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余談「野球を書く」

野球をしたことはないけれど

僕は野球というものを実際にしたことはほとんどありません。
小学生の頃、小学校から遠く(片道3kmほどです)
グラウンドで行われていたスポーツ少年団に入ることもありませんでした。

中学生に上がるとき、野球部に入ろうか、バスケ部に入ろうか悩んだ挙げ句、お金のかからないバスケ部に入ることにしたので、あれが僕から野球というものが失われた分岐点だったのかもしれません。

とはいえ野球は嫌いではありませんでした。

姉が『月刊ジャイアンツ』を購読しているくらいには
ジャイアンツのことは知っていましたし、
ヤクルトが優勝したときに、同級生たちがヤクルトの下敷きとか定規を持っていて羨ましいと思ったくらいにはプロ野球で誰がどう活躍するかなど、基本的なルールなどは知っていました。

野球漫画もそこそこ見ていましたし、野球アニメなんてものも昔はあったので野球は身近なスポーツのひとつでした。
(そういう意味ではバスケットボールのほうがマイナーだったかもしれない。ジャバーなんてみんな知らないだろうし。3ポイントもない頃の世代です)

ただ中学時代のバスケ部での練習で汗まみれになったり、先輩後輩の壁のようなものを知ったり、放課後の部活感のようなものはこのとき経験できたので、部活のよさのようなものは後で活きることとなりました。

高校時代はラグビー部にちょっといましたが、交通事故に遭遇し、休んでいる間に練習についていけなくなって退部。
以後、漫研のお世話になることとなりました。
思えばこれも大きな分岐点だったのかもしれません。
(同級生の鬼塚くんの机にデカデカとミンキーモモのらくがきしてなかったら漫研に誘われてなかったわけですから。この頃の話は気が向いたらまた書きます)

高校のときに応援しにいった県予選などでチームとひとつになれる高校野球の良さみたいなものはスタンドからですが体験できたことも大きいかもしれません。

野球アニメに携わること

あれはアニメの会社に入り、アニメ制作に脚本家、シリーズ構成としてそこそこ経験を積んできた頃のことでした。

会社のプロデューサーが『もしドラ』のアニメ制作の話をI.Gに持ってきたのです。時間はない、制作費も安いという話はよくある話ですが、原作を全10話で脚本を二ヶ月で全部あげてくれとオーダーされました。

あのとき社内で頼れそうだった脚本家とふたりで手分けしてとにかく書こうと腹を括りました。原作はドラッカーの『マネジメント』を野球をつかって書いているというものでしたから野球の描写が必要となります。

当時の制作プロデューサーも野球をやっている方でしたので尋ねました。

藤咲「野球、ちゃんと書きますか?」
制作P「まともにアニメにできるスケジュールじゃないから野球は捨てる」

確かに現場はスケジュールどおりに上げることが必須です。

とはいえ、高校野球で無名校がマネジメントによって甲子園出場を勝ち得るようなお話ですから、なにか根拠がないといけません。

エースピッチャーがそこそこで点を取れる地力があればなんとかなるのかしら?と思いつつ、このピッチャーの決め球だけでも決めないといけません。

原作にはその描写はほとんどなかったので、とりあえずキレのあるスライダーを得意とする、そこそこの速球が投げられる感じにしておかなくては――という感じです。

野球はそこそこ諦めたとは言われても、ちょうど夏の予選が行われていたので立川球場や神宮球場に自主的に試合を観に行ったりしました。

「いつか本格的な野球マンガをアニメでやりたいなぁ」

とかこのとき思ったりもしたのでした。

野球の知識

僕は野球を実際にプレーしていないのである意味、文系野球好きという感じです。

野球の面白さというか凄いところは野球漫画で知ったことが多いかもしれません。

実際に野球漫画などは野球に関するエピソードを実際の話からアレンジして使っていたりするので、そういう話の元ネタを調べたりもしました。

あとあの頃はやたらと『Number』を読んでいたので、野球特集とかはついつい見てしまいましたし、一応、桑田・清原と同世代で、取手二が茨城だったこともあり、高校野球にはどことなく思い入れがありました。
(かといって全試合を常に見ているわけではなかったですが)

