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わたしの意欲はどこにいるのか?

意欲!!

そうしたいと思う心。積極的にやろうとする意志。また、自ら進んで望むこと。

辞書に従うとそうである。意欲的、意欲がある、意志が強い、などそのような表現がなされることもある。

最初に言っておくとわたしはこの“意欲”に関しては個人に帰属するものではなく、集団の中で獲得出来るものだと考えている。まあ要するに他者の影響を強く受けるということ。

なので個人に対しての“意志が強い”という賞賛も、あまり意味が無いと思うし、反対に“意志が弱い”という叱責も、あまり意味が無いと思う。

我々の意志や意欲は確かに己の中から生み出されているものであるので、まるで個人的な情動のように思えてしまうが、そんなことは無いと思う。

それが意識的か無意識的かに関わらず、これは他者との摩擦(良くも悪くも)の中で生まれ出るものだ、と考えている。

従って“わたしは意志が弱くてダメな人間だ”と自分を責めてしまう人に言っておきたい。そりゃあ、あなたのせいじゃないよ~。と。

意欲的な若者。

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さて、あの会話をきっかけにということで、そのエピソードから思ったことを紹介する。なお具体的な会話内容については最後に書いておく。

つい先日、新卒の若者が営業に来られていた。

まあこれ自体はよくあることだ。会社にもよりけりだろうが、飛び込みの営業は若手の方が多い傾向にある。

わたしは過去にサラリーマンをやっており、新卒者の研修担当でもあったことがある。そういう訳で、割と新卒の方とコミュニケーションを取る機会が少なくなかった。

新卒の方々に見られる特徴としては、やはり経験が無いので“何かを知らないでいる状態”というのが見られる。

社会人経験やそのほかの人生経験のベースは個々に異なるため、例えば緊張度合いとか、コミュニケーションの進め方には当然差があるが、どんな方であれ“新卒”が2回目ということは無い。

※新卒の定義によっては在り得るのだろうけど、ここでは“学校を卒業後に初めて就職した会社”とする。

そのため、知らないことが多い。

一般的なマナーや常識と言われるものに対してではなく、経験から得られる知恵であったり、その業界や会社の持っている独特の空気感みたいなものを知らなかったりする。

これは良くも悪くも働く。知らないことで積極的になれるケースもあれば、知らないことで消極的になってしまうケースもある(これはまあ知ったことでにも置き換えられるのだけれど)。

ともあれそうした中で積極的な態度を取れるタイプに新卒者は、皆、意欲的に感じた。簡単に言えば“知らないことを喜べる”のである。

先日訪れた新卒の若者もそういうタイプで、営業の内容は“電力関係”のことだったのだけれど、わたしは幾人からも受けまくった説明と、独自に調べた情報によって、割と詳しかったりする。

結果的にその営業の方よりもずっと詳しく、むしろフォローをする機会もあった。

また、会社としてこういうのあるよね、ということ(例えば相見積もりとりますよ、とか、上長確認しないと割引率交渉出来ないよね、とか)にもやたら詳しいため、先手先手でこっちから交渉出来る。

恐らく慣れた営業の方からすれば、かなりめんどくさいタイプのお客さんなのだが…(笑)

新卒の方にとっては“勉強になる”とのことだった。本来であれば、失敗経験して知るような内容だったりもするし。

その方にとって、本当に勉強になっていたのか、リップサービスなのか、どちらかは正直分からないが、人が感心しているときの反応というのは、それなりに驚きや喜びが出るもので、やはり新卒の方ほどそういう反応が大きく出る。

これが“知らないことを喜べる”の意味である。

知らないことを恥じるようになる。

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一方で、それなりに経験を積んだ人になると、まあその自信も付いてくるからだろう、知らないことがあると、それを“恥ずかしいこと”と捉えるようになる傾向があると思う。

同時にそれが“惨めさを伴う”ことがある。多くの人にとって“恥ずかしいこと”は嫌悪感や不快感を連れてくる存在なのだ。

この違いはなんなのだろうな、と思うことがある。

そして、その回答としての一つこそが“意欲的であるか否か”なのだと思う。

人は学ぶべき態度に対して積極的であればあるほど、恥ずかしいことをきちんと受け入れるし、そこから学びを得られる。これを失ってしまえば、学びは減るし、恥ずかしさは増える。

