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エヴァンゲリオンとは何だったのか?(※鑑賞後追記あり)

いよいよ公開になる

すなわち「終わり」が来る。25年近く前に動き始めた、この「偉大なるゆらぎ」がようやく終わる(はず)。

Twitterでも見かけたが、もはや我々世代にとっては、もはや「義務」あるいは「儀式」のような感覚である。かくいう私も、この事象に振り回され続けた人生だった。

エヴァという事象、庵野秀明という一人の人間。その帰結を一同共に迎えるために、劇場に足を運ぶことになると思う。まさに「人類補完計画」ですこれは。

なお、本記事の最後に“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”の感想を書いておく。一部ネタバレがあるので(かなり端折るが)、観てない方は最後は読まないでください。

内容にはあまり触れずエヴァを語る

さて、敬意を表して一人のエヴァバカァとして、この記事を捧ぐ。なお、内容に関しては殆ど触れないので安心して読んでほしい。

同時に“なんとなくエヴァが好き”という人や“後追いで好きになった”という方にも、ぜひ読んでほしい。我々がいかにこの事象に振り回されたか。

ちなみに内容については、わたしは見れてないけど多分これ見てれば大丈夫だと思う(笑)

庵野秀明というクリエイター

まずエヴァを語る以上「エヴァ=庵野秀明」であることをお話ししたい。

庵野秀明氏は、ご存知の通りエヴァの総監督を務め、この現象の中心人物だ。同時に、稀代のクリエイターだ。

常に「破壊と再生」を繰り返しながら、我々の心をつかんでは投げ、掴んでは投げてきたとんでもない男である(笑)

ご存知の方も多いとは思うが、あの「風の谷のナウシカ」で“巨神兵”の作画を担当している。

この衝撃的なシーンが印象に残っている人は多いはずだ。

たかだか3分程度の短い映像だが、脳裏に色濃く残り続けている方は少なくないだろう。これを担当したのが庵野秀明である(当時24歳とかなのもヤバい

この時点でかの“宮崎駿”より仕事術や技術を直接学べたことは、当人にとっても良い経験だったらしい。

庵野秀明、宮崎駿、のちのジブリスタジオ、東映映画
、など、すでにこの頃から物語は動き始めている。

庵野秀明が“風の谷のナウシカ”に参加できたのは、努力と運が結びついたからだ。もとより類まれなる作画能力と、絶大な集中力、にて一定の評価を得ていた(らしい)。

そこに加えて「スタッフ不足」という状況であった“風の谷のナウシカ”の現場にて、大量の原画を持ち込んだことで採用されている。この時点では“動画をやったことは無かった”というのだから、驚きだ。

アニメ界の一線級となりえる現場に、裸一貫で刀を握りしめて切り込んだのである(笑)

努力×運=実現」という、クリエイターでありながら行動力もある、まさに稀代の才能なのだ。

さらに庵野秀明最大の持ち味である“人間の心よりも作品のクオリティの方が重要”という独特な思考は、この頃から現れ始めている。そしておそらくそれは“宮崎駿”によって強化された(彼もまたそのタイプだ)。

ここの物語は超重要である。

人間の心よりも作品のクオリティの方が重要

これは庵野秀明最大の能力にして、我々を惹き付ける最大の要素な気がする。「人間<作品」というやり方が徹底されている。

時には自分をめちゃくちゃにしてまで没頭し作品を良いものにする。

テレビ版終了後や、新劇のQ公開直後は“鬱状態”であったことなども紹介されている。また、作品に没頭しすぎて風呂に入らなかったり、とにかく自分のことなど忘れてしまえるほどに作品に取りつかれる傾向がある。

作品のためなら自分のプライドなどあっという間に捨てる

自分より良いものが作れる人がいれば直ちにゆだねられるし、他人に対しても作品を良いものにするためなら配慮しなかったりなど、そうしたエピソードはいくつも語られている。

余談だが、人間を描くのは得意ではないらしい(笑)

庵野秀明の徹底した「クオリティ主義」「実行力」またジブリを含めた人間関係は、エヴァの世界に浸るうえで非常に重要だ。ものすごいのは、こうした説明を聞かずとも、それを肌で感じるほどにエヴァは優れている。

優れた絵画を見れば人は何かを受け取れるように、エヴァを見ればその「揺らぎ」は勝手に入ってくる。

実際わたしはもう25年以上もエヴァという作品を見たときの感動をいまだに簡単に思い出すことが出来るのだから。

優れた作品の前では、事実など後追いでなんとでもなる。

血を流しながら映画を作っている

さてそんな庵野秀明だが、その後は宮崎駿の元を離れ、別の活動を始める。

ここからもいくつもの作品に特殊な形で携わり(「スペシャルエフェクトアーティスト」なんてのもある)、様々な成果を残していく。例えば“庵野爆発”というエフェクトが代表だ。

