見出し画像

ツイッター怪談について思う

今年もツイッターの怖い話系タグがおいしい季節になりましたね。

ツイッターを始めて6年ほどになりますが、毎年このくらいの、8月中旬から下旬になると、恒例行事のように怖い話系のタグが流行るのは不思議なことだと思います。
私自身は怖い話・不思議な話を進んで聞いたり読んだりする、よくいるタイプの凡庸な数寄者です。実際に体験したり、集めたり、形にしたり、分析したり、ということにはとんと手が出ないミーハーです。
なのですが、今年のタグを流し読んでいて、ふと思ったのです。

ツイッターのタグって、百物語のろうそくみたいだな、と。

ツイートにつけるハッシュタグ、あれはツイッターのシステムで青字に変換されますね。画面表示をナイトモードにしているせいもあって、タグ検索をかけて一覧表示されたそれが、百物語の要、青い灯心をともした行灯に見えたのです。

百物語の灯心は、最初に百本用意しておいて、語り終えた者が引き抜く=消していくためのアイテムです。徐々に暗くなっていき、百話語り終えた時には、その暗がりに何かがあらわれると言われています。だから、九十九話でやめなければならない、とも。
ですから、もちろん、語られるたびに増えていくハッシュタグとは、根本的に違う、ともいえます。

閑話。
昔、英語の授業で英語圏の文化について習った時、おつりの数え方が違うというのを聞いて、驚いたことがあります。
日本のおつりの計算は引き算です。店側が、受け取った金額から代金を引いた差額をお客さんに返す、という考え方です。
欧米では、これがカウントアップ方式で渡されるというのです。例えば75セントのものを100セント貨幣を出して買ったとして、店は100セントを受け取り、お客さんの手元には75セント分の価値のある商品と25セント(=合計で100セント)がわたる、という考え方です。
こう考えると、カウントダウンとカウントアップは、手法の差こそあれ目的はそう変わりないものなのかもしれませんね。

閑話休題。インターネット上において、情報というものは増える一方です。
某掲示板では、書き込み上限が1000と決められていて、実際のオカルト板やその形式を借りた創作では、1000=最後の書き込みに何かが起こる、という流れがしばしば見られます。ただ、1000レスめは通常、システムで定められた定型文が出ますから、ちょうど1000の書き込みが行われる、ということはあまりないそうです。
上限を決め、語りの数を数えていく。語りの儀式が、現代に沿って形を変え、よみがえったのかもしれません。

百物語は、灯心がなくなったら終わり。掲示板は、書き込み上限になったら終わり。
条件が定まっていて、それを達成することで物事が収まる。それが儀式です。
儀式には、始まったものを終わらせる、その場限りのものにする、という力があります。行き過ぎないように。やり過ぎないように。それは、一種の安全装置とも表現できます。
ツイッターのハッシュタグには、投稿の上限がありません。もちろん、流行らなくなれば投稿は減っていきますが、明確な「終わり」という概念とは無縁です。
今年のタグは、昨年・一昨年にトレンドに上がったものとは違うものでした。ほとんど同じ傾向のタグなのに、続けて使われていたものが使われなくなった理由は、いったい何だったのでしょう。

十分な数が集まった青いハッシュタグの連なりの先、電子の海の暗がりに、何かがあらわれた。そんな妄想が、怪談愛好者の脳裏をかすめる夏なのでした。

こちらは2019年に筆者のカクヨムアカウントに掲載したものです。
(現在非公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?