学問のすゝめNEO [日本人としての大前提篇]

ネ〜オ〜♪

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先日、今年の試験が無事に終了した。なにを隠そう、ってなにひとつ隠していないが、私は俗にいう資格検定マニアである。今年の戦績はこんな感じ。

4月 保育士試験(筆記) 1科目合格

6月 神社検定(参級) 合格

(以下、結果未発表のため自己採点等の結果)

10月 保育士試験(筆記) 1科目合格見込み

11月 金沢検定(中級) 撃沈

11月 家庭料理技能検定(3級・筆記) 合格見込み

で、バイト先でそんな話をしていたら、ついに言われてしまった。
「なにになりたいの?」 「どこを目指してるの?」

……「うる◯◯!(ピー)!(ピーーーー)!!」←自主規制
聞かれたから言っただけなのに。これまでも、言いたくても言わない人は何人もいたのかもしれないけれど。
余談だが、先の声の主(オバチャン)は以前、伝統工芸の職人をしていたらしい。しかし現在はそれとはまったく別分野のパート三昧のようだ。
人には人の考え方があるし、それぞれの暮らし向きのこともあるだろうから詮索はしないし、そもそも積極的に井戸端会議に参加する趣味も私にはないが、この人の言うこと言うことがいちいちどうも…どうもなんですよ。
聞いてもいないのに、自分のイトコが女性ながら税務署の副署長にまで上り詰めたとか、もうひとつの職場の同僚たちがしっかりした資格をとって上を目指してちゃんと頑張ってる、とか。
要するに人の手柄を自分の偉さのように喧伝するタイプ。
心から、そう心から、どーーーでもいい。
が、私も反射的にスマイル0円をばら撒いてしまうほど愛想はいいほうだし、相手が年配だから気を遣ってそれなりに丁寧な応対をしてしまう。で、相手はどんどん調子に乗る。頼むから数字の計算してる時ぐらい黙っててくれ、と思う。
先日、その人の作品がデパートに陳列されているのを見た。
正直、全く好みじゃなかった。
あぁ、そういうことね。妙に納得した。
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全くもって、くだらない。
何者であるかを肩書きで示すことが、そんなに大事なことだろうか。
武士や貴族の時代じゃあるまいし。
むしろ、何をしたか、何をしているか、どうありたいか、何をどう取り組んでいるか、どういう思いを持っているか…そういうことのほうが大事なんじゃないのか?
武士だって貴族だって、のんべんだらりだった人物は歴史に名を残していない。
そもそもあんただって何者でもないじゃないか。過去にちょっと工芸をかじっただけの、血糖値が気になる、おしゃべりでカン違いの、人の邪魔をするオバチャンに過ぎないじゃないか。むしろ、名を冠した芸術品を売り物にしている、その人品骨柄が取るに足らないなんて、名もない一般庶民の足下にも及ばない。
フツーの人間をナメてはいけない。
世の中、フツーの人間で成り立ってるんだから。
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とはいえ、私も当初は肩書き的なものが欲しくて資格や検定へのチャレンジをはじめた。
きっかけは学歴コンプレックスだった。
大手出版社への就活は全滅だったし、バイトあがりで就職した学習塾でも、部下や後輩はT大、W大、KO大…の巣窟。母校を知った途端に学生バイトたちは教室長の私をナメはじめた。まぁ、仕事ぶりで見返せなかった私の力量不足もあるが。
で、金沢に帰ってきて公職に就いて日々に忙殺されながら、20代後半特有の得体の知れない焦りに囚われて、「なんかしなきゃ」「なにか結果を残さなきゃ」そんな思いが日増しに強くなっていった。転職願望が膨らんでいたこともあって、今思えば、それらの気持ちを抑えるために行き着いたのが、資格をとったり検定を受けたりすることだった。
でも、そんなの母校にも学友にも、そしてがんばってきた自分に対しても、失礼の極み。なにより母校が大好きで誇りを持っている。それに目が覚めたときから、くだらないコンプレックスは捨てることにした。