このめちゃくちゃカッコいいエフェクトは、今日日様々なアニメで見られるようになった演出だが、これは庵野秀明がまさに粉骨砕身で作り上げたものだ。

アニメは基本的に幾つもの絵を重ねていく作業だ。このような複雑かつ細かいエフェクトをするには、短いシーンに対して非常に多くの原画を用意する必要がある

こんなことは誰もわざわざやりたがらない。単純に手間なのだ。

しかし“クオリティ主義”の庵野秀明は、ぼろぼろになりながらこうしたエフェクトを創り続けた。その手法が生かされ今でも用いられる表現になっているのだ。

どれだけその身を滅ぼそうとも、それが例え刹那であろうとも、徹底した作品への情熱がそれを成す。たったの数秒だとしても、そのインパクトは絶大なのだ。

しかし残念ながらそんなスタイルでやっていたのでは、いつまでも“描いてはいられない”。

また自分にはアニメーターとしての才能はないと断言し、監督業に回るのである。これもすべては“良い作品を作り上げるため”である。

初監督作品の“トップをねらえ!”この作品も、とんでもなく素晴らしい名作だ。自身のことをエヴァファンと感じるなら、ぜひ見てほしい。

またこの作品で絵コンテを担当しているのが“樋口真嗣”だ。そう“シン・ゴジラ”の監督である(※庵野秀明は総監督)。

庵野秀明とエヴァをつなぐ物語の中には、現実の人間関係にもいくつもの伏線が張り巡らされている。


さらにこの作品はエヴァの制作会社であった“ガイナックス”が、なんと「借金返済」のために仕方なく作った作品なのだ。庵野秀明はこうした“逆境”のなかで常に活動し続けた人物でもある。

ちなみにその後、この作品のOVA(すなわちビデオ)は当時では考えられないほど売れたのだが、やはり制作費が膨れ上がりすぎて赤字になっている(笑)

なお同アニメ最終話は衝撃の演出で(ネタばれは避けます)、このような特異な演出を用いて作品にくぎ付けにする手法は、この頃から全速力だった。

少し先の話になるが“トップをねらえ!“は続編も制作されている。この作品を監督したのが“鶴巻和哉”であり、今まさに巻き起こっている「新劇場版ヱヴァ」の監督である。

この文脈の連なりこそが、エヴァの持つ魅力だ。

そしてこちらが“ふしぎの海のナディア”だ。これもまた名作であり、奇作。

この作品のキャラクターデザインを担当しているのが“貞本義行”その人である。エヴァの作画担当をずっと行い魅力的なキャラクターデザインを世に放ち続けている人だ(原画は本当に美しいタッチですごいです)。

また音楽には“鷺巣詩郎”がおり、エヴァの大きな座組が生まれている(他にも重要な人物がたくさんいます)。

さてはて何がやばいって、このバンバン戦艦が出てドンパチやる作品がNHKでやっていたということ(笑)

NGが出ない寛容な時代だったか?と言えば、まったくそんなことは無く。普通にNG喰らっていたらしい。

それでもコンテを描き上げては「これじゃないとやらない!」と引き下がらなかったのが、庵野秀明。まさに“クオリティ主義”である。

その一方で当時の樋口真嗣によると

最後の方はもう、NHK側の脚本を無視してやりたい放題やってましたからね。あれは完全にテロ行為ですよ。そもそもNHKの脚本には宇宙人なんか出て来ないし、巨大宇宙戦艦も出て来ないんだから。今考えると恐ろしいですよね。国民の皆さんから頂いた受信料でなんてことをしてしまったのかと。いや~、あの頃ネットが無くて本当によかった。今なら絶対炎上してるよ!

と、なかなかのやばい逸話もあるらしい(笑)

そもそもの脚本は“天空の城ラピュタ”に酷似していたそうで、ここでも宮崎駿の影が。というより実際に関与していたそうなので、庵野秀明と宮崎駿の奇妙な関係は、まさに“ゲンドウとシンジ”のような関係である。

ラピュタっぽい作品をやってくれと言われながら、全然違う内容でぶち込んで放送するなんて、ありえない話でしかない(笑)

ここでも数々の人物が、その作品の魅力に捕らわれ、庵野秀明が作品を完成させるために立ち回る。が、最終的には「これではいい作品は生み出せない!」と降板している。

“血を流しながら映画を作っている”

とは宮崎駿が称した庵野秀明の様子だ。これには当人だけではなく、周りも含まれているのだろうし、宮崎駿もまたそういうタイプの作家なのだけど(笑)

終わりの始まり

さてナディア製作後に庵野秀明は精神的にきつくなり、次作に取り組めなくなる。

燃え尽き症候群みたいなものか、作品に間隔が空いてしまうのはこうした事情もあるし、また我々ガチなエヴァファンなら、そのような事情はお察しだと思う(笑)

庵野秀明にとっての苦悩の一つが“原作の存在”であった。庵野秀明がそれまでに携わった作品はどれも原作ありきだった。

自身が産み出したものではない。ゆえに微細な変更や調整にも融通が効かないし、もちろんクオリティも納得いくものにはならない。

そこでたった一人で考え始めたのが「新世紀エヴァンゲリオン」である。

素晴らしい功績は残していても、庵野秀明はまだまだ駆け出し中。自身で考えた企画をどこかに通して作品を世に出すということは、簡単ではない。

会社からは別の作品の監督を振られていたけれど、それは自身の原作ではなかった。

アニメ業界に関わらず、若手や新参者が早くに結果を出すということは、その上にいる人々を跳ねのける準備と行動力がいる。それは決して簡単ではない。

そこで現れたのが“大月俊倫”その人である。この方は、キングレコードのプロデューサーであり、エヴァ現象の立役者の一人だ。

この方もとんでもない経歴の持ち主なのだが、簡単に言うとかの「林原めぐみ」を育て上げ(綾波レイの中の人ですね)、当時潰れかかっていたキングレコードを完全に再建させた人物である。

