君に文化を伝えたい

「先生、『文化』って、なに?」
K君は私の顔を見るなり尋ねた。東京で塾の講師をしていた頃だ。初顔合わせの私に開口一番それを聞くのだから、小学2年生には余程の疑問だったのだろう。若き学生アルバイトは少ない人生経験から知識と事例を総動員して目の前の少年に応えようとした。が、当然と言うべきか、K君は今ひとつ納得していない様子だった。
故郷の金沢へ腰を落ち着けてから、ふとこの件をK君への申し訳なさと共に思い出し、改めて辞書を引いてみた。広辞苑にはこんな一文が載っていた。
―人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する―
あの時よりは少しばかり私も経験を積んでいる。2年前の闘病中に癒しになったのは友禅の色彩であり大樋焼の佇まいであった。リハビリがてら外へ出るきっかけをくれたのは茶の湯であり、謡であり、まつりの囃子であった。そもそも、都会で意地になっていた私に帰る決意をさせたのは、文化都市金沢の土壌であった。
辞書も教えるとおり、文化は人々の精神と日々の生活が創り出す。その産物は人々の心に時に潤いを、時に活力を、時に葛藤を与え、やがて日々に溶け込んでいく。
今なら、答えられるかもしれない。
しかし、しかしだ。何かが違う。そう感じて辺りを見廻してみる。実に騒がしい。聴覚的にも、視覚的にも、精神的にも。私がK君ぐらいの頃、金沢での観光客といえば、独自の文化や歴史的背景にひととおり理解のある落ち着いた老夫婦が穏やかに散策する姿だった。子どもながら自分もこんな老後を過ごしたいとの思いで見つめたものだ。そんな感慨に耽る瞬間は、今の金沢にどれくらい残っているだろう。
だからこそ、思う。金沢をテーマパーク化させている大人たちも、詰まるところ、K君と同じなのではないか。「文化って、なに?」と、もがいているのではなかろうか。過ぎたるは…とはよく言ったものだ。日進月歩の文明をもってしても、その明確な答えを、小学2年生にも、大人にさえも、与えてはくれないのである。
文明には文化の補佐役を買って出る責務もあると私は考えている。金沢は古さと新しさが絶妙に融合した都市だと言われる。強烈な個性を持ち無二の存在でありながら、先人への敬意と自然への畏怖がここにはある。故に、文化の息遣いを肌で感じることもできるのだ。そして、伝統と革新、無形と有形、文化と文明、それらの絶妙な均衡を保つこと、ひいては、肌で感じ感慨に耽る瞬間を失わせず、かつ取り戻すことが、現代を生きる我々の責務なのではなかろうか。
気づきを得、歴たる文化都市となった金沢はK君を温かく迎え入れるだろう。あの時の答えを、まちいっぱいに漂わせながら。
素敵な伴侶と共に穏やかに散策するK君。その姿に微笑みを送る私の子孫たち。未来の理想の姿を、古くて新しい文化都市の精神が教えてくれている。


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本作は某エッセイコンテストに応募し見事に落選した作品です。

筆者の落胆、疑問、憤怒、哀愁等々をご想像いただきながらご笑覧くだされば幸いです。

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