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頑なに引っ張らない

ここ1ヶ月の間に何度か落ちた。でもすぐに真ん中へ戻すのが上手になってきた。真剣に休めば数日で元に戻せる。転ぶのを怖がっていたらいつまで経っても自転車に乗れないように、揺れるのを怖がっていたらいつまで経っても暮らしを楽しめない。一時期は心の揺らぎが怖くて誰かに会うのも、どこかへ行くのも躊躇していた。薬で初めて知った安定した自分に寄りかかりたくなってしまうのだ。だけどいつかは補助輪を外して自転車を漕がなければならない。少しずつ外しながら慣らしていって、いざ外してみたら大したことなかったなんてことも多い。もちろん転んだりはするけれど、痛みと共に立ち上がり方を覚えていくことで、転んでもなんとかなるという自信がついてくる。

私がこうして躁鬱のことを表へ向けて書くようになってから、参考になると言ってもらえるのが増えたと同時に、おそらく取っ付きにくい印象を持つ人も増えていると思っている。鬱は気のせいだと言う人は確かにいるし、躁鬱が心の病だと勘違いしている人もいるだろう。実際に私も、1年前までは躁鬱の存在すら知らなかった。それから勉強をして知識をつけたものの、その先の生き方までは分からず、自分のマニュアルを作るしかないと思いここへ書き連ねている。それを表へ向けて出す必要は決してない。いつも元気な人の方が取っ付きやすいのも分かる。けれども、参考文献が少ない以上誰かの生き方は参考になるし、私はハフポスト日本版へコラムを書かせてもらえるくらいには文章が上手いらしいから、藤森愛という看板を利用しながら一つの参考文献として公開している。


私はずっと頑張ることが好きだった。そのおかげでできたこともたくさんあるし、今の私があると思っている。でも立ち止まってみた1年前のあの日から、この社会には生きづらさを抱えている人たちが本当にたくさんいるのだと知り、自分一人ではないのだとも思えた。私も頑張るのが好きながらも、生きづらさを抱える自分に蓋をしてきたところがあって、30歳でしまいきれなくなり暴発している。

頑張るのが好きだったから、頑張ることの限界もよく知っているつもりだ。どんなに頑張っても傷んだ喉から声は出ないし、どんなに頑張っても誰かから認められたいという気持ちは埋まらないし、どんなに頑張っても伝わらないことがある。頑なに引っ張ってしまった先へ進もうとすると、さらに引っ張るか、千切れるしかない。頑張っている人間がさらに進むためには、もっと頑張らなければならないのだと知り、私は頑張るのをやめた。もっと先へ進んでみたかったから。そのために何も引っ張らず、ゆるゆるな状態で進んでみることにした。海の上でプカプカ浮きながら、波に揺られてどこまでも。そしたら生きづらさがなくなってきたものだから、なかなかいい方法だと思っている。頑張っていない自分が怖い病をもし抱えてしまっていたとしたら、頑張らなくても進める道が実はたくさんあるから案外大丈夫だよと伝えたい。むしろ引っ張らなくなった分、進める道はさらに増えるかもしれない。上り坂だけを選ばなくても、平でも下り坂でもいいと思う。他人のペースなんて気にせず、自分が一番歩きやすい道を選んで楽しめばいいのだ。

ひきこ森愛の4コマ漫画

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