野球漫画には誇張表現も多く、あり得ないことも書かれてはいるのですが
個人的に『4P田中くん』(原作・七三太朗/漫画・川三番地)は好きで読んでいました。

原作の七三太朗さんが月刊少年ジャンプでやっていた『イレブン』とかも好きだったので七三太朗さんだったので読み始めた感じです。

背の小さな正直才能のない田中くんが名門野球部に入り、いわゆる努力でエースで四番になるという漫画です。

「ありえねえ」と思われるかもしれませんが、そこは漫画です。

この田中くん、体が異常に柔らかく、怪我をしにくいのでオーバーワークでも怪我ひとつせずに地力をつけていく。

精神的に甘い部分は東京都予選(あの作品は南北東京だったか)の決勝で田中くんのせいで怪我をさせた元エースのピッチャー・東山先輩が肩を壊してでも田中くんにエースとしての姿を見せるというところで「ああ、この漫画おもしれえ」と思って読み続けることにしたのでした。

思えばこの頃から野球漫画で書きたいものが野球の技術論ではなく、たぶんこうした人間の繋がりのようなものだったのかもしれません。

他にも『最強!都立あおい坂高校野球部』とかはキャラクターが際立ってて好きでした。
(田中モトユキさんの作品は『リベル革命!』がおもしろかったのでこの人なら間違いないだろと読んでいた感じです。『BE BLUES! ~青になれ~』も読んでますが)

この頃、『BLOOD+』を作っていたこともあり、野球マンガは僕の気分転換の材料ともなっていました。

そこで『ダイヤのA』に出会ったのです。

リベンジ

『ダイヤのA』は週刊少年マガジンは講談社との繋がりでずっと読んでいたので連載が始まったときは、勢いのある野球マンガが始まったなぁくらいの気分でした。

『もしドラ』をアニメにしたあと、どうも社内の仕事が窮屈で『ケータイ捜査官7』で一緒に仕事をした冨岡淳広さんから声がかかったこともあって『ダンボール戦機W』に脚本参加が決まり、積極的に他社の仕事を経験してみたいと思うようになった時期でもありました。

ここでI.Gで『図書館戦争』をやっていた古怒田健志さんに会ったのです。

『ダンボール戦機W』『ダンボール戦機WARS』と経験する中で、僕と古怒田さんは同時期に参加したこともあり、割と前後の話数で仕事をすることが多く、お互いに本のクセのようなものが見えていた頃でもありました。

そんな頃にI.Gで『ダイヤのA』のアニメ化の相談があってシリーズ構成を探していると話が持ち上がり、古怒田さんか僕かで打診しておくということになりました。ただ古怒田さんとは一緒にやろうみたいな話はこのときしていたと思います。

結果、I.Gでの制作は現場的に全ては無理でマッドハウスさんにお願いすることとなり、脚本と設定に関してはI.Gが担当、そこで『図書館戦争』でキャラクターをうまく描いた古怒田さんがシリーズ構成となり、脚本家を揃えるときに、僕はI.Gから谷村大四郎くんを、古怒田さんが宇田川貴広くんを推薦して連れてきたのでした。

この四人で4クールを回すということで始まったわけですが、
4クールどこじゃなくなったのは皆さんご存知のとおりです。

この辺の裏話は機会があればまたそのうちに。

僕にとってアニメ『ダイヤのA』はリベンジの機会でした。

好きなマンガだったし、部活感のある野球マンガをちゃんとアニメにできるのは今回が最後かもしれない――と思ったからです。

とはいえ最初からうまく書けたかというとそうでもなく、僕自身が僕の書きたい野球というものを書けたなと手応えを感じられたのは第17話「試合は楽しい」という話数でした。

原作どおりといえばそうなのですが、頭の中のアニメが脚本として再現されたというか、なんとなくうまくいった気がしたのです。

そこからはもう『ダイヤのA』にズブズブになっていきました。

まさか二年半+一年も書くことになるとは思ってませんでしたが。

野球のアニメって、野球の試合の面白さ以上に成長の物語であり、
登場人物同士のぶつかり合いから生まれるドラマであり、
そして結局は流した汗と涙と悔しさ、そして笑顔と達成感をどう描けるかが試されるわけですが(これは野球に限ったことじゃないですが)、
僕はやはり「人間」を書いていくのが好きなんだなと改めて思ったのでした。

次、また野球マンガのアニメ化で脚本を担当できる機会があるかはわかりませんが、機会があればやってみたいと思っています。

ではまた次回の余談をお楽しみに――!


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