見出し画像

SNSは予定調和で話すところ

 そもそも日本の社会で生きていたら、予定調和で会話をするのはごく当たり前のことだ。処世術といえる。
 こうした日本社会に欲求不満を持った人が、もっと自由に発信できる場を求めてSNSに出ていった、と思っていたが、正直、リアルな社会より、SNSの方が、余計に予定調和な会話が求められる社会だった。
 年齢的な問題もあるかもしれないが、リアルな社会では、話したくないことはスルーすればよく、話したいことを夢中で話したとして、それが空気に合わなかったとしても、周りはさりげなくスルーしてくれる。物足りないことはあっても、それで何か大きな問題が起こるわけではない。もちろん話す側にも、やり方と礼儀はあるが、熱弁をふるったとしても、「ああこの人こういうこと好きなのね」と思われるだけのことである。
 大人になってわかったことは、学生時代よりも世間は広いということで、さらに他人はそれほど自分に関心がないということだ。関心がないというのは、興味を持ってくれないだけでなく、攻撃もしてこないということだ。
 人を見つけたら片っ端から攻撃して傷つけるのが楽しみという人もいるだろうが、それはリアルな社会ではほぼ成立しない。もう少し言えば、相手を傷つけるにも不文律があるわけで、それがわからなければ、周りにスルーされるだけである。それに傷つけるというのも、相手が許容の範囲で相手してくれるだけで、面倒くさいと思われれば、そっぽを向かれるだけだ。
 正直社会に出てから、激しい感情のやり取りに陥ることはほとんどない。もちろんやりたければできるんだろうが、それが自分だけでなく相手にも何かしらの意味を持たなければ、結局成立しないで、通り過ぎてしまう。
 そうやって、あまりにも円滑に行き過ぎてしまうことが問題なのかもしれないが、それで物足りなければ、今は自己主張するにはやりやすい場所がたくさん用意されている。自己完結ではあるが、SNSでも動画でも、自己表現の場には事欠かない。
 自己表現とは、表現することで完結するのが普通で、日記を書いているようなもの。そういえばブログがはやり始めたころは、公開日記と呼ばれていた。日記は自分の思うところを文字化することで、満足感を得られるという行為だけれども、それを人に見せるということで、別の満足感を得るというのがブログだった。ただそこには、公開の実感を伴うという保証はない。そもそも日記とは一方通行なものだから、それでいいわけだが、残念ながら、そう思ってブログをやっている人は少なかったようだ。

 承認欲求という言葉で表現されてしまうことだが、表現に対する効果が必須であるという暗黙の了解が成立した時から、そこは誰かとのコミュニケーションの場になっていて、その結果リアルな社会と同じように、一定のコミュニケーションルールが存在するようになった。
 ただ、顔も見えず、予備知識もない「誰か」と、ルールを共有するのが難しい。そこで平和な軋轢のない関係を保とうとすると、相当に気を遣うことになる。見えない相手と、暗黙の了解を作るなど、本来はできないことだからだ。

 SNSでの「空気を読む」作業は、リアルの比ではない難しさを感じる。そこには明らかに不文律が存在し、予定調和が存在するのだが、それが全く合理性がない。そもそも自己完結するはずの発信の場で、予定調和を考えるというかなり矛盾した状況が生まれただけで、もはや理解不能である。
 発信には法的な制約はあるとしても、それ以上のルールは存在しないはずで、というのは、発信はあくまで自己完結であるから、そこに存在するのは自分だけだ。といっても、SNSも構成しているのは人間だから、そこはリアルな社会の一部と考えれば、社会で存在する良識は存在すると考えてもいいだろうけれど、せいぜいそのくらいのことで、あとは自己完結のはずなのに、なぜそこで予定調和を考える必要があるのか。
 だいたい何が予定なのかすらわからないのに。

 ということで、自由な発信な場であるはずのSNSが、どうしようもなく窮屈な場に見えるのは私だけだろうか。

 窮屈な場になる理由はわかる

 それは、SNSが村社会だからだ。
 俗にいう「村社会」とは、構成人数が少なく、それ以外の社会に対して閉じている、閉鎖的な社会を指す。その結果、少ない人間が密な人間関係に陥ることになり、感情の軋轢が生まれやすい。それを避けるために、逆に高度な予定調和が求められる。
 ルール通りに動くことで、人間関係の軋轢を避けるためだ。
 ただこうしたルールはおおむね公平にはできていない。その社会で強い力を持つ人間に都合よくできている。現代に限らず、どの時代であっても、日本であれば長幼の序があるため、年齢の高い人の方が権力を持っている場合が多い。親や高齢者のよくわからないルールを押し付けられる若者は、窮屈を感じる。これが村社会が窮屈な場になる理由だ。
 SNSではこれが起こっている。

