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「ゴジラ」の本多猪四郎監督 第一回監督作品「日本産業地理大系 第一篇 國立公園 伊勢志摩」とは

この作品は、1949年(昭和24年)、東宝教育映画株式会社が製作した文化映画です。
 当時の東宝では、映画監督はもちろん、助監督から俳優まで、映画制作のスタッフを社員として雇っており、劇場で上映する劇映画ではない、学校などで上映するために作られる、文化映画や教育映画を助監督に作らせて、監督としての力量を試す慣習があったそうです。

 監督は、後に「ゴジラ」(1954年)を監督する本多猪四郎監督。
 彼は中国戦線から戻り、助監督として復帰、監督になるべく、日々精進していました。
 三度も徴兵されたため、親友の谷口千吉監督や黒澤明監督よりも遅れをとり、本社の社員から、収入が安定する総務に来ないかと誘われましたが、監督になることを諦めていない本多監督は、その誘いを丁重に断ったそうです。
 それほどまでに、気さくで優しい人柄である一方、自分の心に嘘をつかない、まっすぐな性格であることが、本社内でもよく知られていたからこそ、監督に起用されたのでしょう。

 そんな本多監督は、ドキュメンタリーの父といわれる記録映画作家、ロバート・フラハティを尊敬し、彼がアイルランドの孤島、アランの人々の生活を描いた映画「アラン」(1934年)に強い影響を受けていたといいます。

 本編を観ると、その影響が顕著に現れており、映し出されている自然風景や冒頭の農作業、伊勢のおかげまいりや海女が鮑を素潜りで取る姿、真珠の養殖の様子から、かの有名な活弁士、徳川夢声氏によるナレーションに至るまで、淡々と伊勢志摩の環境や文化について、事細かに説明しています。

 観光地のPRに使われる文化映画といえども、「みんなも伊勢参りに行こう!」とか、「伊勢志摩はいいぞ!」という、 近鉄のTVCMや地方自治体が制作した紹介PVみたいな構成にせず、良いところも悪いところも含め、綿密な取材と人々の生活の様子を素直に捉えるところに、この映画の特別な雰囲気があるように感じました。

 その最たる部分が、海女の素潜りを、当時は珍しかった水中撮影で捉えたシーンでしょう。

 「海女」と検索した際、検索候補に「事故」が載るほど、海女は、常に命の危険が伴う仕事です。本作では、それを後から追ったり、鮑を岩からはぎ取る様子を間近で撮ることで、命がけで漁をしている緊迫感が表れています。
 当時、ここまでの水中撮影は珍しかったらしく、日本の記録映画を買い付けに来た数々の海外のバイヤーがこの映像を観て、喜んで買って行ったといいます。
 そして、この映画で力量を認められた本多監督は、同じ技術を使い、初めての劇場作品「青い真珠」(1951年)を作り、それが、後の「ゴジラ」へと繋がっていくのです。

 このように本多監督は、そこにいる人々の営みと紳士に向き合い、それをフィルムに焼き付け、編集していく映画監督であり、だからこそ、東宝の特撮怪獣映画には、当時の他の怪獣映画にはない、独特のリアリズムを感じられる作品が多いのです。

 本多監督の作家性は、ただ観ているだけではわかりにくく、本人もあまり主張しない方だったために、日本で映画を作っている若い方々には、あまり知られていないように感じます。
 だからこそ、こうして本多監督の隠れた魅力を伝えていきたいと、改めて心に誓いました。

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