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バックミラー越しに映る景色は

呼吸をするたびに、伊豆の柔らかい空気が肺を包み込む。意識しなくても、つい深呼吸をして体内へ取り込みたくなってしまう。伊豆の空気で充満した私の身体は緩やかに分解され、そのまま空気中へ溶け込んでいくような感じがした。私の躁鬱の波を穏やかにしているのは薬ではなく、きっと伊豆の空気なのだろう。

躁鬱の波にのまれて、生き方を変えると決めたあの頃から約1年が経った。当時について振り返ろうと何度も文章を書こうとしてみたけれど、何も湧いてこなかった。もう振り返らなくてもいいくらいに遠ざかったらしい。その場所から離れる時、バックミラー越しに景色が映っている間は寂しいけれど、遠ざかって見えなくなってしまえば、前の景色だけが楽しみになると教えてもらったことがある。私のバックミラーには躁鬱の荒波ではなく、静かな伊東の海だけが映るようになった。


私の時間には「今」だけが流れている。一瞬一瞬の中には膨大な情報が含まれていて、とても五感だけでは感じ取れない。過去を思い返している間に波は打ち寄せ、未来について考えている暇もなく空の色は移り変わる。今を生きられなくなっている時はきっと、自分という存在が大きくなりすぎて、世界の面積がとても小さくなっているのだろう。逆なのでは?と思われるかもしれないけれど、自分というたった一人の人間について考えていても退屈で、面白みがない。それではやっぱり窮屈だし、そこから逃げ出したくもなるだろう。


認識する世界の広さは、自分が認知するかしないかで決まると感じている。空の色が変わった時、トンビの鳴き声が聞こえた時、名前も知らない店員さんと会話した時、自分に関係があると認知した瞬間に世界の面積は広がる。私は長らくの間、音楽活動にしか興味がなかったけれど、今では海へ興味を持ち、新しい街を知り、そこで生活することを始め、インテリアにこだわり、ご近所付き合いを楽しみ、暮らしを美しく感じて、当たり前の風景を切り取りたくなり、風景画を描くようになっている。この世界に存在しているもの全て、自分に関係あるものとないものに分けることは決してできない。意味がない、利益にならないと分け始めた瞬間から視野の縮小と、自分という存在の膨張が始まり、生きているのがつまらなくなるのだろう。

つまり、私なりに導き出した躁鬱人として生きていく方法は、「自分という存在を小さくしていくこと」だった。この小ささは存在価値がないと卑下してなるものではなく、世界が大きくなったがゆえに自然と自分が小さくなっていくものである。私はずっと、自分という存在を大きくすることで欠乏感を埋めようとしてきたけれど、完全に真逆なことをしていたと気がついた。認知している世界観へできるだけ幅広く、多くのものを加えておくと、鬱で自分の気持ちにいっぱいいっぱいになったり、躁で自分の存在価値を証明しようとしたりしなくなる。自分以外の多種多様な存在がそっと手を差し伸べて救い上げてくれたり、支えてくれたりするのだ。私は私を過信しすぎていたのかもしれない。躁鬱によって生じる欠乏感は、足りないものに対して加えることではなく、すでに足りているのだと理解するにつれて消えていった。そうした私の目に映る世界は本当に美しく、ここへわざと何かを加えたり、作り変えたいとは一切思わない。

躁鬱もいつかはバックミラー越しに見えなくなる日が訪れるかもしれない。たとえまた波にのまれることがあったとしても、今の私には掴まらせてくれる存在がたくさんある。躁鬱の航海自体は一生続くだろう。だから大事なのは、怯えて狭い陸に留まり続けることではなく、広い沖へ何度も出続けようとすることなのではないだろうか。

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