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『海辺の彼女たち』山形大学学生からのコメント(2022年1月)

山形大学で行われた『海辺の彼女たち』の自主上映会(授業内で鑑賞)。
映画を受けての学生たちのコメントがとても素敵だったので。許可をいただき匿名で掲載します。

※物語のネタバレがあります。


この映画を視聴して、私は過去の経験と重なるものがあった。私が高校生だったとき、彼女たちと同じように外国人技能実習生を受け入れしている水産企業に取材を申し込んだことがある。しかし、それは断られてしまった。理由は「彼女たちを日本人と関わらせたくない」というものだった。

私の地元にも、多くの外国人を雇っている企業があり、東南アジア系の外国人を街中で目にすることが多い。そのため、この映画で取り上げられた技能実習生や不法就労という題材を他人事のようには思えなかった。また、このエピソードを通して自身の町の話を思い出した。何年か前、地元の農家にベトナムから技能実習生が来たことがあった。その農家はお金持ちで、家の人の性格もよくベトナム人の人もとてもかわいがられていた。しかし、彼女はある日身の周りの物をもってどこかへ行ってしまった。私の町は山奥にありバスなども2時間に1本くらいしか通らない、そのような脱出が厳しい環境の中でも抜け出すという事は他人から見たら幸せそうに思えても彼女にしか分からない苦悩があったのではないかと今になっては思う。この彼女の姿と、映画の中の3人の女性の姿が重なって見えた。彼女がどのような思いを抱いていたかは分からないが、もしかしたら映画の中の女性たちのような状況にあったかもしれないと思うと複雑な気持ちになった。

この作品を鑑賞して、地元と環境が似ているため映画のような環境がとても鮮明に頭の中で理解できた。港に行くとたまに、タイ人やミャンマー人のような東南アジア系の人々とすれ違う。映画の登場人物と比べるとやはり小汚い。中学・高校時代、彼らとすれ違うたびに得も言われぬ恐怖を覚えた。中学生の時分、実家の近所にベトナム人労働者の寮があった。朝、学校へ登校するたび列をなして自転車を運転する彼女らと顔を合わせていた。大きな声でベトナム語を話し2列や3列になって道を占領し移動するのをその当時わたしは「こいつら死んでしまえ日本に来るな」と心の中で感じていた。今振り返るとなんと馬鹿だったのだろうかと言える。
この映画を鑑賞しその中学時代すれ違っていた彼女たちは恵まれた環境にいたからこそ堂々と自転車で道を占領し大きな声で会話ができていたのだろう。
私たち日本人はなぜこんなにも金の亡者になってしまったのだろうか。映画を鑑賞しこのように私自身を責めた。

私にとって日本は住み慣れた国のはずだが、彼女たちの苦しい表情を見ているうちに、そこが全く知らない土地であるかのように感じられた。

「また元の生活に戻れるよ」という言葉がこの映画の最後のセリフで、その後エンディングまでの10分間全くセリフがないのが、とても印象的だった。そのシーンは静寂かつ暗闇であり、「彼女たち」のその先の生活が暗澹としてあまり希望がもてないのではないかと想像させる。その静寂な暗闇に生活音だけが鳴り響いていて、その音がまた憐憫な感情を増幅させる。「また元の生活に戻れるよ」という言葉のむなしさや儚さがより際立っている。

エコーを見るシーンでは、思わず私も涙ぐんでしまった。私が以前読んだ『透明なゆりかご』という漫画で、料金や許可書を貰わずに中絶手術をする病院の話があった。彼らは、中絶をできずに追い詰められて、自殺やより悪い結果を選ぶ女性がでないように、違法で手術を行っていた。もしかしたら現実にも、このような病院があるのかもしれない。もし道で不法就労者が倒れていて、救急車を呼ばないでくれと言われたら、私はどうするべきなのか。見捨てたくないが、救急車を呼べば苦しむことになる。究極の選択になってしまうと思う。

中でも特に印象的だったのが、エコーを見るフォンに対して医師がかける言葉が”お母さん“だったことだ。周りの人間が”産むな“という選択肢を押し付けてくる中で、医師は”赤ちゃんを産む“ことが当たり前かのようにフォンと赤ちゃんにやさしく話しかける。次のフォンが涙を流すシーンは、母親として産むことを初めて赦されたことに感極まる涙と、医師の純粋なお母さんという言葉が、フォンにとってはひとりの子どもを殺してしまう重荷となり、罪悪感から来る涙の両方の意味が込められているように感じた。

「海辺の彼女たち」というタイトルから、ベトナム人技能実習生である3人の女性を描いた作品なのだと思っていたが、後半は殆どフォンという一人の女性にスポットが当てられていた。「彼女たち」という複数形が指すのは、フォンとそのお腹の中に宿った新しい生命のことを言うのではないかと感じられた。