声優を全面的にメディアミックスさせていくという今では当たり前になっていることも、彼が仕掛けるまでは考えにくいことだった。

そんな強力なプロデューサーの後押しと、庵野秀明自身の“絶対にエヴァをやる”という情熱をもとに、なんとテレビ東京にてアニメが放送される。それも子供たちも目にする夕方の時間帯だ。

これがなかなかの事件だった。企画の段階では明らかにNGであり、資金調達も難しい内容。それでも諦めずに企画を推し進めた。

アニメシリーズを目にしたことがある方なら、とんでもないことだというのは分かってもらえると思う(笑)

某アニメで“子供に悪影響が”と懸念されたりする昨今だが、どう考えてもエヴァの方が影響するだろう描写が山ほどある。「なんとなく想起させる」「影響するかもしれない」などという可愛いメタ表現ではなく、力いっぱい表現されていた(性的描写や精神汚染の描写など)。

正直、これがトラウマと化した人は多いのではないか。なおわたしはこの頃、小学4年生だったがドはまりしたために、その後の人生にかなり(悪)影響を与えてしまった(笑)

なおこのことで「エヴァンゲリオン」という作品はとんでもなく怒られる羽目になる。直ちにやめよ!修正せよ!そんな言葉がおそらく関係者から飛び交ったろう。そのたびに頭を下げていたのは“大月俊倫”その人だ。

彼は庵野秀明という才能を絶対に疑わなかった。

どんなにめちゃくちゃに進んでも、必ず成功すると踏んでいたようだ。これは宮崎駿も後に同じように話している。

作りたくなるまで好きなだけ休めばいい。あれだけのものを作っていたんだから、必ず人も金も集まってくる

こんなことが出来るのは日本の芸術界において、庵野秀明と冨樫義博くらいのものだろう…

すぐそばにいる人たちの行動を客観的に説明すると、庵野秀明が気持ちよく作品を作り上げるためにすべての犠牲を汲み取る。そんな覚悟を感じられる。

あらゆる点で革新的な表現や演出が使われた、とんでもなくクオリティの高い作品だった。残虐的な戦闘シーンでオーケストラが流れるなど、思いもよらず、画面を見ながら震えたものだ。

(音楽だけですが)

なおこの素晴らしい演出は新劇場版でまったく違うものになり、2度目の衝撃と感動を与えられる。

破壊と創造を繰り返す。それは庵野秀明の活動そのものだけではなく、当然のように作品にも表れている。

我々の期待や予想を必ず裏切ってくる。予告と全く違う内容が流れたり、衝撃の展開を迎えたり、とにかく我々は翻弄され続けている。

そのたびに同じように「感動」する。文字通り“感情が動かされてしまう”のだ。そんな文脈を孕んだ作品はそうそうなく、エヴァの神髄である。

インターネットと私たち

この頃から、時代が変わったという印象が強いのが、インターネットとのリンクである。

エヴァのテレビ視聴率はあまり芳しくなく(これがまた大月Pを悩ませた)、体感的にも周囲の人々と話が出来なかった。感想を言い合ったり、考察を述べ合ったりすることが、出来ないのだ。

そこで活躍したのが「某匿名掲示板」である。放送がされるたびにスレッドが立ち上がり、顔の見えない、どこの誰ともわからない相手と、日夜熱い議論を交わせた。

今ではSNSで当たり前にみられる光景が、当時は当たり前ではなかった。この手の文化は間違いなくエヴァによって加速しただろう。

我々には議論相手が必要だった。しかし、いなかった。

だからインターネットを頼るしかなかった。私たちの生活様式にさえ組み込んでくる作品なのだ。

しかしここで事件が巻き起こる。

真意は定かではないが、どうもこの掲示板にて最終回が予想されてしまったらしい。それに伴いなんとテレビシリーズ最終話2話が突如変更された。

結果、あらゆる伏線が未回収のまま、わけのわからない終わり方をする。

これにはインターネット民も大批判。今でいう所の「炎上」をブチかました。当時はまだまだ時代の過渡期、熱中できるコンテンツもそう多くなかった混迷の時代だ。

その中で起きたこの“仮想世界での事件”は現実をも歪めることになる。

予定していた話をアニメのシリーズ枠内で納めれなかったから、という話もあるが、とにもかくにもめちゃくちゃな終わり方をしている。なんなら、もはやアニメにさえなっていなかった。これは未見の方はぜひ見てほしい。

第25話「終わる世界」
第26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」


今でも空でタイトルが述べれる衝撃回である。

ビデオやDVDあるいは配信で見た方にはピンと来ないかもしれないが、これが普通に夕方の茶の間で、ワクワクしながら最終回を待っていた我々のもとに送り届けられたのだから、ブチ切れて当然だ(笑)

ちなみに今見るとこれはこれで味わい深い。

何度も裏切られる伏線

庵野「体力的にも精神的にも、『エヴァ』は本当に毎回大変なんですよ。作って、壊れてを自分の人生の中で繰り返してます。テレビ版のときは、終わった後に死に損ねて…。本当に一回危ないところまでいったんです。このままだとあっちの世界に行っちゃう、という一歩手前まで」

テレビ版放映後、こんな状態になっていた庵野秀明だが、遂に再起する。そして「アニメ25、26話をやり直します。映画で」とぶち上げるのだ。今では旧劇場版と称されるあれだ。

