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豊かさについて

今日も朝起きてから、真っ先にコーヒーを淹れる。マグカップはRustというお店で一目惚れしたもの。色や持った時の肌触りがよくて、少し高級感がある。だけど部屋のどこに置いても馴染み、かつ優美に存在する。お値段は2000円くらい。誰かへのプレゼントとして買うには相場で、自分用に買うには少し高く感じた。ずっと自分のグッズとして作ったマグカップを使っていたのもある。そもそも自分用のマグカップを買うという概念がなく、0円で使っていたものに対して2000円も出すのはなあ〜と、その時は少しだけ躊躇した。でも今では、2000円なんて安いと思っている。なぜなら私は、毎日毎回このマグカップを使う度にいいなあと感じさせてもらい、もうとっくに2000円分の元を取れているからだ。私はただマグカップという物体を買ったのではなく、マグカップを使う時間を買っていたのだと気がついた。

きっと何でもそうで、一旦は物を介してお金を払っているから勘違いしてしまう。勘違いしたままだと、本来大事にしなければならない時間にお金を払わず、もっと手前の物にだけお金を払い、どんどんいらない物が増え、虚しい時間も増えていく。定期的に買っているテーブルに飾るためのお花は250円くらいなのだけど、たったの250円で24時間×1週間分のいいなあと思う時間ができる。そう考えると安すぎる。観葉植物たちは300〜1000円で鑑賞できるだけでなく、自分で育てる時間もできて、上手く育てば末長く楽しめる。コスパ最高なのだ。中には1万〜数万円出したアンティーク家具もある。だけど重要なのは値段ではなく、それを買った後にどんな時間が待っていて、自分にどんな作用を与えてくれるかどうかを考えるべきなのだと思った。それはきっと、心の豊かさに繋がっている。

豊かさとは何だろうとずっと考えてきた。富や名声で埋めて、ある程度は豊かになれたとしても、本質的な部分では乏しいままだというのは、おそらく多くの人が感じることだと思う。それは、もっと偉くなりなさい、優秀になりなさいと言った社会的な教育で植え付けられた虚像を追いかけすぎて、大人になるにつれて分からなくなっていってしまうのだろう。気づかないままでいると100均のマグカップでも、2000円のマグカップでも乏しさは変わらず、最後には全部同じだからと言って何でもよくなり、お金で時間を買わなくなってしまう。

私が前に住んでいたのは、電車一本で都心へ出られて、駅前には人々が賑わい、オシャレなカフェやお店がたくさんあって、マンションのセキュリティーがしっかりしていて、夜中以外は楽器が演奏できる便利なところだった。今住んでいるのは、都心までは2時間半かかり、最寄り駅までは徒歩30分かかるにも関わらずバスは1時間に一本だけで、シャッターが閉まった店は多く、干物屋さんとお土産屋さんばかりで、家は築50年と古く、虫が入ってくる隙間があり、土砂災害の危険性があるところだ。だけど、今住んでいる場所での生活の方が豊かに感じている。それは時間をお金で買うようになったからだと思っている。海を見て癒される時間、駅まで自転車を乗って楽しむ時間、干物屋さんと仲良くなる時間、広い家で快適に過ごす時間、自然の近くで暮らす時間。あえての不便さを買い、その不便な時間を楽しんでいる。だから都会で過ごす時間を買いたくなれば、前に住んでいた場所でも楽しく暮らせるのだと思う。「お金で時間を買う」と言う言葉をよく耳にするけれど、そこには時短の意味が多く含まれている気がする。でもそれだけでは時短した分の時間が多く余るだけで、余った分の時間を埋める必要がある。何でもいいやーと、適当なもので埋めていては意味がない。お金で時間を買うの本当の意味は、お金を払った後で自分の心が豊かになり、それを出来るだけ長く感じられるものを買うことではないだろうか。そこには値段や便利さとは関係のない、本当の豊かさがあると思っている。

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