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痩せて、生きて

「痩せたい」

そんな言葉を何度聞いたことだろう。

当事者たちが口癖のようにつぶやくそれを、この目や耳で幾度となく咀嚼してきた。わたしが、こうした言葉を多く聞くのには理由があった。

ある映画製作を行っている。自主製作のドキュメンタリー映画だが、そのテーマは、摂食障害という病について。

なぜ摂食障害の映画を撮ろうと思ったかは、何度か記事に書いてあるが、改めて簡潔に説明しておく。

・わたしは映画を作りたかった(その時点ではテーマは何でもいい)
・そのためにはドキュメンタリー映画が適切だと思った(そのアプローチの方が実現も可能だった)
・扱うならば心の問題が良かった(ずっと学んでいることだから)
・その時にわたしに関わる友人の多くに当事者がいた(わたし自身も当時ダイエットをしていたから)
・その過程できちんと知る摂食障害は単なるダイエットの話ではなくより複雑な社会問題だと気付いた
・そのことを言及しているメディアはかなり少なかった
・誰かがやる必要があるときそれがわたしであると良いなと思えた

その後も、勉強会に参加したり、多くの人と話すなかで様々なことを感じ思いしているのだが、それはもうすべて映画にしているので、あれこれ想定して質問したり断定したりせず、まずは映画を観てほしいと思っている

さて、これまでに三百人近い当事者や、その家族と交流をはかって来た。それは映画を通じてのこともあれば、いち友人としての関りもあり、わたしという人間を形作る大きな要素になっている。

当事者たちの口癖が「痩せたい」であった。

この疾患は特殊で、痩身願望が症状として常にある。本人の体型に関わらず、この気持ちが強く出る。そしてこのことが、摂食障害をダイエット病のように扱ってしまう要因になっているとは思う。

ただし、社会がどう扱うかは(すなわちパブリックイメージは)、それを受け止めるマス側に大きくゆだねられるので、当事者たちがそういうイメージを作り上げたのではなく、そうしたのも社会だ。

・・・

ある当事者の子。

その子は極度の痩身であった。摂食障害は決して体重や体型だけが重要ではないのだが、こうして身体に危険が及ぶことも珍しくない。

入退院も多く、当時も複数回目の入院だった。医学的にも安全と言える状態では無かったそうだ。

わたしは当時、入院中も何度も連絡を取った。医師には言えずにいる悩みも多く抱えていた。

その子は時にパニックを起こしてしまい、何十回も「痩せたい」「太った」「お腹が出てる」と繰り返し訴えてきた。

その子は自分の身体が醜いと嘆く。

わたしはその子の主観を大事にし、多くを否定せずに話を聞いた。その子の世界はその子のものだ。“そんなことないよ”“大丈夫だよ”と声をかけるのは、肯定ではなく、否定になる。

そういうことが、我々の心の中では起こりうる。

食事の時間になると、これを食べても大丈夫か?コンビニでどれを買えばいいか?そうした小さな不安が巨大な重圧になるため、都度確認を求めてくる。わたしも真剣に考え、理由と共に返事をしていた。

またある日、パニックが治まらない。安定剤も飲めない。水を飲むのが怖いのだ。いつもの何倍もメッセージが届く。返さなければ催促も来る。

一日かけて、言葉を受け取る。うん、と返すだけのこともある。

やがて日が暮れて、疲れ果てたその子は少し落ち着きを取り戻し、迷惑をかけてごめんねと謝罪を述べてくれた。気にしなくていいよ、と返すと、その子はこう述べた。

「本当は痩せたくなんか無いんだ」

本音は呪詛のように繰り返し続ける言葉の奥に眠っていた。

ただ痩せたいわけではない。

その感情に長い間すべてを支配されてしまい、別の言語をうまく扱えなくなっていたのかもしれない。

「わたしは普通に生きたい。痩せに支配されたくない。普通に学校に行って、普通にご飯を食べて、家族と仲良くしたい。もう疲れたよ」

そんな風に話したその子はその日は眠りにつき、翌日からまた呪われたように「痩せたい」を口にしていた。

ある日、病院にお見舞いに行った。家族と帯同であれば友人でも許可が下りたため、その子の保護者と共にした。

連絡を取り合ってから一年近く経ち、会うことが叶った。そこには文面から感じられる印象とは少し違った、健気なおとなしい子がいた。

保護者を含めて三人でお茶をする。その子は寡黙で、保護者が代わりにいろんな話をしてくれた。殆ど保護者はその子の代わりのように話してくれた。熱心に、細かく話してくれる。

時々その子が照れくさそうに保護者を見つめる。もしかしたら、話さなくてもいいよ、ということも話しちゃっていたのかもしれない。

せっかくの機会なので、わたしは二人で話したいと思った。その子が主役になる場が必要だ。

少し席を外してもらうよう保護者に頼み、その子と二人で話す。といっても殆どはわたしが喋っていて、その子は時々うなずくだけだ。緊張もあるだろう、それでも二人の場を作れたのは良かったと思う。

その日の夜、会えてよかったとその子にメッセージを送った。

「またたくさんお話しよう」と返事が来る。

「緊張してたから全然話してなかったね」と返す。

「そんなことないよ?わたしたくさん話してた」と返ってくる。

・・・驚いた。

その子は確かに沈黙を続けていた。決して喋っていなかった。ただの一言も。

だが本人の体感はそうでは無い。

発語だけがすべてではない。その子はわたしには認知できない方法で、実感の伴う言語コミュニケーションを確かに行っていたのである。

摂食障害は「関係性の病」とも称される。

今若い世代に増えつつあるのもうなずける。この一年足らずで若年層の相談件数は倍増したそうだ。

時代は変動し、コミュニケーションはずっと複雑になった。死ぬことが簡単でなくなったのと並行して、生きていくことも決して簡単ではない時代になった。当事者たちの「普通に生きたい」という思いは、叶わない夢のようにぶら下がる。

痩せたいという四文字には収まりきらない感情のゆらぎが重なっている。

過剰なコミュニケーションに溺れた人々が、なんとか水面に顔をのぞかせて精一杯上げる言葉だ。

そこに至るまでの出来事や想いは、声にならずに消えていく。声なき声。それを消してしまう訳には、いかない。

そしてまた、その子は「痩せたい」と口にする。

・・・

本文章は【第5回 生命を見つめるフォト&エッセー】に応募し、落選したものに加筆修正をしたものです。登場人物や物語には一部改変が加えられており、事実とは異なる部分もいくつかあります。

藤本 純矢


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