私たちは常に良い結末を求めているけれども、だが現実はそういう甘いものではない。よって、この映画の結末は真実を反映した素晴らしい結末だと思っている。
10
静かな叫び
抱えきれない何かを背負ったまま、この考察を書いている。3人で1つ、何があってもお互いに助け合っていくのだろう、という望みが1人の妊娠によって簡単に崩れ、一縷の希望も見出せないまま終わってしまった。妊娠は普通喜ばれることだ。が、ある場面において新しい命はあってはならないものとされる。フォンの病気を心配していた2人は妊娠だと知って、軽蔑に似た視線を浴びせる。結婚をして、家族を作って、幸せに暮らすという夢を捨てて日本で働く意味を彼女たちはよく理解していたはずだ。そのために、「仕方ない」では片づけられない理由で体調を崩した彼女を故意に遠ざけてしまったのだろう。
 私はフォンが買った身分証をすぐにブローカーに渡さなかったシーンが印象に残っている。身分証を渡せば二度と病院で検査を受けることができない。つまり、中絶を選ぶことと同じだ。それは自分の中に新しい命があることを自覚し、自分に頼って生きている小さな存在がいることを認識した彼女にとってはすぐに納得できない選択である。このシーンが検査を受ける前なら思いはここまで突き動かされなかっただろう。しかし彼女が涙を流してまでその存在に愛を持ってしまったことを私は知っている。だからこそ身分証を返し、黙って薬を飲んだ彼女のその後を見届けることもできないまま真っ暗になった画面を見続けることが苦しかったし、言葉では上手く言い表すことができない感情を抱いた。
 この映画は音楽が無かった分、とても静かに語りかけてきた。が、その語りには大きな力があった。宇宙で星がぶつかり合っても何も聞こえないように、静寂の中に壮大な意味があった。こんなにも静かな映画は少ないのではないか。まるで映画全体の静けさがそのまま彼女たちの存在や、抵抗する声を表しているように思えた。何のために生きるのか、生きるとは何か、この映画がずっと問いかけてきている。
11
私にとってこの作品で最も印象的だったのは明かりの使い方である。通常の映画のようなフィルターがかかることもなく、暗闇でも人の顔はちゃんと映るというようなこともなく、只々そこにある現実をそのままに映しているように見えた。フィクションなのか、ノンフィクションなのかの境目がわからなくなってしまうような感覚になった。映画を撮るにあたって、明かりの使い方について何か意図したことがあれば監督に伺いたい。
12
私は前学期、日本にいる外国人労働者を教材に勉強した。そのとき紙媒体で知った「知識」が、今回のこの映画では藤本監督による長回しから生まれる生々しさと相まって「これが現実だ」と突き付けられた感覚がした。不法就労者として安定して生活する人、ブローカーとして地域の不法就労者をまとめ上げる人、偽の証明書類の発行をビジネスにする人、そして彼女たちのように不法就労者になったことを割り切れずに苦しむ人。この映画では不法就労者が様々な視点で描かれている。特に不法就労者になったばかりの彼女たちは何重にも困難な状況が張り巡らされていて、港町に着いた夜のガールズトークでさえ「こんなはずじゃなかったのに」という彼女たちの思いを際立たせているように感じた。また、劇中のATMでフォンが給料を振り込もうとするシーンにあった、お金の投入口のカチャカチャという音は、八方塞がりな現実に加え、妊娠してしまった彼女の葛藤や将来への不安を表しているように感じられ、さらに胸が痛んだ。
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本作は日本の外国人技能実習制度の闇にスポットライトを当て、それがいかなる実態であるかを明らかにしている。ゆえに本レポートでは、その制度について考察していくべきとも思われる。
しかし私は本映画の中でそれ以上に、あらゆるものが「お金」という存在を中心に回っていることに注目した。
「お金」に縛られ振り回されながらも、そこから抜け出すことのできない私たち。人間から圧倒的価値を与えられた「お金」は、いつのまにか人間を屈服させる存在へと変貌した。命よりもお金が価値を持つ世界で、私たちは日々、死闘ともいうべき人生を歩んでいる。
私は『海辺の彼女たち』を観終えたとき、頭の中に鈍くて苦い鉄の錆のような味がするのを感じた。それはきっと、フォンの胎児を殺めた一人に自分自身が含まれていると気が付いたときの寒気とともに、これからもずっと私にまとわり続けるものである。
14
映画を見て、撮影地に青森県を選んだのはなぜかと疑問に思った。実際に青森県で、この映画のもとになった出来事があったのだろうか。この脚本が完成するまでの経緯を是非詳しくお聞きしたい。
15
藤元監督に質問として、外国人技能実習生の受け入れ先として建設や農業、工場など多岐にわたる中で、なぜ漁業を選んだのか、なぜ青森県だったのかが気になる。

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