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』

なお余裕でトラウマ化する予告。

これにはファンも沸きに沸いた。あのとんでもないアニメの終わりを、きちんと帰結させてもらえる日がやってくるとは。テレビシリーズ終了から1年ほどの出来事である。

が、この辺りから我々は完全に「関係者」になってしまう。望まぬ事件に巻き込まれたかのような、そんな感じ。テレビシリーズでの未消化事件は、伏線に過ぎなかった。

ここから実に25年も未消化にさせられることになるなど、思いもよらなかった。

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』は、未完のまま上映された。

こんなことあり得るのか?という超衝撃。

なんなら前半は単なるアニメの回想で、大丈夫かこれ?と思っている間に終わり、後半でちょっとだけ観たことのない映像が流れる。歓喜!でも、尺足らないのでは?!と思っている瞬間に終わる。

一応事前に謝罪会見が開かれているんだけれど…ここまでとは…

さらにSNSのない時代、情報保有期間とでも言おうか、そういうものがとにかく短く遅い。新作だと思いウキウキしながら劇場に足を運び、めちゃくちゃに裏切られた方も多いのではないか。

なおそれでも同作品は前売り券が恐ろしいほど売れており、20万枚以上という当時の日本記録だった。すなわり、それだけの人間の期待を背負い、それをぶん投げたのだ。

この恐怖の興行を取り仕切ったのが、他でもない東映である。こんなやばい爆弾を上映してくれるなんて、とんでもない時代だ。懐かしい。

現実を変え続ける

ここで一つ余談を挟む。アニメの製作現場において重要なのは「予算」である。時間や人手や設備が超必要になるため、かなり製作費がかかる

それでいてリターンが大きいわけではないアニメ作品は、なかなかに厳しい状況で、いくら良い作品を生み出せる才能があっても、それをいかんなく発揮できる状況ではなかった。

そのため「手抜き」になってしまったり、予算を落として雑に仕上げてしまう、ということはしょっちゅうあった。また回収が出来ないため、打ち切られたり、どんどんクオリティが落ちるということもしばしば。

これは現在でも見られる現象であり、アニメ1期の第1話はめちゃくちゃ作画がいいのに、後半グッズグズというヤツ。

コアなアニメファンなら「ああ…予算つかないのか面白いのに…」と嘆くだろうが、それほどでもないカジュアルアニメ好きなら「なんだこれちゃんと仕事しろよ!!」と憤っても致し方ない。

最初から最後まで作画が完璧な作品は、とんでもなく恵まれていると考えてください(笑)

劇場アニメとなると、まとまった予算で一つの作品を仕上げるので、テレビシリーズよりは安定する傾向にあるが、それでも予算はない。

そこで産み出されたシステムが“製作委員会方式”である。

今ではこれも当たり前で、たいていのアニメや、アニメに限らず実写映画でもこの方式はとられる。映画のラストやエンドロールで、その名前を見かけたことがある方も多いのではないか。

平たく言えばスポンサーで、要はお金を出してくれるチームみたいなものだ。細かいところで違いがあったりするのだが、そう考えてもらってよい。

このシステムはいつからか映画で採用されるようになった方式なのだが、これを一般に広めたのがエヴァである。

またエヴァはアニメ作品としては膨大なリターンを生むことになるので、アニメに出資してみようという会社が一定数増えたのもまた事実だ。

ここでもまたエヴァは現実を粛々と変えていく。アニメコアファンを増やし、そして業界全体を盛り上げていった。エヴァ以降、あまたのロボットアニメが製作されたりもしたのだから

気持ち悪い

さて話は戻って、エヴァ旧劇場版。めちゃくちゃな前作で終ったので、本当に大丈夫なのか?信じていいの?と、なんとも複雑な感情で劇場に足を運んだのを覚えている。相手は映画。

いや、もうこの時点で庵野秀明という男が相手になっていた。

彼のそばで作品の完成を支え続ける人々と同じように、我々はあくまでも「」として支えている。そんな状態(まあ中には質の悪い客もいるだろうが)。

我々がクリエイターに対して望んでいいのは「良い作品を完成させてくれ」のみかもしれない。

いつまでに、とか、どんな形で、とか、そういう期待みたいなのは無粋なんだろう。

庵野秀明というクリエイターに付いていったことで、それを強く感じる羽目になる。そういえば宮崎駿もしょっちゅう「やめるやめる詐欺」してるなあ。やっぱり似たような仕事をしている(笑)

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』

これも中々すごいなあ…

いざ劇場に足を運んだ時のこと、今も覚えている。

とんでもない熱気。今のような座席指定システムではない映画館で、場所によっては立ち見なんかもやっていたから、実際に熱気がすごかったのもある。

が、それ以上にやはり「大丈夫か?」という不安と「次こそは!」という期待。それらが複雑に織り交ざり、なんとも言えない興奮。そんな状態になった人が何百人と集まるのだから、そりゃあ独特の熱気を放つ

この中には昼夜インターネットで議論している仲間もいるのかも?などという思いも少なからずあった。一度も顔を合わせたことのない仲間が偶然に集まることなど、なかなかあることではない

そして始まった。

お見事…素晴らしい内容。疾走感と衝撃が次々に波のように攻撃を仕掛けてくる展開に、アニメだと意味不明に思えた「独白」の劇場効果。あれは“お茶の間でなんとなく見せられる”のではなく“劇場でどっぷりと浸かる”ことに意味があったんだ。

同時に回収される伏線と、新たにブチまかれる謎謎謎。早くみんなと議論したい、これの答えがいま分かったから!!!!

そんな興奮の真っただ中で、この名作は遂に終わる。

“気持ち悪い”

終わりは始まらない

結論から言うと、めちゃくちゃ微妙な終わり方をする。

?????????

