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『ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました。』から始まる、対話と哲学

タイトル「めでたし、めでたし?」

ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。

一方的な「めでたし、めでたし」を、生まないために。
広げよう、あなたがみている世界。

2013年度 新聞広告クリエーティブコンテスト よりhttps://www.pressnet.or.jp/adarc/adc/2013.html


哲学対話会

そう呼び、何度かオンラインで様々なテーマで話している。
高校教師の友人に誘ってもらった。
高校生を中心に、疑問に思っていることをテーマに対話し、
哲学的に議論を試みる取り組み。
今回の参加者は、自分を含め大人2人、高校生4人。

この広告から思うこと、感じるものはなんだろうか。
高校生はどういう考えを持つだろうか。
という興味。
それと、この広告に少し引っかかっていたため、テーマを提案した。

高校生は、
・今の時代ってこういう多角的に見ることは大切だと思う
・光と影の表裏がある
・なんとなくトロッコ問題を思い出した
・ニュースで犯罪をした子と親を想像した
・固定概念を壊すような広告
と言った感想を言ってくれた。


実際のところ、自分も近い感想だったと思う。
ほぼ誰もがわかる設定。
既存の概念や当たり前を問い直す広告。
ハッと気づきを与えてくれる。

しかし、感じる違和感。何かひっかかる。
「何かを言っているようで何も言っていない」と思った。

気づきを与えてくれる広告として機能している。
しかし、「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました。」は、
「めでたし、めでたし」という前提を知らなければ、
「ボクの弟は、イジメにあいました。」のような、単なる事実を伝えるだけでは?
何も解決していない。
斜に構えた見方をすれば、「だから何?」とも言えてしまう。

そこに踏み込んでみる。
まず、主体的な視点で「桃太郎」を捉え直す。


あなたが鬼の子だったら、どういう行動をしますか?


・目立つようなことをしない。
 何言われるかわからない。
・罪の償いようがないから、ひっそり生きる。
・なぜ父親が殺されなければなかったか、
 という事実を調べて公表する。記録として残す
・もし現代社会じゃないとしたら、
 種族としての差別があるのでは、と想像する


種族として、差別される見た目であったら。
語る口もなければ、その語りを聞く耳も存在しなかった差別の歴史がある。
公表しても誰も耳は傾けない。
たしかにそうだ。
では、なぜ父親が殺されなければなかったか?
そこで、こんな発言があった。

「桃太郎って今いたらヤバい奴。」

鬼に何かメッセージを送ることだってできる。
話す解決策だってあるのだ。
しかし、独善的に実行している。
仲間を集め、ただ一方的に退治した。
現代社会ではありえない、周りの見ないままの実行力だ。
たしかにヤバい奴だ。
ここでは納得してしまった。

もう一つ哲学的な視点から考える。
「殺す=罪とは、そもそもなんなのか?」
罪という、人間がしてはいけないこととは。

少し立ち止まって、罪とは何か?を身近なことから考えてみる。
・自分から率先してやった仕事で、ミスをしてしまって罪の意識を感じた
・電車で席を譲れなかった罪の意識

留意したい点として「罰がない罪」であることだ。
この桃太郎の世界では、鬼を殺すことは善行だ。
そうでなければ、「めでたし、めでたし」ではない。
「罰がない罪」の意識は、誰しもが感じる。
しかし、それすら桃太郎は感じなかったのではないか。

「悪いのは、おじいさん、おばあさん」


と発言が出る。
親の教育で子の考え方が決まる。
その通りだ。
桃太郎に、罪の意識さえ持たせない教育。
悪いのは、おじいさん、おばあさんではないか。

「おじいさん・おばあさん」の立場を考えてみる。
二人のもとに偶然、桃が流れてきた。
おじいさん、おばあさんの子どもでも、みなしごでも、親戚の子どもでもない。偶然の巡り合わせの子どもだ。
二人は今困っていることを、桃太郎を託す。