わたしはそういうことを新卒の方から学ぶわけである。

しかしそれに大事になってくるのが、他者の存在なのだ。新卒というのは、知らないというのは、免罪符として働くことがしばしばある。似たようなもので初心者という言葉も。

それは達者な人の中にある“このくらいは知らなくてもOK”という許容に対するバイアスなのだろうけれど、これが働けば人は寛容でいられる。

しかし、不寛容であれば“なんでこんなことも知らないんだよ”になってしまう。

恥を覚えるのは自分自身の感情だが、それを否定的にとらえる要因の多くは外部に起因している。

もちろん自分で自分を責めてしまうこともあるが、それは「他者から責められることを避けるために自分で先に責めておく」というある種の防御反応であり、そのことは“否定された経験”や“否定される環境”によって起因される。

“自己否定は他者からの否定を請け負っている状態”にある。そしてこれは、それが実際に起こるかどうかより、起きたことがあるかどうかの経験の方が強く作用するとは思うけれど、実際に否定的な環境というのもあるので複雑である。

否定するのもされるのも、それなりに疲れるのに、請け負ってしまえば労力二倍。

どちらか一方をやらないだけでもずっと楽になるはずだが簡単ではないね。

そういう訳で、他者の態度が、当人の意欲に非常に大きく干渉するだろう、というのがわたしの考え方だ。

逆もあるのだ。

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そしてこれは逆にも作用する。

要するに、学びや恥じらいに対して肯定的であればあるほど、人は意欲的になれる。いくつになっても学び成長したいと思えるか否かは、周囲がそれを認めてくれるかどうかも非常に大きく関わる。

そしてわたしの知っている限り、これは「直接肯定される」よりもはるかに、相手が“同じように意欲的であること”の方が、よりよく作用する。

要するに、何かを常に学ぼうとし、恥じることを厭わない積極的な人、が側にいると、自分もそうしていいんだ、という肯定的な感情が生まれやすい(だろうしそもそもそういう方は他者を否定するケースは少ないのではないか)。

“自己肯定は他者肯定と地続きになっている”

ということ。習うより慣れよ状態ですかね。

そのため、こうした意欲的な人と話出来る機会があると、自分の意欲に対して強く作用する。

まあこんだけ長ったらしく書いたけれど、要するに言いたいことは、新卒の方の意欲的な態度に触れたことで、自分も意欲的になれた、ということが言いたいわけである(笑)

わたしに出来ることはなんだろう。そしてそのことに対してわたしはどのくらい意欲的であるだろうか。

そんなことを考えていると、昨日は眠れなくなってしまった。

自分にも、まだまだやれることはある。それがいつの間にか、もうそういうものは無いように感じてしまっていた。


それは他者の意欲的な態度に触れる機会が少なかったからかもしれない。ただそれだけのことのように思う。

もちろん、年齢によって出来ることが変わってくるのは、事実としてあるが、それならばやらなくてもいいことや出来ないことをしっかり切り捨てて、出来ることに対してもっと積極的にいかないと、あっという間に老いてしまうな、と。

そんなことを思ったりした。わたしにはまだ出来ることがる。積極的になることでそれはやりたいことへと変容していくだろう。

最後のアイドル。

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ちなみに、そんな新卒の方と最も盛り上がった話は“松浦亜弥は最後のアイドル”という話である(笑)

その方はハロプロがとても好きだったので、そんな会話になった。松浦亜弥以降、アイドルは出てきていない。アイドルのような存在はいるのだけれど、アイドルではないと思っている(個人の見解です笑)

パッケージされたイメージと、それを守るためのストイックさを備えた、あの孤高に立ち向かう姿は、まさにアイドルのそれだった。

わたしたちの期待や理想をどこまでも膨らませてくれて、それを裏切るような行為は絶対にしない。それは本来めちゃくちゃに大変なことなのだが、それをやってのけた最後のアイドルが“松浦亜弥”だ。

という話で盛り上がったわけです(笑)

年齢としては10以上も離れていたし、テレビカルチャーの薄い世代だったけれど、感じるものは似ている部分もあるんだな。

そういう感性が自分に残っていることもまた学びだったよ。

#あの会話をきっかけに

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