と全員が置き去りになった瞬間で、後にも先にもあんなに「」で包まれた数百人が同じ空間にいたことは、無いと思う。

けれど庵野秀明は「これで終わり」と明言する。そう、我々は未消化のままエヴァの世界観に取り残されてしまった。

そこからしばらくエヴァの製作は止まる。というか終わったものだと思いながら、あのラストはなんだったのか、という思いと、何気に終わっていなかった漫画版を待つか、という思い。

なんとも微妙なお気持ちで日々を過ごすことになる。

その間に庵野秀明は実写に乗り出し、中々にスベッっている(とわたしは思っている)。『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』などの実写映画に取り組むが、ちょっとよくわからない…(笑)

いや…今見たらこれおもろいのかなむしろ…

そんなわけでエヴァから庵野秀明も我々も離れている間に、様々なことが起きる。庵野秀明が結婚してみたり(なお奥様は安野モヨコ氏であり『監督不行届』という庵野秀明を描いたエッセイはめちゃくちゃおもろいです)、まさかのパチンコにてエヴァが爆誕したり(これによるファンの増加は確実にある)、実は旧劇場版のラストはぎりぎりまで悩んだ末に妥協して送り出されたものだと語ったり…。

やっぱり妥協なのか…

これはアスカ役の声優である宮村優子が語ったものだ。

最後のセリフは本当は「気持ち悪い」じゃなくて、「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」だったんです。けど、最後何回もそれをいったんだけど、「違う、そうじゃないんだ、そうじゃないんだ」って長い休憩になって、私も緒方さんも「どうしたら監督の思うようなことが表現できるんだろうね」とかいって、あの首絞められるところなんて本当に緒方さんが私にまたがって首絞めたぐらい本当に監督からの要求がすごい難しくて、リアルを求めてたのかな、その最後のセリフに関してはですね、これは言っていいのかどうかわかんないんですけども、「もし」、アスカとかじゃないんですよ、いつもいわれることが、「もし宮村が寝てて部屋で、自分の部屋で一人寝てて、窓から知らない男が入ってきて、それに気づかずに寝てて、いつでも襲われるような状況だったにも関わらず、襲われないで、私の寝てるところを見ながら、あのさっきのシンジのシーンじゃないですけど、自分でオナニーされたと、それをされたときに目が覚めたらなんていう?」って聞かれたんですよ。前から監督は変な人だなって思ってたんですけど、その瞬間に気持ち悪いと思って、「気持ち悪い、ですかね」とかっていって、そしたら、「はぁ・・・やっぱりそうか」とかいって。「やっぱりそうか」っていうか。

まったくとんだクリエイターである(笑)

良い作品にするためには、どんな妥協もしない。その姿勢が、こうして役者の能力を極限に高めるのだろう。実際、声優による迫真の演技がいくつも残されているのがエヴァンゲリオンの特徴だ

シンジの完璧な悲痛の叫びや、アスカの天才的なまでの蔑みや、カヲルの奇妙な優しさや、ミサトさんの魂の叫びや、レイの抑揚がないのに強い感情など、とにかく声優の力がもの凄いことも特徴である。

しかしそれゆえに、最後までやりきれないという副作用がある。思えば過去の作品でも、ほとんどちゃんと終わらせたことがない。

ましてオリジナル作品であるエヴァがきちんと終わっていない状態なのだ。我々の心は止まったままになった。活動限界。

胎動し始める

さて前述にあるように「原作があることで作品に集中できなかった」ゆえ「それを手放して創ったエヴァ」だったのだが、また新たなる壁にブチあたる。

会社組織」である。

庵野秀明が所属していたGAINAXであるが、アニメ制作会社の悲しいところで負債も多く(とはいえエヴァで荒稼ぎしたのだけれどまあ色々あって結局お金がない)、またゆえに作品を作るためには“製作委員会”が必用だった。

これが庵野秀明にとって煩わしいものとなる。

クリエイターはどこまでいっても孤独だ。これは本当によくわかる。確かにチームや関係者が増えることで、様々な面でメリットが生まれるし、より広く大きく作品を育てられる。

一方、納得のいかない部分で妥協をしなければならないこともあるし、支援者に対する恩義もあるし、人間関係のしがらみもある。

そういうものは作品の純度を落とすことになる。

庵野秀明はこれに耐えられなくなった。その結果、GAINAXを退社し、新たに会社を立ち上げ、さらに製作委員会を用いず、独力で「エヴァ」を再開することにした。

大事件である。「エヴァ再開」も大事件だが、それ以上に地位を捨て新たに経営者として立ち上がり、たった一人でエヴァ製作を始めるのだ(正確には2人で立ち上げている会社である)。

未消化のラストだったとはいえ、社会現象にまでなり、コンテンツとして圧倒的な力を持つエヴァを、自身の作品とは言え権利元から引っこ抜き、また育てていくということが、どれほど大変なことかは想像にしがたい(ちなみに実際問題かなり揉めたりしています)。

それでも庵野秀明は実行する。動機はいたってシンプル。

良い作品を作り上げるため”である。

この話は2006年の出来事である。なので旧劇場版終了時から約10年だ。10年ぶりにエヴァが帰ってくる

まさかここからさらに12年待たされるとは思いもよらなかったけれど…

新しい世界

さてここからは既知の方が多いのではないか。

2006年に新たな物語が始まる。

エヴァンゲリオン新劇場版 REBUILD OF EVANGELION(仮題)』というタイトルが発表された。

再構築を意味するREBUILDであり、またそれに伴い声明も出された。もう一度、エンターテインメントとして楽しんでもらえるものを作り直します、と庵野秀明は語る。

単なるやり直しだとしても最早いい。またエヴァに会えるなら(なんならやり直しは慣れている笑)。

満を持して公開されたのは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」タイトルが少し変わっていたり(旧劇場版と同じものではないという意図や権利の問題らしい)、若干の設定の違いはあるように感じつつも、この劇場版は素晴らしい内容だった。

