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誰かの幸せと私の幸せ

私は幸せのハードルがとても低くなった。毎日海を見に行けて、お気に入りのコーヒーが飲めて、干物が食べれて、ご近所さんと喋れて、作品を作ることができれば満足。今はこれ以上望むものはない。だから毎日がわりとハッピーで、たまに鬱は来るけどそれでも根底はハッピーで、明日も明後日もこの繰り返しでいいなあと思っている。向上心のカケラもない(笑)ただ探究心はある。音楽も絵も文章も躁鬱も、もっともっと深く知りたい。上に広げるのをやめて、下へ広げるようになったのかもしれない。そもそも上という概念はないはずなのだけど、人間は誰かよりも勝りたいと思ってしまう生き物だから、あの子よりも上手になりたいみたいなことを考えてしまう。そうすると、あの子の次はその子がいるし、その子の次はこの子がいるから永遠に終わらない。上というのは、進めば進むほど息が続かなくなって苦しい。下には誰もいない。私と作品だけがいて、お互いに理解し合おうとズブズブ沼の底へハマっていく感じ。メンヘラカップルみたいな関係かもしれない(笑)だから知り続けることが、作り続けることが楽しくて、あんまり忙しくなってほしくないくらい。デートの時間を削りたくない。

それが私の感じたい幸せなのだと気がついたのは最近だ。それまでは誰かの幸せや、世間から見た幸せを追い求めていたような気がする。有名になりたいとか、結婚したいとか、就職したいとか色んな気持ちになってみたけど、そうなったら幸せになれそうな気がするという私の内側から出てきていないものを、とりあえず私の上から被せてみるみたいなことをしていたと思う。身の丈に合わない高級な服を着て、汚さないようにご飯を食べるのがストレスみたいな感じ。世間的にはこれでいいらしいから、とりあえず真似しておこって。だけど数年前のある日見ていたテレビで、陶芸家・辻村史朗さんの特集を見た時に、フワフワしていた自分の魂がぐらついたのを今でも覚えている。世界的に有名にも関わらず、自分で建てた山奥の家で、50年間自給自足で暮らしながら作品を作り続けている姿に私は胸を打たれて、釘付けになった。私も本当はこうなりたい。そう、思い出した。世界的に有名という部分ではなく、外からの評価に合わせて自分の生き方を変えることなく、作品を作り続けていられるのが私のなりたい姿だったのだ。

それからその姿は頭の中から消えず、今では私なりの心地のいい生活を見つけて、作品を作り続けている。とても満足だ。古いけど家賃の安いこの家で、毎日コーヒーと干物が買えるくらいのお金があればいい。だから展示会が決まったことも、大好きな猫がベランダで寝てくれることも、綺麗な夕日が見れたことも全部がサプライズで、それらが終わってまたいつもと変わらない日常に戻ったとしても今ではなんとも思わない。大きな夢を叶えてしまった時に虚無感に襲われるのは、幸せのハードルが上がって、日常で何も感じられなくなってしまっているからだろう。サプライズを日常にしようとすると、毎日が急につまらなくなる。サプライズはあってもなくてもいいはずのものだ。

「生きることは、辛いことと楽しいことの繰り返し。毎日が今日と同じでいいの。人生で今が一番若い時だし、今をしっかり生きたいの。」というシン・エヴァンゲリオン劇場版:llのセリフを聞いた当時は、全く意味が分からなかった。今なら分かる。毎日が今日と同じでいいと私も思っている。今日も海を見に行って、お気に入りのコーヒーを飲んで、干物を食べて、ご近所さんと喋って、作品を作っていたい。私の幸せは、今ここにある。

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