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アントノフ2型とエチオピアンジャイアント

村上龍の『半島を出よ』を読了したので感想を書く。

読み始めて出てきた燃料気化爆弾というキーワードで「あっ」と声を上げて昭和歌謡大全集を思い出したので個人的に2倍楽しむことができた作品だった。村上龍の怪作『昭和歌謡大全集』を読んだのは高二の頃だったからもう8年も前だったか。その劇中に登場したイシハラやノブエといった名前は覚えていなかったけど、敵対するおばさんグループを殲滅するために調布市を火の海にしたラストシーンは圧巻で、俺の脳みそが燃料気化爆弾というキーワードとともにそのラストシーンをリプレイし、記憶を呼び覚ますことができた。

2011年の未来が舞台である本作品の世界観は同氏の傑作「五分後の世界」的にほんの少しだけいまと時間軸のずれた違う選択肢を選んだ世界………いや、もしかしたらただそういう事態に陥っていないだけで俺たちの生きる世界と全く同様なのかもしれないけれど、とにかく国際的に発言力や求心力をどんどん衰えさせている近未来の日本が舞台。世界は変わらず貿易をし、紛争を戦い、社会主義と資本主義の対立構造を危ういバランスで保っているが、そのバランスのなかで確実に日本という国は後退していた。軍事も外交もアメリカに依存した日本は経済という一本槍でのみ欧州アジアの列強各国と渡り合ってはいたが、経済力を失ったこの世界ではすでに日本はその唯一の武器を失い、存在を無視されはじめている。隷属させられるわけでもなく、侵略されるわけでもなく、ただただ無視をされる国。それがどういう意味をもつかを比喩的に示した台詞が劇中にはいくつもちりばめられていて、読んでいるこちらとしては全く比喩ではなく寒気がしてしまった。

そんな世界観の中で舞台は北朝鮮と日本を行き来する。まずは北朝鮮の参謀が南北統一への前進と日本への報復を両立させる作戦『半島を出よ』を立てたことが全ての発端だった。それは北朝鮮の南北統一の障害となっている対米強硬派を便宜上の北朝鮮への反乱軍に仕立て、日本へ武装難民として送り込むという計画だった。北朝鮮の兵士は強い。例えば日本やアメリカやドイツやそれ以外の資本主義国家は才能や技術のある人間をさまざまな分野で活躍させるが、代わりに北朝鮮は全ての天才や秀才やアスリートの素質のある優秀な人間をすべて特殊部隊員にしてしまう。徹底した教育と精神論と規律で育て上げられた人間は眉一つ動かさず人を殺し、鉄のような手のひらで人の皮膚を突き破れるようにもなる。そんな最強の特殊部隊員のなかでさらに抜きん出た能力を持ち、さらに日本語の教育を受けた9人はやすやすと日本の九州・福岡に潜入し、プロ野球開幕戦の福岡ドームの3万人の観客を人質にとる。それだけでもう日本政府はお手上げだった。警官隊を突入させる暇もなく、というか、どう対処するかを話し合うために首脳が集まったそのころにはもう、北朝鮮から何機もの輸送機が福岡に飛来し500余人の北朝鮮特殊部隊員に侵入を許していた。

ステルスという爆撃機がある。アメリカ国防総省がNASAなどの技術提供を受けて開発した爆撃用ジェット戦闘機で、レーダーに映ること無く約マッハ1で飛行し、地球の裏側にヒロシマに落ちた原子爆弾の500倍の威力を持つ核兵器を落とすことができる戦闘機。対して日本に潜入した北朝鮮兵士の乗ってきた輸送機はアントノフ2型という1947年に旧ソ連が開発した骨董品だった。航続距離はたった900kmそこそこだしどんなに頑張っても最高速度は時速260キロ足らず。だけどその船体はほぼ木製でできており、レーダーに映らないステルスと同じように日本の防空網をすりぬけることができた。

北朝鮮は貧しい。武器も、弾薬も、装備も、ゆうに50年も昔のものばかりだ。なのに果てしなく強い。けれどはかない。それは彼らが戦争を第一目的に編成された国家だからだ。外敵を殲滅し排除するための国家。そしてその軍事力を持って外交する国家。軍事力を失えば生きる意味すらなくなる。まるでそのはかなさは経済力が衰えた日本のようだと思った。それゆえその国に生まれ、生きる兵士たちは強くあろうとする。強い兵士が強い軍隊を作り、強い軍隊が強い軍事国家を作るからだ。そんな強さへ純粋な兵士たちは魅力的だった。キム、リ、パク、チャン、コン、ファンといったなじみの薄い名前の北朝鮮側の彼らにこれほどまでに惹きつけられたのは、純粋なものは暴力でさえ美しいからではないか。