圧倒的な映像表現に、声優の変わらぬ…いやさらに研ぎ澄まされた演技。10年の月日により、アニメの制作技術も、それを放つ映画上映の設備も、格段に良くなった。

それにより、今まで不可能だった様々な演出や表現が可能になった。

もしかしたら、庵野秀明は気が付いていたのかもしれない。旧劇場版をやり終えた時点で、それ以上のものを作れる仕組みの限界を。

自分の“頭の中にあるイメージ”を“共有できる場”がなかったのかもしれない。それはまさに“クオリティ”に関わる重大な障害だ。

それが時と共に進化し、あるいはその進化に貢献もしたことで、こうした素晴らしい作品を生み出すことが出来たのだろう。改めて稀代のクリエイターだと感じる。

そして序というタイトルに続いて発表された次回作が“”である。

これを見たときの衝撃。序と同じような再構築になるかと思いきや、まったく違う世界に飛び込んだ。

映像も素晴らしかったが、ストーリーは別のものになっており、まさしく新しいエヴァの世界に突入した。インディーズ、独力による映画製作という途方もないスタートが、猛スピードで加速した瞬間である。

さらに当時のエヴァと違い、世間での認知度も上がったし、インターネットも十分に普及していた。テレビシリーズのあの頃、誰とも共有できなかった感動を、隣にいる人となんとなく話せた。

現実を歪めるほどのエネルギーを持ったエヴァが、今度は現実の変化に呼応して歪んだのだ。「偉大なるゆらぎ」である。

庵野秀明という、たった一人の男の頭の中にある世界が現実を変え、その現実が庵野秀明という男の頭の中を変える。そしてまた、世界に放たれる。

この“ゆらぎ”こそ、エヴァンゲリオンであり、庵野秀明なのである。

旧からQへ

さてその後は“ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q”へと続く。

破から急(※序破急とは演劇用語であり、3作目は急だと思いきやQだった。こういう仕掛けが本当にうまい人である)、ここはずいぶん待たされた。

そしてやってきたQ

なおわたしはこの時点ではこの作品を配給した“ティジョイ”にいたので、かなり大変だった(笑)

とてつもない話なのだが、この“ティジョイ”は東映の子会社である。つまりエヴァンゲリオンは、東映に戻ってきたのだ。旧劇場版の配給元であった東映。そこに、戻ってきた。

こういうケースはアニメや映画業界において殆どありえない。

ましてインディーズとして序と破を成功させている以上、それほど戻るメリットが無いであろう中で(実際庵野秀明はことごとく大手映画会社のやり方に苦言を呈している)、なぜ戻ってきたのか。

おそらく恩義であろう。

お世話になったから。また、これは庵野秀明本人が話していたようなのだが“エヴァを育ててくれたのは映画館。映画館に還元したかった”とのこと。

ゆえに子会社とはいえ「劇場運営」が主な業務であった“ティジョイ”での配給にしたのだと思う。“ティジョイ”は配給業務もなんとなくは行っていたが、これほどのでかいコンテンツを扱ったのは初めてだった。

そのためQの公開館はかなり絞られた。大手に落としてしまうのではなく、困っている所にお金が回るようにしよう、と庵野秀明が考えたからだ。

劇場としてはありがたいことだった(同時にめちゃくちゃ働いたのでわたしの人生には完全に侵食してきてます)。

そんなQなのだが…

内容に関しては「意味不明」だった。また、やられた(笑)!!!!!

庵野秀明という男

その後、またうっかり病んでしまい、しばらくエヴァから離れる。なんと9年…その間にうっかり「声優デビュー」したりする。

なんとあの宮崎駿作品のしかも主演だ。風立ちぬ、の主役を演じることになる。

さんざん軋轢があると言われていた庵野秀明と宮崎駿がまたタッグを組んだことは、衝撃的だった。

また何気に宮崎駿がことあるごとに庵野秀明を気遣っていたこと、クリエイターとして尊敬していたこと、そうした事実が明るみに出てくる(とんでもないツンデレだ)。

一部では酷評された演技だが、これらの経緯を知っていた身からすると、何とも言えない不思議な感情に包まれたものだ。ああ、ポカポカした。

さらに実写映画にもまた挑戦する。エヴァは…と思ったファンは多かったはずだ。それに伴い庵野秀明は「ちゃんと作るからエヴァエヴァ言うな!!」と激おこしてたりする(笑)

実写映画は「シン・ゴジラ」だった。ゴジラは「東映」のライバルでもある「東宝」のコンテンツだ。

エヴァ及びほかの作品では関わってこなかった「東宝」と庵野秀明が遂に手を組む。これだけでも驚きなのだが、なんとこの作品は「東宝単独出資」であり、すなわち製作委員会を持たない。

要するに、赤字になれば「東宝が完全に打撃を受ける」という座組だ。とんでもない事態だった。

そして興行は大成功に終わる。

かくして「東宝」とも強力な信頼関係を得た庵野秀明は、長年の夢でもあった「東宝」「東映」の共同配給にて“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”を公開する。

