見出し画像

生活すること

都会の陽の当たらない狭い部屋でこのまま腐ってしまうくらいなら、後回しにしていたことを全部やってみようと思った。それらを総まとめして名前を付けるとしたら、「生活すること」かな。

いつも何か目標を掲げてそこへ向かって走っていくのを繰り返してきて、生きがいを感じていたし得意でもあったから、この先もそれをずっと繰り返していくもんだと思っていた。でもどうやら違うらしい。目的地を決めなければ進めない不安や、その目標を達成するため以外のことはどうでもよくなってしまうおざなりさや、目標がなくなってしまった時の虚しさへの違和感。生きていくって本当にこれだけなのだろうか?

将来の夢は何ですか?志望校はどこですか?就きたい職業は何ですか?貯金はいくら貯めたいですか?老後はどうしたいですか?今何をしているかではなく、先の未来を聞かれて、そこへ向かって努力するのが当たり前みたいな雰囲気。成長しなければならない。やり遂げなければならない。できなければ落ちこぼれ。子供の頃から刷り込まれたその当たり前に対して、違和感を感じてしまった私は社会からずれているのかもしれない。

ずれているかもしれないが、いつまで経っても未来への準備と、未来をよくするための過去の反省ばかりをしている自分に気がついた時、今日という日を真剣に生きてみることに興味が湧いてきた。期待もせず、振り返りもせず、ただただここにある一瞬を連ねていく。それはすなわち生活することなのではないだろうかと。

自分が躁鬱病だと気がついた半年前から、薬ではない方法でどうにかならないかとずっと考えてきた。薬は楽だ。18才から4、5年飲んでいたけど記憶はほぼない。楽な代わりにぼやかされて記憶も掻き消されてしまう。それはやっぱり寂しいし、せっかく人間でいるのだからこの世界を体全体で感じたい。

薬ではない方法となるとできることも限られてくる。なぜなら私たちの暮らしは、作って食べて寝ての繰り返しでできているから。それらの居心地が悪くて辛いから、薬で記憶を改ざんしながら生活しなければならなくなる。

私はその方法をとるのをやめて、生活が心地いいと思える形にするのを選んだ。人よりも色んなことを敏感に感じてしまうがゆえに、ちょっとでも心地がよくないのは命取りになってしまう。これはもう体質だから仕方がない。ちょっと我慢しようとかはできないのだと分かってきた。

心地いい家、心地いい街、心地いい景色、心地いい空気、心地いい食べ物。自分の直感を信じて、受け入れ、生活していく。30才にして初めて、生活することを始めてみる。

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!