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余談「透明なもの」

見えないものの表現

その昔、ある作品のシリーズ構成をしていたとき、
手持ちの資料の中に『透明な力』という書籍があった。

著者の木村達雄氏が師匠である大東流合気武術宗範である佐川幸義氏の言葉をまとめた内容の本である。

その中、佐川先生語録 第二部より引用すると――

私は肩に力を入れずに出す透明な力を使っている(実際に受けてみるとレーザー光線のように一本の線のように集中した力である。しかもすごく澄んでいてまさに透明な感じがする。筆者は佐川先生以外にこのような力を出せる人には今まで全く会ったことがない)。

とある。

この佐川先生は漫画『拳児』5巻第2話の中で合気道の佐上幸義師範と名を変えて登場している(出版社都合らしい)。

その中でも「私は鍛錬によってりきみを捨てたときに本当の力が出てくることを発見した。その力を仮に『透明な力』と呼んでいる」と書かれている。
副題も「透明な力」である。
原作の松田隆智氏が実際に取材し聞いたことが引き写されているのだろう。

一般的な合気道の認識というと、力のない人間が技術を極めてひょいと人を転がす場面などが思い浮かぶかもしれない。

ただこの『透明な力』を読んでいると技のみでそう簡単に会得し、できるわけではなく鍛錬の継続から自然に発生する技であり、教えられるものではなく感じてもらうしかないと書かれている。

この本を読んでいたとき『RD潜脳調査室』の構成をしているときで、その中にいるソウタという青年が、対義体格闘術を極めようとしているという設定があり、いろいろな格闘の本を読み漁っていた時期でもあり、この言葉がとても気になっていた。

なのでこのソウタが義体と格闘する第16話の副題は「透明な力 ism」とさせてもらった。

この頃、僕自身も『透明な力』ではないけれど、目に見えない透明なものを脚本で書けないだろうかと思っていた頃でもあった。

だからこの『透明な力』という言葉が棘のように記憶に残っているのである。

ト書き

僕たち、脚本家が使う表現の中で「ト書き」と呼ばれる形式がある。

柱、ト書き、台詞が脚本の文章表現の基本構造で簡単に書くなら
柱は時間・空間を示す「見出し」のようなもの。
ト書きは動きなど、映像表現として描くべきもの。
台詞は登場人物の発する言葉である。

このト書きは、小説の地の文と異なり、簡潔に映像となる要素で表記されるべきもので、登場人物の内面の動きなどはできるだけ説明しない。

主人公は怒った。

こう書くのは簡単だが、怒ったことによるなにを撮ればいいのかが曖昧である。

主人公は怒りの余り顔が真っ赤になった。

ここまで書けばなにを表現し、なにを撮ればいいのか具体的になる。
とはいえこれでいいわけではないのだが――。

唇を震わせる主人公、その声が怒りで静かに震えていた。

絵にならないことを書いているようで、表情含めて芝居の方向性が示されたト書きとなる。

実は自分でト書きを書くときに、時折、意図的に絵にならないことを書こうとすることがある。
自分の教え子たちには「絵にならないことは書かないように」と教えているにも拘らず、絵にならないことを書こうとしている。

雰囲気というか、透明な空気を描きたいのだ。

文章表現は言葉を使って端的にその雰囲気を描くことができるが、僕がしたいのはその言葉の連結が齎す空気のようなもので、まさに文章が纏う雰囲気でしかない。

透明なものを描いてみたい。

表現すべき場所は、みんなの頭の中にである。

だったら小説で書けよという話なのだが、脚本の持つテンポ感や様式でまさにその映像を見ているだけでなく纏う空気を感じてもらえたら最高だなと思っているのだが、なかなかできないでいる。

全ての表現に空気を求めているわけではない。
(できたら最高ですが)

ほんのちょっとした瞬間に流れるものでいいと思っている。

映像になったとき、絵と音の力もあるので僕だけの力というわけではないのだけれど、ほんの一瞬、脚本を書いているときに思っている透明なものが表れることがある。

僕自身が感じているだけなので他の方は違うかもしれない。

例えば、『ポケットモンスター サン&ムーン』
「メテノとベベノム、星空に消えた約束!」

中盤でのホクラニ天文台での早朝、大人たちの会話の場面がそうだ。

頭の中で映画いていた高所の張り詰めるような冷たい空気の中で、チリ一つない朝の光を見ながら大人ふたりが会話をしている場面がそれだ。

「あー、これが見たかったんだ」

という場面にはなったわけなのでスタッフに感謝なのだが、
それ以上に脚本を書いている段階でこの空気が生まれていたと思う。
(僕だけかもしれません)

たぶん描写の柱には「早朝」と書かれているので演出の方が読み取ってそれを再現してくれたのだろう。それ以上に、大人ふたりの言葉の優しさの中の厳しさみたいなものが僕のイメージしていたとおりに出たのでとてもよかったと思っている。

うまくいっただけじゃねーか!

――と思われる方も多いかもしれない。
でも脚本に書いていたとおりのイメージで映像化されることなど稀なのだ。

それは脚本というものが想像の源泉であり、渡された演出家やプロデューサー、アニメーターや役者たちが自分たちのフィルターを通して描く絵となるからだ。

昇華することもあれば、劣化することもある。

とにかくそのままズバリといくことは少ないと思ってもらっていい。

目の前で展開されていく映像や芝居に対して「なんか違うんだよな」と悩むのは現場の監督であって、脚本家はそれを渡した以上、そこに対する発言権はない。

だからまっすぐズドーンと思ったままのイメージで表現されたときは、雰囲気というものが持つ透明なものが描けていたのではないだろうかと思うのだ。

透明なもの

……透明なものとはなんなのだろう?

登場人物たちが紡ぐ感情の色かもしれない。
カットの連続が生み出す緊張感かもしれない。
執筆に没頭した自分の集中力が生み出す錯覚かもしれない。
思い込みかもしれない。

正直なところ、結論は出ていないけれど、鍛錬を怠らず書き続けていけば、いつか思うとおりの脚本が描けるのかもしれない。

とはいえ、
「はい、修正終わった! 送ろう!」
という日々なので空気を感じている暇はない現実の醸し出す緊張感や焦燥感は常に感じている強制力という『透明な力』であるけれど――。

以上、今回の余談でした。
また次回の余談をお楽しみに――!



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