冒頭で並ぶはずのないロゴが2つ並ぶその瞬間に、どうか刮目してほしい。それは奇跡に近い。そしてそんな現象を、観客という立会人でありもはや“関係者”のわたしたちに与えてくれる。

奇跡を分けてさえもくれる。

稀代のクリエイターは、
クオリティに命を懸け、その身を滅ぼしながら突き進み、私たちを巻き込んでくれるのだ。

さあ終ろう

ヱヴァンゲリヲン新劇場版」が発表された際に、庵野秀明はこんな声明を出している。

エヴァは繰り返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意志の話です

そうだ「エヴァ」はまさしく庵野秀明の人生そのものだ。

何度も失敗し、ボロボロになりながら、また立ち上がる。少しづつ、前に進みながら、少しづつ、少しづつ。

それは作品にも表れており、庵野秀明の心情そのものを代弁したかのようなキャラクターたちが声を上げ、息をして、現れる。

意識しようがしまいが、いつしか我々はその世界に引き込まれている。気が付けば、少し遠い距離ではあるが「エヴァ」という作品を介して、庵野秀明の人生に併走している。

それも、たくさんの人々と。

そんな作品が、時代が、揺らぎが、ようやく終わる。いや、また始まるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

今度は、このたった独りのクリエイターが産み出した“偉大なるゆらぎ”を受けて、我々が動き出すべきなのかもしれない。

答えを、スクリーンに、探しに行く。

ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン。庵野秀明、そして愛すべき仲間たちよ。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||感想

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ちゃっかり聖地で観てきました。新宿バルト9だ。

新宿バルト9がなぜ聖地かというと、以下の記事をご覧いただければわかる。

Qの初日、なんと1万人のお客さんが来た。ヱヴァのためだけに。興行収入は2000万近いとのこと。まあ働いてたんですけどね、この時。

懐かしい。ネタバレを避けて過ごしていたのに、うっかり、この日スクリーンのチェックで“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”の予告を観てしまい、かなりのダメージを喰らった(笑)

エヴァを含め、昨今ではSNSでネタバレしてしまうことがあるため、かなり慎重にならないといけない。帰りのエレベーターでリアルネタバレされることもある(経験者は語る)。

エヴァに関しては、配給側もネタバレに配慮し、情報統制もかなり厳しくされている。入場者特典にもネタバレ注意とあるし、上映前にパンフレットは売れない。

ちなみに前述のとおり“Q”公開時は関係者だったが、前売券の販売日は公式発表されるまで知らなかったし、公開日は緘口令が敷かれたし、テスト試写は誓約書が存在した。

Q”は宇多田ヒカルの復帰作ということもあり、それはそれは慎重に扱わなければならなかった(ゆえに当日までその事実は上層部しか知らされていなかった)。

そんなわけで“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”ではマナーとしてのネタバレを防ぐ働きがあったように思う。今日も劇場であまり内容について話している人は見かけなかったし、なんだったら「ちょっと人のいないところで感想話そうか」という声も聞こえた。

Twitterでもタイムラインでネタバレするの怖いというのが数日前から言われ続けたが、ふたを開けてみると、その心配はそこまでなかった。

観た」とか「良かった」くらいの最小限に留める配慮がされていた。またしてもエヴァ、いや庵野秀明は“現実”や“行動様式”を変えたのだ。

キャストの呼びかけもあったし。なんというか素晴らしい時代だ。

ネタバレ含む感想

さてnoteはTwitterと違って、バッと目に入ってしまうリスクは少ない。ここからは少しネタバレしながら感想を述べる。

大事なポイントはなるべく控えるが、まだ観てない方は出来れば読まない方がいいかな。

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まず一言。

ありがとう。

素晴らしい作品だったし、25年間翻弄され続けた甲斐があった。

内容的に個人的に良かったのは“加持リョウジ”の“真の目的”が明かされるところ。ミサトさんのあの感じとAAAヴンダーの謎も解けて、なんとまあ感動。でした。

さて、総括。

この記事でも書いた通り、エヴァを追いかけるということは、クリエイター庵野秀明を追いかけるということ。その集大成を観た。

旧作からずっと追いかけ続けているファンとして思ったのは、本当の意味での“終劇”を感じた。庵野秀明にしては珍しい、やり切った!!!という仕上がりだった。

REBUILDつまり再構築として描かれたはずのエヴァ。

タイトルをヱヴァに変えて始まったこの物語だが、この4作目が“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”と名前を“エヴァ”に戻したこと、それでいて“シン”と付けたこと。

それらの意味も分かる内容だった。これは庵野秀明にとって苦い思い出になったであろう“新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に”のやり直しだったと思う。

それを含ませたセリフもある。新劇場版でゲンドウが言う。「お前が選ばなかったATフィールドの存在しない世界」というセリフがあるのだ(ここで旧劇の伏線も回収しているというね。新劇でシンジはその選択を迫られた場面はないから)。

また“新世紀Neon Genesis”という単語が重要単語として最後に表れるあたり、明らかに意識しているのは明白である。

旧劇で“人類補完計画”は遂行された。人類補完計画とは“人の境目がない共同体になること”が目的である(ゼーレ的には新たな種になり生命を作りかえる的なちょっとなんかよくわからない説明をしているがゲンドウ的にはこっちが目的)。