先日、某イケメン俳優が出身大学を聞かれても「そんなにいいところじゃないから…」と答えなかったことでバッシングを受けていた。やっぱコイツ顔だけだったんだな(そもそも顔も好みじゃなかったが)、と思うと同時に内省した。より母校愛が強くなった。
だって、うちの高校から母校の大学へ行ったのは私が初めてだったし、それなりの成績で卒業もできた。そのためか、母校から母校への推薦枠が新たに出来たらしいことを、後で先生から伺った。私は後進に道をつけるという偉業を成し遂げたのである、ぐらい大げさに言っておこう。
皇居と靖國神社に見守られながら国文学と日本、そして東洋の文化を学びたいみんな、二松學舍大学へいらっしゃい。
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そんな始まり方をした資格検定マニアは、今では趣味と化している。私の場合、勉強とセットになった方が種々の情報を取り込みやすいらしい。ビジネスユースと見栄っぱりではじまったその勉強も、最近では日々の暮らしや大切な人の健康に役立つものを。いわゆる実学というやつだ。そのうち整理収納アドバイザーとか、なんとかソムリエとかに触手を伸ばしそうな気もする。比較的、男性的(中性的?)な考え方をしがちな私に、勉強が女性らしさを与えてくれるというのも不思議な話ではある。
新井白石をして「加賀は天下の書府」と言わしめ、高等教育機関の多さから現在も「学都」と呼ばれる金沢。その風土と愛郷心をして、私を学問好きならしめているのかもしれない。
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日本には「和魂洋才」という言葉がある。日本固有の精神を根っこに宿した上で、西洋の学問や知識を学び取る、という意味だ。
高校生の頃イギリスへ短期留学したとき、自分のあまりの「日本人としての未熟さ」に愕然として帰ってきた。それは世界を知って見聞を広げたことよりも、私にとって衝撃的な経験だった。
自国を語れない人間、自国に心からの誇りを持たない人間は、世界では相手にされない。母国への誇りという確固たる礎がなければ、真の国際人になどなれないのだ。その凝縮された教えを、若輩者はたった1ヶ月の海外経験で得ることができたのである。まさに、灯台下暗しを実体験したわけだ。これは私の人生において大きな財産となった。事実、「国家社会で有用の材となるには、和魂洋才でなくてはいけません」と、あの森鷗外も説いている。
だからこそ最近気になるのが、海外経験のある、あるいは海外をかじった「表現者」界隈。自称アーティストやクリエイターといった人々である。彼らの多くは海外をかじったとたんに日本批判に走る。(もちろん例外もいらっしゃる) ちょっと海外の今を歴史を、日本にはないものを見聞きした途端に、生まれ育った母国を、恩のある故郷を、したり顔でディスりはじめる。まるで、そうしなきゃなりません、とばかりに。そもそも国がちがうのだから、一方にないものが一方にあるのは当たり前の話なのだが。
しかも厄介なことに、自分は国際感覚をもって事にあたっていると自負し豪語している。マイノリティがカッコイイと信じ込み、アブナイ思想をさも芸術であるかのように自身の世界へ取り込み、政治家や権力者を批判し、それらを壊すことが存在意義であるかのような振る舞いをして憚らない。それを芸術の域にまで見事に昇華できているのなら見応えもある。が、昨今は兎角ピーターパンシンドロームに加えてミーハー感覚から抜け出せていないだけ、というのがあまりにも多いのだ。個人的に、現代芸術を見ると作者のマスターベーションに過ぎないな、という感想を持つことが多いのだが、そういった幼児性(「少年の心」や「永遠の少女」とは似て非なるもの)のまま停滞している人間が作っているものなら、そう感じさせるのも無理はない。それでいて周りに集まる同じ穴の貉とばかりつるんでいるのだから、よほどのブレイクスルーがない限り成長は見込めない。せっかくの才能と可能性を自ら狭めていることが残念でならないのだ。
「和魂洋才」その言葉を知ることさえできれば、すべてはうまく回り始めるのに。
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では、日本人が学ぶべき学問とはどういうものか。
ってことで問題です。
先日の11月23日はなんの日だったでしょーか??