「悪を滅ぼし、私たち(おじいさん、おばあさん)のいる世界に平和をもたらす」

ふと気がつき、これは「スターウォーズ」の
ダース・ベイダーと同じ出生だ。

出生が不明なまま、その世界に出現する。
全くの外界から出現し、救世主と期待される。
そして、おじいさん、おばあさんが愛情をこめて育てたからこそ、ダークサイドに堕ちず、
平和をもたらす英雄となった。
そのおじいさん、おばあさんに罪があるとして良いのか。

桃太郎の立場に戻る。
桃太郎は、「桃太郎」という象徴になり、
旗すら背負い、役割を全うした。
もしかしたら、桃太郎だってつらい役なのでは。
決定者・実行者として、その期待と全責任を負った。

「桃太郎は、本当にヤバい奴」なのだろうか。
「呪術廻戦」の夏油傑(げとう すぐる)のような、
行き過ぎた正義なのだろうか。
そうではないかもしれない。

また違う角度から考える。
今度は、外の立場から。
こういった事情を知ろうとしないことは「罪」だろうか?

知ろうとしない=傍観者

こう考えた場合、桃太郎の世界では、傍観者は誰だろうか。
村人だ。
期待を寄せ、実行してもらい、最後に感謝を伝えたであろう物語の役どころのない、多くの村人。

みんなのためと思って、正義を振りあげるしかなかった桃太郎は、
村人によって作り上げられたものかもしれない。
桃太郎をまつりあげ、実行させた。
もしかしたら、桃太郎も無意識のうちに。

では、村人がこの罪の原因なのか?
自分の手を汚さずに、見ているだけの存在。

ここでもまず主観的に考えてみる。
「自分は傍観者ですか?」と。
なりたくない、と気持ちは思う。

しかし、傍観者=知ろうとしないこと、
いや、興味のないこと、と言い換えていいかもしれない。
そんな事柄は限りなく存在してしまう。
自分だって傍観者になってしまう、知らぬ間に。
「私は、村人とは違う」と言い切れるだろうか。


「知ろうとしないことは罪なんて、
 知ることの大変さを知らない人間の発言だ。」

過去にそんな言葉を聞いたと高校生が言ってくれた。

もしかしたら、
桃太郎は、手を下すしかなかったのかもしれない。
おじいさん、おばあさんは、勇敢な子に育てるしかなかったのかもしれない。
鬼は、自分の権威を見せつけ、鬼ヶ島を守るしかなかったのかもしれない。
この広告の鬼の子は、自分の事情を言うしかなかったのかもしれない。

そもそも、罪とは?悪とは?
一方的な正義を生まないためには?
広告の"一方的な「めでたし、めでたし」を、生まないために"考えられることはあまりに多い。
自分の世界をひろげること、知ることは大変で難しい。


「そもそもを問う」哲学。

対話会を終え、頭を整理する。
こんな言葉を引用する。

哲学は「知的な公共事業」だと考えています。
いまでは人権なんて当たり前の言葉ですね。でも、昔はそもそも人権という考え自体がなく、いまよりもひどい人権侵害がまかり通っていた。人権という概念が社会で広く共有されているからこそ、ある程度人権が守られているという側面がある。
そうした意味で、哲学が扱う概念は水道の水に似ています。...それがないと、僕たちの日常生活は、一日として成り立たない。
水道やガスは、目に見えるインフラですが、哲学が扱うのは、社会を支える概念装置という、目には見えないインフラです。

哲学がないと人類は生き残れない!?
哲学者・出口康夫 さん インタビュー記事より



当たり前とされている「知のインフラ」。
ここでは「桃太郎」という物語を、
「私たちの当たり前」を使いながら、疑い、考え、話し合った。

頭がごちゃごちゃになりながら、
色々な可能性を探り、新しい見方・発見があった。
新たな「知る」が、
自分の視野を少し変えて、広げてくれるかもしれない。
たくさんの「哲学的に考えること」の断片がある対話会だった。

同時に、面白いと感じる自分に気がついた。
「・・もしかして、この感情もいつか罪になる?」
なんて考えがふっと浮かんだ。