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表現者

私は自分のことを根っからのミュージシャンだとは思っていない。音楽の魅力に取り憑かれてしまい、それがないと生きていけない人たちと比べると、私と音楽の間には距離があると感じる。イラストレーターやライターだともあまり思っていない。職業を説明する時に、どれかの名前に当てはめなければ伝わりにくいからとりあえず選んでいるような感覚で、プロフィールを話す度に自分は何者なのかについて考えてきた。時と場合によってやりたいことがコロコロ変わる飽き性だと思っていた時期もあったけど、どうやらそうでもなさそうだ。

私はおそらく表現をしたがっている。感じたことをどうにか形にしたくて、そのためのツールをずっと探してきた。耳で伝えたければ音楽を、目で伝えたければ絵を、頭で伝えたければ文章を、舌で伝えたければ料理を、肌で伝えたければ街を選ぶ。形にするためのツールが足りなければ躊躇なく増やして、表現として使いこなせるまで練習する。狂ったようにDTMをやっていたのも決してレコーディングエンジニアになりたかったわけではないし、料理に凝り出したのも決して小料理屋を始めたいわけではない。表現したい何かがあって、私も知らないどこかのゴールへ到達するために猪突猛進している。だからむやみやたらに何でもやっているようで、その時に必要なツールをしっかり選んでいる。こうやって急にまた文章を書き始めたのも、新しい生活を通して感じていることを表現するためには、文章が一番有効的だと思ったからだ。

音楽には魔法のような力がある。どんなに理解を深め合っても分かり合えない人間同士の壁を、理屈抜きで一瞬にして取っ払い一つにしてしまう。手で触れられない、目にも見えない、事実そこにはない不確かなものほど人は信じたくなるのかもしれない。あのエネルギーは他の何にも抑えることのできない、圧倒的な表現だ。絵には想像させる力がある。見えている世界を、平面という少ない情報量でどう伝えるか。音楽とは違って流動的なアプローチはかけられないから、向こうから想像して探りを入れてもらうしかない。違う景色の世界へ迎え入れるような感じ。解釈の幅は広く、どれも正解で、答えのない表現だ。文章は表現の中でも一番解像度が高く、その人となりをそのまま映し出す力がある。他の表現は抽象的で、受け手によって解釈が変わるけれど、文字は意味が決められている。青と言われれば、全員が青だけを想像するだろう。ストレートで伝わりやすく、でも同時に余白がなく勘違いもされやすい鋭い表現だ。

それぞれの表現方法に役割があって、伝わり方も、後の残り方も違う。どこかでツールを一つに絞らなければと思っていた時期もあるけれど、この無限に広い世界を表現するためには、一つの方法ではとても足りない。だからあれもこれもとやっているうちに歳を取って、どれもままならないままになってしまった。一つのことを極める職人に憧れていたのだけど、私はなれそうにもない。かけている時間が足りなくて、一つのことをやっている人にはどうやったって敵わないのだ。全部中途半端だなあと思っていた。でも、私は表現そのものを極めたいのだと分かってからは、時間をかけて全部を同時にやっていく覚悟をした。時間が足りないからと絵の道具を全部しまったり、音楽を遠ざけたりはもうしない。得体の知れない何かを表現をするために、その時に必要なそれぞれの力を借りているに過ぎないのだと。貸してもらえる間は、ありがたく全部使わせてもらおうと思う。表現者であり続けるために、自分の人生の時間を対価にして何かを残せるのならば、喜んで差し出したい。

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