勤労感謝の日は現代の祝日法における名前に過ぎない。
もとは新嘗祭(にいなめさい)。五穀豊穣に感謝する神事の日であり、宮中祭祀の中でも最も重要と位置付けられているお祀りである。
その祭祀を執り行う天皇陛下は世界最高の神官である。
日本の祝日は、そのほとんどが皇室に由来する。
そして、日本は世界最古の国である。神武天皇の建国から数えて2017年をもって2677年。以来、万世一系で皇統が受け継がれている唯一の国が日本なのである。つまり朝廷が何度も変わっているのに「中国4千年」と豪語する隣国は真っ赤な嘘ということになる。(中華人民共和国としては建国68年め) 二番目に古いといわれるデンマークでも1300年ちょっと。古そうなイギリス(UK)でさえ310年。
だから、国際的なプロトコールからいえば、天皇陛下の序列は常に世界最高位なのである。
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天皇の系譜、皇室の歴史、その大元である神話は、『古事記』と『日本書紀』に明記されている。どちらも正史(公的な歴史書)だが、『古事記』は国内向け、『日本書紀』は国外向けに書かれたものである。つまり『古事記』は日本人にとって必須のバイブルなのだ。
その『古事記』を通しで読んだことのある人はどのくらいいるだろう。そして、それが日本の正史だと学校で教わった人は存在するだろうか。
『古事記』を読めば日本がわかる。『古事記』の神話を読めば日本人としての誇りを持つことができる。神話の時代から現代に繋がる自国の系譜を、私たちは歴史書から学ぶことができるのだ。
ちなみに、朝廷が変われば言語が変わる。しかし日本の場合は文字が生まれてから一度も朝廷が変わっていないため、現存する書物はすべて日本語で書かれている。古語といえども、日本語は日本語。私たちは言語の壁なく、いつでも、いくらでも、自国の歴史を紐解ける幸運を手にしているのである。
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神話は単なる御伽噺ではない。国体の根本である。
国体とは国のかたち。その国がどんな国であるか、それを表すのが国体だ。
日本は万世一系の皇統の国である。
天孫、つまり神の子孫である神武天皇から今上陛下まで、ただの一度も男系の血脈が途切れたことのない、神が統べる国なのである。
だからこそ、現行の日本国憲法第1条も「天皇」についての記載からはじまっている。
どの国も憲法第一条には、その国の国体が明記されている。アメリカは「自由」。フランスは「平等」。中国は「共産党の一党独裁」。イギリスの憲法は不文律ではあるが「議会」。(そもそもUKは議会の合意によって成立、建国に至っている) ね、納得いくでしょ。憲法から、その国のかたち、その国が一番大事にしているものを理解することができるのである。
さて話を日本に戻すと、私たち日本人は天孫降臨組、ひとりひとりが神の子孫である。先祖を遡れば、皇室と繋がりのない日本人は一人として存在しないからだ。数学が得意な人は計算してみてほしい。
神の子孫である神武天皇から一名たりとも例外なく男系男子(または一代かぎりの男系女子)によって血脈が繋がれてきた天皇を「家長」とし、その天皇が大御宝(おおみたから)とお呼びになる、同じく神の子孫である日本国民。その皇室と国民が手を携えて八百万の神々を称え、四季のある豊かな自然に包まれて二千六百年余の長きにわたり穏やかに過ごしてきた「和」の国。それが日本の国体、すなわち国のかたちである。
かつて「日本は神の国」発言でバッシングを受けた(同郷の)政治家がいたが、(彼の普段の言動には問題ありこそすれ)この発言自体はなんら間違ってはいないのである。それをバッシングするほうが日本人ではない、ということだ。
天皇の祖先である天照大御神は太陽神。その太陽を象った日の丸と、天皇を称える古歌である君が代を尊ぶのも、日本人なら当たり前の話である。
それに、悠仁親王殿下がお生まれになった時点で、秋篠宮家が将来の天皇家となるのは確定した話。愛子さまが天皇になれないなんてカワイソウ、がいかに愚かな意見であるか、ここまでの話でご理解いただけると思う。ここはイギリスではない。日本だ。
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神話を信じられないというなら、ためしに世界へ向けてそれを発信してみるといい。マリアの処女懐胎なんてあるわけないでしょ、と口走ったなら、あなたの命の保証はできない。それはキリストの存在自体を否定することになるからだ。処女で妊娠したからこそ、キリストは神の子なのだから。お釈迦様だからってお母さんの脇腹から生まれるわけないでしょ、も同じだ。したがって、神の子孫が現代にいるわけないでしょ、も同じ理屈である。それは天皇の否定、すなわち日本国の全否定を意味する。聖書の話や教会での説教はすんなり信じられるのに日本の神話や万世一系を信じられないとか、そもそも神も仏もない、なんて人は、自己矛盾、自らの論理力のなさを激しく疑ったほうがいい。
