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小説:ラウンドアバウト・ミッドウェイ

パーカーのポケットに米が入っていた。
「は?」と思いながらも、なぜかそれを道端に捨てる気になれなかった私は、反対側のポケットからフィルムケースを取り出し、そこに米を入れた。
カラカラと鳴るかと思った一粒の米は、静電気のせいなのか、フィルムケースの底でじっとしていた。
かわいそうだと一瞬でも思ってしまいそうになった自分に苛立ちを感じた。
かわいそうなんていう感情は、優越感をもとにした憐れみだ。
私は米より偉いのか?
少なくとも一粒の米は、なにかの命をすこしだけ延ばしたり、喜びを与えたりすることができる。
私にできないことができる。
米様とでも呼ぼうかな、と私は思った。

以前は私も写真部に所属していた。
していたのだけれど、どうしても居心地が悪くて二ヶ月もしないうちに辞めてしまった。
ある日、部室で女子が写真を褒め合っていた。
「えーこれとかいい感じだね」「これ超キレイじゃん」というふうに。
私にはわからなかった。
これはどういう意味の写真なのだろう?と思った。
そして実際に口に出してしまった。
「これは、どういう意味?」
「え?意味?意味って、なに?」
「どういう文脈っていうか…」
「文脈?」
「水平を取らなかったのは不穏な感じの意図なのかなって」
「は?意味わかんない。キレイじゃん」
「ごめん、なんでもない」
私はいつもなにかを言ってしまったあとに後悔する。
空気になにか書いてあれば読めるのに、と思う。
そういったことが何度か重なって、私は写真の話ができない写真部を辞めた。
私は同じ部の男子のように「機材マニアやスペックマニア」なわけでもないし、女子のように「カメラを持っているオシャレな自分」が好きなわけでもなかった。
どちらにもなれない自分には居場所はなかった。

「モノクロの空がいちばん青い」と言った写真家がいた。
写真雑誌で読んだのか、なにかの写真集の言葉だったのかは思い出せない。
私はいつも、いろいろなことを思い出せない。
しかし私は、今でもときどきその言葉を思い出す。
思い出すたびに、首を傾げる。
なに言ってんだ?
曇り空よりグレーじゃないか。
そう思いながら、私は試しにニコマートのファインダーを覗いてみる。
そして、やっぱり空は青いほうが青いんじゃないかと思う。

私には父親がいない。
もちろん、生物学的に存在しないわけではない。
どこかにはいる。
どこかにはいるのだけれど、母親に聞く気にはなれない。
二年前のある日、唐突に父親から荷物が届いた。
母親はあからさまに機嫌が悪かったが、しぶしぶといった感じで私に同封されていた手紙の内容について話した。
「会わせてくれとまでは言わないのだけれど、ひとつだけお願いがある。ルカに(私のことだ)写真を撮らせてみてほしい」というような内容だった。
私は手紙と一緒に段ボール箱に納められていた銀色のカメラを持ってみた。
冷たくて重い金属製のそのカメラを持った瞬間に、私は分泌されたことのない脳内物質のようなものが頭の中に広がるのを感じた。
「あの男はね」と母親が言った。
「サイコパスだったのよ、たぶん。破滅的な人格のくせに、優しい写真撮るような人間でさ。あんたはあんな男に引っ掛かっちゃダメよ」
私はこっそり荷物の送り状を見てみたが、それは母親によってすでに剥がされていた。

ベンチに座っていろいろなことを思い出しながら、私は米粒の入ったフィルムケースを振ってみた。
米粒は、静電気と慣性のあいだで板挟みになった後、カタカタと音を立てた。
まるで私みたいだ。
そういえば、そろそろフィルムを入れ替えたほうがいいな、と私は思った。
フィルムの枚数はギリギリまでは撮らずに、早めに入れ替えておくことにしていた。
そのほうが連続で撮りたい瞬間が訪れたときに、あわててフィルムを交換しないで済む。
クランクを回してフィルムを巻き上げてから裏蓋を開けたとき、パトローネが納まっているスペースの横に汚れのようなものが見えた。
こんな汚れあったんだ、と指で拭きとろうとした寸前で、それが数字だということに気がついた。
11ケタのその数字を、私は急いでスマートフォンに打ち込んだ。
「もしもし?」と、低い男の声がした。
私はなにも言わなかった。
「……ルカ?」
「お父さんですか?」
「そう。そうだよ、お父さん」
「わぁ。えーと」
「すごい。見つけたんだね」
「うん。今見つけた」
「そっか。今家じゃないよね?」
「うん。外」
「お母さんには、言わないでね」
「言わない」
「うん。元気?」
「まぁまぁ」
「そっか」
「うん」
「写真、撮ってる?いや、撮ってるみたいだね。見つけたんだもんね」
「うん」
「えーと、フィルムはなに使ってる?」
「スペリアっていうの」
「カラーネガか。いいと思う」
「うん」
「いや、俺もっと話すべきこと……いや、いいか」
「お父さんは」
「ん?」
「お父さんはどんなフィルム使ってたの?」
「お父さんはね、プレストっていうの使ってた」
「どんなの?」
「モノクロだね。モノクロのネガフィルム」
「まだ買える?」
「いやぁ、たしかもう売ってない」
「そうなんだ」
「アクロスならまだ売ってたかな」
「あたしもモノクロにしようかな」
「どんな写真撮ってる?いつも」
「うーん、なんか」
「いや、難しいよね、説明するのは」
「文脈のある写真」
「……」
「もしもし?」
「……俺ルカに話したことあった?」
「なにを?」
「いや、まだちっちゃかったしな。そんなはずないな」
「なにが?」
「なんでもない」
「アクロスってどこで買える?」
「今度送ろうか。いや、それじゃこの電話バレちゃうもんな」
「自分で買えるよ。大丈夫」
「そっか。モノクロはいいよ」
「へぇ」
「いちばん青い空が撮れるんだ」
「知ってる」
「知ってる?」
「あ、その言葉知ってるっていう意味」
「じゃあお父さんと同じ本読んだんだね」
「そうなんだ」
「お父さんがいちばん好きな写真家なんだ」
「でも言葉の意味はわかんない」
「難しいよね」
「むずかしいな」
「でもね、今ここで言葉で説明するよりも、たぶん自分で撮りながら考えたほうがいいと思うな」
「そうなんだ」
「お父さんはね、ルカが産まれた日の空が人生でいちばん青いんだ」
「ふぅーん」
「たぶんこれからもずっと」
「そっか」
私はフィルムケースから米粒を取り出し、近くにいたスズメに投げてみた。
スズメはそのたった一粒の米を見つけて食べた。

私と父親は、日暮れ近くまでそのまま話をした。
できるだけ意味のない、普通の話をするようにした。
そして、できるだけ普通に電話を切った。
きっとこの先、お互いに電話を掛けることはないのだろうと思ったから。

夕焼けが綺麗だったけれど、私はレンズを向けなかった。
明日、モノクロフィルムを買いに行ってみようと思った。
私はこれから長く続く道のりを歩いていく。
写真を撮りながら、ふらふらと。
そしてきっと、私はいつかいちばん青い空を撮る。

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