら今いるわが子はいないのだ。どちらが良いとか、どちらが正しいとかは今はもう言えない。言ってはいけない。それはもう既に自分の娘はここにいるからだ。
それから洗濯物を干して初めて赤ちゃんを入浴させた。気持ちよさそうな赤ちゃんは可愛い以外の言葉は出なかった。37度のお湯はかなりぬるい感じだが新生児の柔らかい肌にはこのくらいなんだろうな…。
「ただいまー!あ、お帰りか?あーどっちかなとにかくお疲れ様。」
お弁当を抱えて家に飛び込んできた夫は授乳中の朱里の頬にキスをした。「おーちびちゃん可愛いなあ。おっぱいのんで大きくなれよーパパはおっぱい見る前から大きくなっちゃうんだよーハハハハハ」
「明日お七夜だからおばあちゃんが鯛持って来てくれるみたい。お寿司頼んだりするからお父さんとお母さんも呼ぶ?あ、後名前決めないと…」

夫婦は至って健全な夫婦だ。初めての我が子を思い、あれこれ考えてそれを喜びに感じることができる。 

赤ん坊がいるとこんなにも時間が目まぐるしいのかと2人は感じた。仕事で疲れているはずなのに色々と手伝ってくれる夫が頼もしかった。一瞬でも娘が生まれるのが怖いと感じた自分が恥ずかしいと朱里は思った。この子は夫の子供なのだ。大丈夫大丈夫。
夫と一緒にいれば私も娘も人間だから。

「朱里…今少しだけ大丈夫?ごめんね。久しぶりに朱里と会ったらつい。」申し訳なさそうな声とは裏腹に片倉秀喜は朱里の口に自分のモノをねじ込ませた。乱暴だった。
「朱里も欲しかっただろ?なあ…ほらよだれがすごいぞ。」
朱里は横目で娘を見た。気のせいか一瞬新生児に凝視されている気がした。自分も欲情したからか…子宮が急激に収縮して痛かった。しんしんと痛かった。口の中に出されたものを飲み込むまでしんしんと痛かった。
「うううううっ」
何もかも吸い込まれたみたいに呻き声をあげた夫はそのまま失神したように眠ってしまった。もう一度娘を確認した朱里は娘の天使のような寝顔に安堵して自分も暫しまどろんだ。
幸せそうな寝顔の朱里の口元から一滴白い精子が垂れた。 

その晩3時間おきに娘の授乳やらオムツやら朱里は母親の役目をこなした。口の中には精子の臭いが残っていてそれを感じると恍惚と共に子宮収縮がおきた。

時計をみると朝7時を回っていた。もう既に出かける用意を済ませた夫は朱里に朝食を用意してくれていた。
「昨日の夜ごめんね。なんか急に止められ無くなっちゃって。今日は6時には帰れるよ。育休とれなかった代わりでもないけど今月中は残業は無しにしてもらったよ。親父とお袋は7時位に来るみたいだから。飲み物とかは俺買って帰るから。じゃあ、行ってきます。」
朱里は豆乳をカフェインレスコーヒーに入れて夫の作った玉子焼きと味噌汁とご飯を食べた。乳腺炎にならないようにとの心使いの和食なんだろう。
やっぱり素敵な夫なのだから大丈夫大丈夫。
自分にいちいち言い聞かせていると本当に女夢鬼の事を忘れる事ができるかもしれない。
いや…女夢鬼なんかじゃなくなるかもしれない。今はお母さんも大好きな人と灰になって人間同士で天国にいるはずだ…天国じゃなくても良い。地獄でも大好きな人と人間同士なら。 

「もしもし、おばあちゃん?今日は片倉さんの2人は7時にみえるの。秀喜は6時に帰って来るから5時ぐらいに来てくれる?授乳してたりするかも…だから合鍵で入ってきてね。買い物は特に無いから鯛だけよろしくお願いします。うんうん大丈夫大丈夫色々秀喜が手伝ってくれてるから。」
七子は料理が得意だった。料理をする時は無心になれるし。料理は良いも悪いもちゃんと結果が出ると口癖の様に言っていた。しかも直ぐに結果が出て、人を喜ばせられる。まだ小学3年生の朱里にも作れるチョコケーキを当時七子は教えてくれた。簡単なのに美味しくて家族皆が大好きなケーキだった。
「朱里。このケーキの唯一注意しなくちゃいけないのは火傷だよ。」
「え?なんで?ケーキはフライパンもお鍋も使わないのに?」
「オーブンを使うよね?ケーキを焼く場合は予熱してあつーいオーブンにケーキのたねを入れるからそこで気をつけなきゃよ。後取り出すときもね。その時にはオーブンも熱々で、しかもケーキも熱々なんだよ。朱里の白くて綺麗な肌が火傷なんかしたら大変だよ。」
「うん。わかった。気を付けるね。あのね…よくお友達のお母さんに聞かれるんだけど…朱里ちゃんは外人さんのおじいちゃんおばあちゃんがいるの?とか。凄く色が白いし、目が大きいね。って…お母さんもおばあちゃんも色が白いから遺伝だよね?」
七子は笑いながら頷いて朱里を抱きしめた。ふんわりとしたおっぱいに顔をうずめて朱里は幸せだった。
七子が死んでからは,父親の誕生日やクリスマスに朱里がケーキを焼いた。今日は食べれないけど初めての娘のお祝いにこのケーキを作ろう。きっと皆喜んでくれる。食べきれなくてもお土産にもできるし。朱里はウキウキした。気のせいかふんわりした七子のおっぱいの匂いがした。大好きな匂い。 