事実と真実は必ずしもイコールではない。(←ここ大事) 人知を超えた神通力を真実だと信じられる崇高な心、それを信仰心と呼ぶ。日本の根本はここからはじまっている。すなわち、その根っこのない人間は、真の日本人ではない。根っこがないから打たれ弱くなるし、誇りを持てないことは自分に自信が持てないことに直結する。生き方に迷っている、心が安定しない、毎日が楽しくない、そんな人こそ腰を据えて日本を学ぶべきだ。
こういったことを学んで理解できているからこそ、日本人であることに誇りを持つことができ、日本を心から愛することができ、日々を穏やかに豊かに過ごすことができるのだ。
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では、なぜそのことを私たちは学校で習っていないのか。
それは先の大戦後、GHQが、戦勝諸国が、そして世界が、日本を恐れたからに他ならない。
世界で最も歴史のある国、日本。
世界で最も美しい国、日本。
そこに住まう日本人の高潔さ、勤勉さ。
家長である天皇と、神が創ったこの国土を守るためなら庶民でさえも竹槍で最新兵器に向かっていくような、火事場のど根性。アメリカ人から見れば、日本人は頭がオカシイと見えたことだろう。なぜ他人のためにそこまで無茶をできるのか。大統領制の国の民には到底理解できない感覚だろうと思う。
その底力を恐れたからこそ、まるで真綿で首を締めるかのように、ゆでガエルにするかのように、戦勝国は日本の・日本人の力を削ごうと、あの手この手の100年計画を使ってきたのだ。それがいわゆる戦後レジームである。
ロンドンのトインビー・ホールにその名を冠す歴史学者のアーノルド・トインビーは
「12,3歳までに神話を学ばなかった民族は例外なく滅びている」と説いた。
マッカーサーがそれを意図したかどうかはわからないが、日本での神話教育を禁じるという作戦を実行に移した。加えて、天皇の最も重要な責務である祭祀を、公務から外した。祭祀とは国家の安寧と国民の幸せを祈願するものであり、古から代々の天皇に受け継がれ守られてきたその行事は年間に及ぶ。昭和帝、今上帝はこの国を守るため、「私的行為として」現在まで宮中祭祀を続けてこられたのである。
アメリカをはじめとした諸国は、日本人に日本の神話を教えないことで、日本人の誇りを70年余にわたって削ぐことに成功したのである。
それだけではない。
GHQは次代を担う子どもたちの教育に悉く介入した。特に、日本人に英語を教えることをためらった。勤勉な日本人に英語を勉強させたら、途端に自分たちを含め世界を乗っ取られると危惧したからである。だから我々はディスイズアペンなどと使いもしない英語を習わされ、ユトリやらサトリやらが生みだされたのである。ユトリくん、サトリちゃん、君たちは戦後レジームの被害者なのだ。
歴史教育に関しても同様だ。私たちはいかに日本人が残虐で世界中で悪の所業をし尽くしてきたかを教えられた。しかし、先の大戦が日本からの侵略戦争ではなく、致し方のない防衛戦争であった証拠は、次々と明らかになり世に出てきている。「リメンバー・パールハーバー」と言われるが、それは「リメンバー・ハルノート」「リメンバー・ABCD包囲網」でたちどころに論破できる。第一、一般人を巻き込んだ時点で、戦としては失格なのである。古来から戦いに赴くのは神か武士か軍人かという暗黙のルールがあった。しかも日本は神代の昔から、多くの争いを話し合いで解決してきた国だ。それこそ『古事記』を読めばわかる。その日本人が果たして侵略や強奪といったヒドイこと、ズルイことを考え実行に移すだろうか…そういう疑問が生まれなければ、日本人としておかしいと言わざるを得ない。
秀吉の朝鮮出兵に関してもそう。あれは秀吉の野心であるかのように私たちは習ったが、最近の研究によって、スペインによる侵攻からの防御であったことが明らかになりつつある。要するに日本にとってみれば、元寇の再来を恐れて、防衛のために諸国の大名総出で戦ったことになる。日本が自ら侵略戦争を起こした歴史など、ただの一度もないのである。
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現代においても、それは同じ。無法に侵略してくる隣国諸国から、この尊い国土と人民を守るために、それを可能にする法を整備しようと言っているだけである。改憲イコール戦争、極めて浅はかな考えとしか言いようがない。