そうなることで他者に傷つけられずに済み、それでいて他者と側にいられるからだ。

旧劇場版で、シンジは最終的に人の形を求める。また誰かに傷つけられてしまうかもしれないけれど、それでも大切な人のそばにいたい、と願うのだ。

しかし、その思いで残された人類になったにも関わらず、なぜかアスカを傷つけようとしてしまう。弱さゆえに。

そんな話だった。

これはまさに庵野秀明が望んだ世界だ。クリエイターとして、一人の人間として、孤独と戦ってきた彼が望んだ世界

新劇場版の途中でゲンドウの独白がある。他者の生活を感じることや、誰かの言葉に合わせて動くことに、非常に苦痛を、それも幼いころから感じ続けていたことが語られる。まさに庵野秀明の心情そのものであろう。

いつも他者の存在を煩わしく感じ、そのたびに傷つき、何かを壊してきた。それでも、前を向き、創ってきた。

新劇場版でも同じように“人類補完計画”は遂行される。が、今回は旧劇と違い、シンジの意思でそれを止めた。

旧劇もそうだったのでは?

いやそうではない。旧劇のシンジは、なんだか流れに身を任せているうちにそうなって“決断”を迫られたから選んだだけだった。今回の新劇場版でも、途中まではそうだった

シンジはいつも流されていた。自分の意思を、自分の意見を述べることを恐れた。与えられた選択に対して、最適解を出すのが得意なだけだ。実のところ、それは本音でも何でもない

これはまさに庵野秀明がそうだったのだろう。

与えられるから、求められるから、最適解を出し続けただけだ。自分の好きな、自分が好きな、自分を好きで、それでいてやり遂げられる作品ではなかった。

原作ありきの状況に苦しんだ末に産み出したエヴァも、いつしか人々の期待や、大きなお金を動かすことで、それは自分の手を離れてしまう。でも、優しい人だから創るのをやめない。

でも最後のところで、どうしても創り切れない。そうやって生きてきたんだと思う。

しかし今回は違ったのだろう。それは作品に表れていた。シンジは、25年目にしてやっと、自分が責任を取ることの大切さを、自分の“オトシマエ”についてを、語り、そして動く。

旧劇とは違い、今度は“自分の意思で決め”そして幸せを手にした。

誰かに傷つけられてしまうのが怖かったのは、誰かを傷つけるのが怖かったのは、それは自分で決めてこなかったからなのだ。

本当に怖いのは、傷つけ合うことじゃない。

そのあとに、過ちを認めたり、許しを得るために努力したり、やり直しをしないとならないこと。それを自分で考えて決めないといけないこと。それが怖いのだ。

そこからシンジもとい庵野秀明は逃げ続けていたのかもしれない。


庵野秀明にとっての“オトシマエ”こそ、まさに“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”だったんだ。

Q”まで作り上げ、止まってしまった。心を病み、答えを探すために様々な行動を起こした。その答えを出すために10年近く必要だったのだろう。私たちは待っていてよかった。

今の庵野秀明を信じて。

なお、庵野秀明は現実でも過去との決別をしている。旧知の中であったガイナックスの元社長である“山賀博之”という人物。ずっと庵野と共同作業をしてきた、大切な仲間であった。

しかし、エヴァを含めた一連の騒動の中で、袂を分かつことになる。

これは推測でしかないのだが、経過だけ見れば、孤独であった庵野秀明に仲間の豊かさや、人のつながりを大きく与えた最初の人物であろう(そういう人物はたくさんいるので最初とさせてもらう)。

ただ庵野秀明は、いつからかは定かではないが(多分始めからだろうけど)、おそらく流され、合わせて、最適解を、示していただけなんだろう。

この事件で、自分で決め、袂を分けた。

それが“オトシマエ”だったんだろう。確かに合わせていただけなのかもしれないが、それでも仲間だ。その決断は、きっと苦しいものだったに違いない(何より次作公開が遅いとうなる人にはエヴァが我々の見えないところで止まらずに動き続けていたことを知ってほしいね)。

結局このような動きの中で、エヴァの版権問題は解決する。だからこその“シン・エヴァンゲリオン劇場版:||”である。ついぞ、その手ですべてを決断することが出来る状況を、現実でも手にしたのだ。

作中では旧劇の映像や、過去作品の映像が映される。

綾波レイがエヴァに乗らなくてもいいように、という。これは“エヴァを作らなくてもいいように”という意味だったのかもしれない。

それでも自分で決め、きちんと作り上げた。そして、終わらせた。

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン、と。

現実に帰ろう

この作品では最後に、現実世界に帰る描写がある。

呪縛から解き放たれ、自らの足で踏みだす。

庵野秀明はこの25年間、ずっとエヴァと共にあった。その間に他の物を作っているときも、別の仕事をしているときも、休んでいるときも、結婚した時も、エヴァの世界の中にいたのだろう

そしてその世界の中に私たちを巻き込んだ。

もう終わろう。現実で生きよう。そんなメッセージともとれる最後だった。

これからのエヴァンゲリオンは、私たちが現実を生きていく話に変わる。それぞれの生きていく今日が、この物語の続きになるのだ

長いエンドロールで、たくさんの人々の名前が出てくる。たった一人で作り上げたエヴァが、これほどの人を巻き込んでいるんだなと、実感する。

そしてそれを、劇場に集まった私たちに、与えてくれた。

終了後、自然と拍手喝采が起きた。また“現実”を変えたけれど、この拍手はほかでもない私たち自身に送るものだろう。

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※さらにno追記※

さてそんな庵野秀明が何気に宇多田ヒカルのMVの監督をしているんだけれど、めちゃくちゃいいので観て(笑)


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