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「任意」という強制  ハンコより自署が大事

6月半ば、自分の前を走っていたローディが信号無視で交差点に進入(T字路のバー部分を直進)し、横断歩道で高齢女性にぶつかり転倒した。目撃者として緊急通報。(なお、ロードバイクはゆるい傾斜を惰性でころがるような速度だったため、女性は軽傷ですんだ。)

後日現場での実況見分に呼ばれ、さらに1週間後、警察に呼ばれた。供述調書に署名を求められたのである。いつものライド途中に寄ることにしたが、ひとつだけひっかかりがあった。身分証明書のほかに朱肉を使うハンコを持参せよというのである。

折も折、実況見分の前後だったかネット記事で河野太郎デジタル相の発言が取り上げられていた。曰く、「交通違反のキップを切られたときに捺印や拇印を求められても、断ってかまわない。捺印は任意であって強制ではない」と。加えてあの人らしく「もし強制されるようなことがあったら自分に通報しなさい」というのである。

いい機会だから「この点つついてみるか」と、しかし一応ハンコを家内に借りて(自分の最後の職場は手続き書類に捺印を求めない職場だったので持ち合わせがなかった)出かけた。

いよいよという段になって上記河野談話を持ち出すと、警察官は「ああ、存じてます。たしかに任意なので拒否できますが、お願いしています」とあっさりしたもの。さらに「でも拒否すると理由をいろいろ訊かれてかえって面倒ですよ」とも。面倒はいやなので、根性のない老人は持参したハンコをついてそそくさと署を出た。

最初この稿は、自民党の次期総裁候補かと取りざたされている河野太郎の気どった発信スタイルを、現場にはすっかり無視されている事実をつきつけて揶揄しようとしていたのだった。ところがどっこい、現場は「捺印が任意」であることを承知で市民に捺印を求めているのだ。

この事態をなんと受け止めればいいのか? 

「任意という名の強制だ」といきまいてみても、「いえ、拒否もできます」と受け流されるに決まっている。「でも、理由は伺いますが…」と。あとに続くであろうやりとりが面倒くさくて、自分を含め多くの人は争う前にハンコを捺してしまう。意味のない形式と分かっていながら…

理屈をいえば、挙証責任はどちらにあるか、という話。この場合、拒否する理由を市民に問う前に、なぜ必要かを警察側が説明すべきなのである。なぜそうしないかというと、説明不能だ(捺印要の根拠がない)からである! いまや百均で調達できるハンコに本人証明を補強するどんな効力があろうか!? 

ことは警察の手続きに限らない。役所でも、学校でも、企業でも。さらにはマンションの自治会でも、etc.。日本はハンコと空虚な印影であふれかえるワンダーランドである。

ここでふと故大橋巨泉を思い出す。昭和のテレビ文化が生むべくして生み出した多能多芸の天才にして、稀代の合理主義者だった。彼は早くからハンコ文化に疑問を呈し、ついに「ハンコと自署はどちらが模倣しやすいか」との実証番組を企画し、答えは明快にハンコと出た。巨泉は得意げにハンコ文化の幕引きを期待したのだったが、現実は見てのとおり。晩年に出た某番組で寂しそうに「残念でしょうがない」と回顧していたのが印象に残っている。

ここまで読んでもまだハンコに未練を感じる御仁に問いたい。「あなたは捺印されていない年賀状を差出人不明で受け取りを拒否しますか?」と。

この問いにはじつは裏面がある。いまどきの年賀状はソフトを使っていないものの方が珍しいが、その場合、自分の名は印字するのではなく(印字してもいいが改めて)、自署するのが正しいあり方である。(これは年賀状に限らず、印字書面一般に通ずる。ハンコを信じるのも罪だが、自署のない印字書面を信じるのも同罪である。)

ハンコ文化をなくす前提として、自署(サイン)を再認識し、大事にすべきなのである




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