驚くことに、日本が焦土と化す虞を、一般人に植え付けようと全国行脚している自称自衛官が存在するらしい。その人物は陸自所属だそうだが、事実だとすれば愚の骨頂である。島国である日本の防衛最前線は空自であり、まずは空から侵入者を駆逐する。そして海自が海からの侵略者を駆除。空と海で、外からの攻撃に対する防衛はほぼ完了する。しかも彼らの錬度は世界トップで、米軍の精鋭をもって「すごすぎる。あいつらクレイジーだ」と言わしめるほど、日本の自衛隊の実力は世界にとって脅威なのだという。つまり陸自が活躍する場面は最終決戦であって(国内に既に入り込んだ勢力が暴れ出す場合は話が別だが)、空自・海自を無視する言動というのは、エセ自衛官以外のなにものでもないし、そういう意見に「いいね!」している衆愚もまた、同罪だと言えよう。
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今日び騒がれているその他の様々な問題も、日本人の原点に立ち還り、少しの論理力と、自ら調べてみる行動力があればすぐにその矛盾に気づけるものばかりだ。
日本が借金まみれはウソだというのは簿記3級どまりの数字に弱い私でもわかる。国債発行し過ぎ云々を吠える皆さんには、バランスシートの概念から教えてさしあげよう。
南京大虐殺が事実だと思っている人は算数から学び直したほうがいいし、慰安婦問題とやらがデマだったことはデマ元の朝日新聞が既に認めて謝罪している(その後も性懲りもなくあらゆるデマを拡散し続けているが)。国会中継を通しで見れば、何が真実か、時間と税金を無駄にしているのはどの勢力か、明らかになる。テレビや新聞で必要以上に時間を割いているテーマにどんな裏の思惑があるのか、ググればいくらでもわかる。もちろん、ネットの情報はまだまだ玉石混淆だが、それを取捨選択して正しい知識を身につける訓練をする努力は、日本人にならできるはずだ。最近は一般人でも玄人はだしの熱心な研究家が多いから、テレビや三流新聞で垂れ流される情報とは比べものにならないほど、はるかに有益な情報で溢れている。
それに、日本で凶悪犯罪を起こす犯罪者の殆どが在日外国人であり、その名前をマスコミは通名でしか報道しない。そのマスコミは在日外国人で占められていると言われる。重宝がられ、もっともらしいことを日本人に啓蒙しているつもりのジャーナリストやコメンテーターの正体だって同じことだ。毎年騒がれながらもノーベル賞を獲れない作家がいかに海外で日本をこき下ろしているか、それを知れば受賞できないのも自明である(ただし最近のノーベル賞財団はおかしな方へ向かっているのでまさかの可能性もあるが)。ヘイト反対を訴えるならば、某市長も言うように、日本人へのヘイトも訴えるべきである。
つまり、日本を・日本人を悪者にしたい勢力が戦後からずっと国内外に蔓延っているということを、我々は頭に入れておく必要がある。
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何度も繰り返されてきた忌まわしい言いがかりのように、日本人が疑われるようなことがあったら、私たちの祖先が、高潔な日本人が、果たしてそんなことをするだろうか…まずはそう疑うことから始めてほしい。疑問を持つことから、学びは始まるのだから。その学びを妨げる思惑に、屈してはならないのである。
学力の高い層にもそうでない層にも等しく純粋な人たちというのは存在して、前述の勢力や思惑はその純粋な人たちを標的としている。それが許せないのだ。
十把一絡げになりがちな風潮、これも問題だ。
昨今の大相撲問題において、外国人力士を排除しろ、の声。親元を離れ、日本の伝統そのものである角界に入って、厳しい稽古に耐え、伝統的なしきたりを守り伝え、20代そこそこの若者たちが一所懸命に、郷に入ったからには郷に従おうとしているのである。日本に憧れた彼らは、血脈は違えども、魂レベルで日本人になろうとしているのだ。そういう人たちを真の日本人と呼びたい。だから私は苦しい時期をずっと一人横綱で引っ張ってきてくれた大横綱に「モンゴルへ帰れ!」と罵声を浴びせた人物を決して許すことはできない。それこそ日本の恥だ。まぁ、そもそも声の主は日本人じゃなかったのかもしれないが。
その伝統芸道の世界にも改革を、という声があるが、変えりゃいいってもんじゃない。芸道の世界には「守・破・離」という教えがある。まずは伝統を守り、理解できたら応用してみて、それができてはじめて師匠のもとから旅立つことができるのだから。
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とまあ、こういったことを言っていると、やれ右翼だネトウヨだと言われることもある。