 私がこれを強烈に認識したのは、「杉〇〇村」とかいう都市伝説の話を聞いた時だ。聞いたといっても誰からか聞いたのではなく、テレビの番組でやっていたのを見たのだ。ビートたけしがやっていた番組だった。
 ネットの中で話題になっている都市伝説の話だったのだが、「杉〇〇村」というのがどこにあるか情報を求めているという話で、その村とは、ある男が村人を20人前後殺したという歴史のある村だった。
 その殺し方とか、殺しに至る経緯とかを聞いていて、すぐに思い至ったのは「八つ墓村」という話だった。
 ご存じのように、「八つ墓村」は、横溝正史の書いた小説で、金田一耕助シリーズの一つだ。映画化もされたし、ドラマ化もされた。私は映画とかドラマとかしか見ていないが、この小説には元ネタがあって、新聞に載った惨殺事件を読んだ横溝が、そこにヒントを得て作った話だった。
 実際には、6人とかぐらい殺したようだが、小説では20人前後の惨殺事件になり、これに尼子伝説が加わり、物語の中でも数人の人間が殺される。
 この物語の、20人近い惨殺事件のところが、「杉〇〇村」都市伝説になっていた。
 
 小説や映画を知っている人ならすぐわかるほど、まんまの都市伝説で、これをビートたけしが気づかないわけはなく、おそらく彼は、SNSで盛り上がってしまっているこうした都市伝説を、冷めた目で検証するためにあえて取り上げていたのだと思うが、見ている私からすれば、どうして小説ネタが、まるで本当の話みたいに都市伝説になって、そして誰も気づかないのか理解不能だった。

 言えることは、当時すでに、八つ墓村は、ブームが去っていて、新しい映像作品も出ていなくて、若い人にはあまり知られていなかったということだ。SNSで盛り上がっている世代の人たちが、この小説やら映画やらを知らなかったためにこの都市伝説が盛り上がったのだろう。

 ただ、もし、もっと多くの人がこの都市伝説に触れれば、例えば、ビートたけしがテレビ番組にすれば、当然八つ墓村を知っている人が見るわけで、この都市伝説が小説ネタであることはすぐにわかってしまう。しかし狭い閉じられた社会の中でうわさになっている間は、そこに気がつかない。

 つまりSNSとは、閉じられた狭い社会であって、だからこそ、こんな都市伝説が起こってしまうのだ。

 この視点から見ると、SNSというのが社会の縮図にしか見えてこない。本来自由を求めて、発信をしているであろうSNSなのだが、実際にはリアルな社会以上に閉鎖された村社会であり、そこに入って行ってしまうことになる。
 

求めるのは家族的な閉じられた社会

 ただ一方では、だからこそSNSがもてはやされるというのもあるかもしれない。
 前述のように、大人の構成する多くの社会では、例えば私が日常的に接しているような社会では、人と人が軋轢を持つことはほとんどない。互いにうまくすれ違う様に、互いが絶妙な距離感を持っているし、一人で盛り上がってしまった人には、やさしく冷静な反応を返して、適度な礼儀をもってスルーする。
 しかしこうした人間関係は、「希薄」であり、希薄な人間関係に不満を持つ人は、より密な人間関係を求めるわけだ。結局それは「村社会」を求めることになる。少ない構成人数で、互いの距離感が近い社会だ。
 そこでの濃厚な人間関係が、希薄な社会に不満のある人たちを満足させるわけだが、同時に、村社会には理不尽な不文律も存在する。そこをうまくすり抜けるためには、予定調和が必要になる。

 ということでSNSが予定調和になるのは、当然の結果である。
 ただ、この予定調和というのが、密な人間関係なのかといわれると、それも違うような気がする。濃密な人間関係とは、憎しみ合う関係か愛し合う関係であり、そこには逆に予定調和が存在しなくなる。軋轢をはじめから求める関係だからだ。
 しかし村社会というのは、そもそも人間関係は濃密だが、だからと言ってその人間関係が満足感を与えるわけではない。軋轢は起こりやすいが、相手にそこまでの関心を持たないからだ。もっと言えば、よい方向に関心を持っていないケースが多く、おそらく希薄な人間関係に不満を持った人が、本来求めている良い方向の濃密な人間関係が存在するとは限らない。
 ただ、軋轢はあるので、それを避けるためにどうしても予定調和が必要になる。つまり予定調和とは、あえて人間関係を「希薄」にするために使われる方法ということだ。
 結局SNSには、人間関係の希薄さを解消する密な人間関係は存在しないのかもしれない。


 

 5月。
 コミケが開催されたという話を聞いた。
 以前一度だけコミケに行ったことがあるのだが(手伝いで)コミケではコスプレが横行し、共通話題が存在し、初対面でも友達みたいな会話をするのが普通のように見えたが、そこには触れてはいけないことや、話してはいけないこと、話し方、挨拶の仕方、態度など、たくさんの不文律があったようで、びっくりしたのを覚えている。
 普通の社会通念で普通に話したり、行動したりするとだめなのである。
 あの時の違和感と窮屈さを、SNSに感じるのである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?