目的を与えられ、役目を与えられ、そのためだけの生に純粋さを感じた北朝鮮兵士たちの一挙手一投足に対して、日本に居る人間の行動にはその複雑さや煩わしさを感じざるをえなかった。狼狽し、誤った選択をし、謝罪し、怯え、脅迫され、暴力に屈し、保身をはかり、へつらい、媚を売る日本人の姿は生々しくも醜くもあった。けれど、それが決して間違っているわけではない。俺たちが「生きている」ということは純粋でもイノセントでもなんでもない。つまり、お前たちが生きるということはそういうことだ。と、まるで突きつけられているような気がした。

この物語の中に純粋なものはもうひとつ現れる。それはたった0.6グラムで5,000人をも殺せる猛毒をもつヤドクガエルはじめとする毒虫たちであり、その存在に惹かれて虫たちを飼育をしてるシノハラという少年であり、少年をはじめとする少年グループたちだった。彼らは世俗から離れた詩人であり変人の中年、イシハラのもとに集まったはぐれものたちだったが、日本という世界観になじむことができなかった、それだけが彼らの共通項であり、そこ以外に彼らをつなぎとめるものはないはずなのに、なぜか彼らは共同体を形成していた。それはたぶん、北朝鮮兵士たちに感じたような純粋さを根底にした共有感覚だったのではないだろうか。

殺傷用ブーメランを操るタテノや、毒虫を育てるシノハラに、爆弾に異常な興味と知識をつかせないタケグチ、ハッカーのフェリックス、配管工のヒノ、テロリストに憧れるカネシロなどの面々は一見異常だがその根底にあるものは純粋さだった。この世は多数派にならない人間は得をしないようになっている。そんな意味合いのことを変人の中年、イシハラはつぶやくが、それは全くその通りだと俺も思う。

そのなかで毒虫を育てているシノハラの描写はとにかく強烈で鮮烈だった。ヤドクガエルへの思い入れの深さにも植物や爬虫類を生態系を考えずに生育する人間への皮肉にもシノハラが形容することばには全て美しさと破壊的なインパクトがあった。例を出せばイシハラという変人を形容するのにも、シノハラはエチオピアンジャイアントという虫のことを引き合いにだした。エチオピアにいる体長が40センチほどもある巨大なムカデで、現地ではあまりにも気味が悪い生き物なので神様だと言うことにしているとか、そういうようなことを言ったあとに「でもぼくは絶対に生きものとしてイシハラさんのほうがすごいとおもう」というように。

彼ら少年グループたちの個性を目の当たりにし、北朝鮮兵士たちの強烈なキャラクターと対比させながら、物語は少年グループたちと北朝鮮兵士による「戦争」を経て「日本を救う」方向へとレールを走らせて行く。『昭和歌謡大全集』のような突拍子無さで生まれたアイディアが北朝鮮軍に壊滅的なダメージを与えるプロセスや、これまでのどの作品でもみたことがないような綿密なリアリティで描かれる情景描写や、そこに至るまでのノドがカラカラになるような緊張を感じる心理描写など、下巻中盤からの展開はまさに圧巻で、続きはまたあとで…と読むのを中断することが結局できず下巻500ページを一気に読み切ってしまった。

読後、心地よい疲労感と満足感と高揚感とともに一片の空虚感を感じた。空虚感の理由を探して『半島を出よ』をgoogleで検索しようとして、アントノフ2型とエチオピアンジャイアントというキーワードが強く心に残っていたので先に調べてみるとアントノフ2型という木製の複葉機の画像はすぐにあらわれて、想像していたよりももっとスマートだったのであそこに完全武装の兵士が十数人乗るのはさぞ窮屈だろうと思うことができたのだが、エチオピアンジャイアントという世界最大のムカデは写真どころか名前すらも現れなくて、村上龍の創作なのか、それとも本当にいる生き物なのか結局わからないままだった。けれど、脳裏に浮かび上がった想像上のItyop'iyan Giantは黒光りする堅牢な甲殻を持つ全長40センチの大ムカデで、その無機的な質感と蠢く体節と節足と触覚が圧倒的な存在感を持って俺の脳髄を支配していて、そのイマジネーションを実物に向き合うことで押しつぶせないことに俺は身震いをした。その後、『半島を出よ』の書評も閲覧して回っていまに至る。さまざまな人の感想や考察を読んでみてもどうしても結局自分の取りこぼした「なにか」が見つからなくて、だから俺は久々にここの日記に書いてみることにした。これを書き、読み返すことでおれはその失くした一片を拾い上げることができるのだろうか、できたのだろうか。

(2008年02月09日20:11 mixi日記からの転載)

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