先日はSNSで「あなたみたいな人がいるから日本が良くならない」というリプが飛んできた。
その人物のプロフィールを覗いてみたら、「日本はソビエトである」などと高らかに宣言していた。…うん、関わらない方がよさそうだ。
「日本が大好き」「日本を愛している」「日本人であることを誇りに思う」「日本をもっと知りたい」「真の日本の姿を学んで後世に伝えていきたい」
それを右翼やネトウヨというのなら、どうぞどうぞ。えっ褒め言葉ですよね?甘んじてお受けしますよ。
現代日本において、いわゆる右対左の割合は7:3と言われている。先ほどのSNSに対するフォロワーさんのコメントの割合も、ほぼ当てはまっていた。また、前者には文脈を理解し行間を読むことができウィットに富んだ人物が多く、心温まる応援や秀逸なツッコミが数多ある中、後者はただただ口汚く罵るのが上手な方ばかりで、これも興味深かった。さらには後者の特徴として、人には「寛容さ」「多様性」を求めることが挙げられる。自らは日本を内部から転覆させようとする勢力に意識的無意識的問わず加担しているのにもかかわらず、だ。
愛国心と聞くとアレルギーを起こすような人たちはまず、ナショナリズムとパトリオティズムの混同を解消することから始めたほうがいい。で、ナショナリズムが多義的であることも理解したほうがいい。
それでも日本がイヤなら日本から出て行けばいいし、日本人であることがイヤなら日本人をやめればよい。それだけの話だ。
本来、日本人は勤勉な民族。学ぶ意欲が1ミリもない者は去ってよろしい。
そもそも右翼とか左翼とかいう言葉は日本発祥ではない。フランスの話だ。しかも、議会でどこに座っていたかというだけの。だから右翼だネトウヨだというものは本来は存在しないのだけど、とにかく血を流すことで改革しようとした学生運動のような勢力が数十年前に台頭し、その残党が政治の世界にも身の回りにも今だ生き残っている。そういう意味では、左翼はあっても右翼はないのだ。(極右はあるが) 街宣車右翼だって右翼を騙った左翼だし、任侠道をヤクザやチンピラと混同するのは筋違い。そんな左側から見れば、真ん中は右に見えてしまうのだから、仕方がないとも言える。
日本を愛している。日本人であることが誇りである。そう自信をもって言えることこそ、中道であり正道である。そこには右も左もない。思想ありきではなく、大切なものとはなにかを自らの中心に据え、努めて論理的に建設的に思考すれば、自然とそういう思想やイデオロギーに辿り着く、ということに過ぎない。
最近では「右翼か左翼か」と聞かれたら「主翼です」という答え方があるらしい。オシャレだな。よし、それでいこう。
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その、甘んじて右翼・ネトウヨの呼び名を受け入れている、日本人ど真ん中の人々を筆頭に、日本の・日本人の誇りは取り戻されつつある。
100年計画の完成を待つ前に、日本人は覚醒してしまったのである。戦後レジームを払拭する動きは既に始まり、佳境に入りつつあるのだ。それにはネットの普及を無視しては語れない。誰でも、片手でボタンを押す行動力と、日本人としての判断力を持ち合わせるだけで、いくらでも学べる機会が常に開かれているのである。
つまり、現代は日本人がますます賢くなれる時代。機運に乗り遅れてはいけない。
冒頭で日本はフツーの人間で構成されていると述べたが、日本におけるフツーの人間とは、学ぶことによってより上や前を目指すことができ、和の精神をもって仲間と共に生き、自らの力を活かすことのできる、そんな人々のことだと考える。その特徴を表すのによく使われる単語が「勤勉だ」という形容動詞だ。
上を目指して学問を志す人をこそ、フツーの日本人と呼ぶのだろう。
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学ぶことは人だからこそできること。その喜びに私は浸っていたいのである。あぁ、なんて人間的活動を謳歌しているのだろう。自賛。
ちなみに「自賛」とはもともと、自分で書いた絵に自ら詩や歌を付け書きすること。古美術や茶道に心得のある人なら、ピンとくるはずだ。そこから派生して、手前味噌という意味の「自画自賛」が生まれた。こんな言葉の由来を知っているだけで、日々の生活にも潤いが出てくるし、世界も広がる。
先日受けた金沢検定では撃沈した。合格率ヒトケタ台の難関とはいえ、まだまだ学びの浅いことを思い知らされた。去年は初級に合格したが、初級といえども、テキストだけで太刀打ちできるような試験ではなかった。美術館や博物館に足を運んで得た知識が合否を分けた。日々の取り組みが成果を挙げた好例だと言えよう。「日々のたしなみ」これが大事。私が最初にはじめたブログのタイトルでもある。自賛。