娘が寝てる隙にケーキの材料を混ぜて焼く準備する。オーブンを予熱する。七子も朱里もふんわりよりしっかり水分が飛んだケーキ好きなので、予熱も焼くときも少し温度は高めだ。
「あれ何で焦げくさいの?オーブン綺麗にしたのに。」

オーブンを開いて確認してもなにも焦げていなかった。気のせい…。
予熱が終わり熱々のオーブンが出来上がった。ケーキを持ってオーブンを開けようとした時…オーブンを誰かが開けてくれた。 

「お母さん?…。」
そこには…もう自分とたいして年も変わらない色白の眼鏡をかけた七子がニコニコしていた。
「朱里このケーキ覚えていてくれていてありがとう。偉いわね朱里。赤ちゃんを産んだの?…何で貴女みたいな淫乱がそんな事するの?ダメでしょ?貴女にはそんな資格あるわけないんだから。何でわからないの?淫乱淫魔の女夢鬼が子種を吸い上げて産んだ子は、皆同じ事になるに決まってるでしょ?お前は女夢鬼なんだよ。下等な淫乱鬼なんだよ。よりによって女を産みやがって。この世にこれ以上その下種な血をばらまくな!。あのばばあみたいにあちこちから子種を吸い上げて上手いこと人間のふりして生き延びれるとか考えてるのか?甘いんだよ…調子にのるんじゃねえ…血も肉も焼いて消滅させないとね。こんな感じにね…」

みるみるうちに七子の身体はあの時の黒焦げに変わった。

「お前は何にもわからないのか?お前の子供は淫乱鬼だ。昨日の夜もお前が子種を吸い上げているのをしっかり見て子種の吸い上げ方を学んでたじゃないか?お前はいつもばばあのを見ていたんだろ?」 

気がつくと七子の黒焦げの腕の中で朱里の娘が泣き叫んでいた。

「やめて。お母さん。何するの?」
朱里の身体は指の先すら動かなかった。泣き叫んで助けを求めようとしたが、声もうまく出なくなっていた。只々意識だけはしっかりしていていた。黒焦げ七子の起こす一部始終を、心の中で狂乱して凝視するしか出来なかった。
「女夢鬼が産まれた時は焼き殺すんだよ。昔は土葬だからそう教えられたけどね。今は火葬にしてくれるから便利だね!中々自分で全部焼くのは大変だよ。こんなに黒焦げの私もまだまだ肉も血も沢山あるからねほーら」
七子は自分の頬をえぐりだして肉の塊を赤ん坊の口にねじ込んだ。泣き叫ぶ赤ん坊の口をふさぐように…その後赤ん坊を思い切り折り曲げた。バリバリと骨が砕ける音がした。小さく折りたたまれた赤ん坊はぐったりしていたが絶命してはいなかった。赤ん坊の口から自分の頬の肉を取り出してオーブンに入れた。たちまち焦げ臭い異臭が立ち込める。

「180度で30分間。しっかり水分を飛ばして焼きましょうね。」

折り曲げた朱里の娘を、自分の孫を、七子はオーブンに入れた。オーブンからは酷い臭いと悲痛な鳴き声がした。30分間オーブンの前で全く動くことのできない朱里は、ただそれを見るしかなかった。見続けるしかなかった。

何故だか悲痛な赤ん坊の声は今迄朱里の中で射精した男たちの喘ぎ声に聞こえた。 

30分後オーブンはちん!と鳴って止まった。

「熱々だから気を付けないと…朱里ちゃんの白いお肌が火傷しちゃうよ」
朱里の身体は動いた。動かせた。七子は消えた。

一時間後合鍵で祖母は部屋に入り全てを悟る。17時20分

「七子―!」老女は自分の喉を貫通するほど刺して絶命した。17時45分

ビールとスパークリングワイン、ノンアルコールカクテルをかかえて帰宅した片倉刑事はスピリチュアルでも何でもない…ただの地獄と出会う。妻は半分溶けた肉の塊を抱いていた。18時00分

片倉刑事の通報でパトカーが到着。同時に予定時刻より早めに到着した片倉両親。
通報のあった室内状況。 

自ら喉を刺したと思われる老女の死体。得体の知れない臭いがする室内。乳児の様な肉片を抱きかかえる女に対して後背位で挿入する現役刑事。18時25分 

「朱里朱里朱里…いくよいくよ…出すよ。だすよ。全部出すよ。朱里、朱里、朱里。」 

ここで新しいニュースです。昨日18時30分頃東京都大田区のマンションの一室で刃物で喉を刺されたまま死亡した80代の女性と、焼死したとみられるこのマンションの住人の長女でまだ生後7日の新生児が発見されました。当時同じ室内にいたとみられる死亡した乳児の母親と第一発見者の乳児の父親に詳しい事情を聞いています。なお第一発見者の乳児父親は現役の警察官とのことです 

「こんなになっても人間って生きてるの?あ…そうか。鬼だからか…」

朱里は泣きもわめきもせずに小さい声でつぶやいた。

あの時と同じ様に。                                                 (了)

#創作大賞2022  #一部性描写有り #小説
#恋愛とセックス #ホラー小説 #伝説
#女夢鬼

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?