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移り住むこと

YouTubeを見ていたら、移住失敗談のコンテンツが上がってきた。最近では何かと話題に上がる地方移住。毎度、大きく取り上げられるのは悪い話ばかりだ。失敗談の典型例としては、近隣住民とのトラブルや、参加しなければならない催し物の多さ、それほど安くない物価、交通の便の悪さ、医療サービスの不充分さ、虫が多いなど挙げればキリがない。私も物件を探しまくっていた当時は、その街の住み心地が書かれた口コミを読んでは不安になった。でも読んでいるうちに、まだ起きてもいない未来に対して自ら不安を煽っていたことに気づき、あまり当てにしないことにした。大型スーパーがないとか、車がないと不自由だとか書かれていたけれど、それはその人にとっての不便であり、私にとっての不便にはならないかもしれないと考えたからだ。

現代では何でもまずは口コミを見て、なるべく失敗しないように、手っ取り早くいいものにありつこうとする癖がついてしまっている。それは便利であると同時に、成功の枠を自ら狭めてしまっていると私は思う。予めこうであってほしいというゴールが設定されていると、そこに当てはまったものだけが成功になり、それ以外は全て失敗になる。それはアーチェリーくらい難しい。やったことないけど。でもゴールがなければどう転んでも、たとえ他者からすれば失敗に見えていたとしても、矢を放った時点でどこに当たろうが全て成功になる。たまたま見つけて入ってみたパスタ屋さんが不味くても、不味いという体験すらも面白く感じられるように。ゴールはなるべく広くしておいた方が人生は楽しい。

だから私が移住する上で気にしていたポイントは2つだけだった。一つは海が近いこと。もう一つは無免許のため、歩いて行ける場所にスーパーがあること。それ以外は住んでみてからのお楽しみ。だから想像していなかったことがたくさん起きた。ご近所付き合いがあったり、お祭りや防災訓練があったり、虫は都会よりサイズが2倍大きかったり、天気予報が全く当たらなかったり、店は閉まるのが早かったりお休みだったり、東京での暮らしとはまるで違う。でもすぐに海へ行けること以外はいい意味でどうでもよくて全く期待していなかったから、些細な出来事が起きる度に日々は彩られ、日常生活そのものがエンタメ化していった。Netflixを見なくても、明日も明後日も結末が分からないストーリーが始まっていく。私たちは強い刺激を求めるうちに、一番近くにあるはずの誰もが体験できるエンターテイメントの存在を忘れてしまっている。


よく移住してよくなかったことや、改善してほしいところを聞かれるのだけど、さっきも言ったように何も期待していないため悪い点すら思い浮かばない。3分に一本は電車がやってくる新しい街で生まれ育った私的には、都会人のこうしてほしいという意見は聞かないでほしいと思っている。確かに多数派の意見を取り入れていけば住みやすい街にはなるのだろうけど、同時に個性が消えていく。多数が共感するものとは、普遍的で当たり前になっているものであり、それはすでに都会に存在しているものだ。そんな多数派に合わせていっても普遍的なものにしかならず、ただでさえ過疎化が進む街で普遍的なものが増えれば、余計に便利な都会の方を選ばれてしまうだろう。それは街だけではなく、色んなことに対して当てはまることかもしれない。

一番やりがちなのが、自分が移住者であるのを忘れてしまうことではないだろうか。もっとこうしてほしいなどというのは、その土地で生まれ育った人間だからこそ言えることで、外から来た人間が言うセリフではない。味噌は赤ではなく合わせにしてほしいなんて言われたら、名古屋人の自分からするとイラッとする。どこまでいっても自分は外から来た人間であり、地元の人たちとは決して同じ視点や同じ価値観は持てないのだと、常に念頭に置いておきたいと思っている。それを忘れた瞬間にきっと、リスペクトが消えてしまうのだろう。だからこそ私にしか見えない視点で表現をし、ここにしかない価値があるものを伝えていきたいと思っている。

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