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学びは身を助く。
なにも資格に限ったことではない。
学校で教えてくれないのならば、自ら学ぶ必要性が出てくる。どれだけ自ら行動して吸収したかということが、各人の成長度合いと比例するわけだ。
ゆとり教育がはじまった時、学習塾には志の高い親子が集った。危機感の高い親御さんは我が子の行く末を案じていた。もちろん、世のなか学力が全てではないが、基礎学力が全てに影響するのもまた事実である。
そして、あらゆる場面を想定した広範な知識と経験。これも重要だ。昨今バッシングを受けがちな公務員だって、ゼネラリストであらなければならない彼らは非常に勉強家だ。地方公務員の場合それは顕著で、2,3年で全く畑違いの部署に異動させられ、それを定年まで続けなければならない。節目ごとに昇任試験だってある。常に勉強を重ねないと上へ上がれないのだ。だから公務員の給料は減らすべきではないと思う。(ちゃんと仕事をしてくれれば、の前提だが) 「公僕のくせに」をテレビで連呼し、公務員=能無しでサボりの権化、の印象をお茶の間に植え付けた、み◯もんたの責任は重い。
そしてそして、例に出すのも畏れ多いが、皇室の皆様は実に広範な知識をお持ちでいらっしゃる。それは、天皇そのものが「日本を想起する存在」であるからだ。桜を見れば春を想起するように、天皇を見れば日本を想起する。「象徴」とはそういった、深く重い意味を持つのである。
そんな日本国民としての意識を持っているからこそ、非常に腹立たしかった出来事がある。ビジネスマナーのインストラクター資格を取りに行っていたときのこと。私のプレゼンを講評する際、講師が「言葉遣いが丁寧すぎるんだよね。ふつう、そこで「ございます」なんていうか?」嘲笑気味に声を大きくした。他の参加者も、声をあげて笑った。私はマナーを習いに来ているのではないのだろうか。この人たちは、例えばもし、急に陛下に拝謁する機会があったら対処できるのだろうか。しかもマナー講師を名乗る者が公衆の面前で人を笑い者にし、習いに来ている者もまた、一斉に同調するだなんて。全くもって納得がいかず、講師に直接、憤りと疑問をぶつけた。あなたのようなマナー講師にはなりたくない、とも同時に伝えた。するとその講師はこともあろうに、NLP(神経言語プログラミングを用いた心理学)とやらで問題を解決しようと試み始めた。心を尽くして謝ってくれさえすれば、私の心はたちどころに収まったであろう、それなのに。しかも「私のようになりたくないなら、別にそれでもいいよ」とまで吐き捨てた。「その程度」の人間は多いのだと悟った瞬間であった。
とはいえ、私も陛下に直接お言葉をかけていただいた際には「ははは…はいぃ!!!」とお返しするのがやっとだったのだが。
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「必要無駄」という言葉もある。人生、なにが役立つかなんてわからない。
かのスティーブ・ジョブズは、家庭の事情により大学を退学せざるを得なくなった。ではその日まで好きな授業をとろうと、カリグラフィー(飾り文字)の授業を聴講することにした(一説では退学後にもぐりで聴講した、とも)。その経験が、あのアップル製品の誕生に一役も二役も買うことになったのである。
イライラしかしない仕事だってひとつの経験になるし、なかなか来ない人を待っている時間にだって、普段見られない光景を目にしたり、心に浮かぶいろんな感情に気づいたりもする。それらを次のステップへの判断材料にできるかもしれないし、人への助言に役立てられる瞬間があるかもしれない。
人生に、無駄はないのだ。
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さあ、これだけ言えば冒頭のオバチャンも理解できるかな。
もちろん人間だから感情に左右されるし、計画はあくまで計画だし、人生なんて思い通りにはいかない。
全力でバカをやる大人は大好きだし、理想の男性像の究極形は高田純次だし、優しいウソや豊かな冗談ならどんどん言えばいいと思う。でもそれをウソなのか冗談なのか判断できる力は必要だよね。だから根っこはしっかり張っとこうよ、って話。
学ぶことによって道が開かれる。学ぼうとする姿勢によって事態は好転する。それは確かなんだからさ。
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ネ〜オ〜♪(←気に入ってるらしい

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