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東京にもちょっこし雪降りゃいいがに。

「東京にもちょっこし雪降りゃいいがに」
「ねぇ〜!!」
井戸端会議でオバちゃんたちが、銭湯でオッちゃんたちが、語気を荒げる。
初雪が散り始める時期、いや、ほぼ通年、金沢で聞こえる苦言である。

「こっちの雪、少しは東京いきゃいいがにねぇ」
「ちょっとぐらい降りゃあ、私らの大変さもわかるやろ」
「ちょっこし降っただけで、東京もんはいっつも大騒ぎしとるわいね」
「ほんでも、東京の人ら慣れてないさかい、降ったら降ったで可哀想でないかいね」
「なーん、雪すかしの大変さわかりゃいいがや!!」

その声を逆撫でするように、観光客は文句タラタラ金沢の街を闊歩する。
金沢人は日々の生活の中で傍若無人に晒されるようになった。
いち金沢人の私も、オバちゃんオッちゃんの意見に心底同調する。

「こんなに降るなんて聞いてないよ〜」
-アンタがちゃんと調べてこないからだろうが。
「道ずぶ濡れじゃん!」
-雪を溶かすための水ですからそれが無ければアナタたち滑って転びますけど、いいんですか?
「新潟では道路の下に温熱引いてあって、ちゃんと整備されてるわよねぇ!」
-なら、そんなに快適な新潟から一歩も出なければよろしい。
「さみー!」「うわっあぶねっ!」「なんだよ天気わりーよ金沢!」
-やかましいわこのぬるま湯育ちが!!
イヤなら今すぐ帰れ!!そして二度と来るな!!!

しかも、しかも。
そういうのに限って、スニーカーで来やがる。
冬の金沢に。
雪の予報が出てんのに。

いや、もうさ、
バ◯じゃないの??

元妻のモノマネをする明石家さ◯まのあの調子で、全力の
「◯カじゃないの??」が
心中で炸裂する。

雪国を舐めるな、
金沢をナメるな!!

半袖にサンダルで富士山に登る観光客を思い出す。
バカが無駄な事故を増やす。
アホのせいで無駄に税金が使われる。
ダラに限って人をダラにするから一向に直らない。

天気すらコントロールしようとする、自分は何様だと思っているのだろうか。

雪国出身の者にとって、ブーツを買う時に靴裏を見て選ぶのは当然の習慣だと思っていた。
しかし、関東で売っているブーツの底の、なんとツルツルなこと…
関東での学生1年め、雪の予報にブーツを買いに行ったら、あまりのツルツル加減に愕然としたことがある。
そうか、関東の人にとって、ブーツは防寒とオシャレ用でしかないのだ。
いや待って。
雪の予報出てたよね??
慌てて実家に電話して、ゴム長でもなんでもいいから送ってほしいと頼んだ記憶がある。

それから十数年後、たまに降った雪の中を歩く東京人の、テレビに映る姿に唖然とする。
学習能力ゼ〜ロ〜♪
危機管理能力ゼ〜ロ〜♪

東京は人種のるつぼ。雪国出身者も多いはず。霞ヶ関にだって、豪雪地帯出身の職員は少なくないはずだ。なのに。
なぜ毎年毎年、少しの雪で東京の交通は麻痺するのだ。
なぜ雪の上をスニーカーや革靴で歩こうとするのだ。
なぜそんなに薄着で歩くのだ。
なぜ手袋もせずに外へ出るのだ。
なぜ今更“雪の歩き方講座”みたいなものを放送しているのだ。
なぜ、何故…

数年前、学生の集団が大雪で山荘に足止めを余儀なくされたというニュースがあった。
ヘリでの中継を見て、すごくすごく不思議だった。
学生が大勢、つまり若くて体力のある人間が多数、男子も多いはずなのに。
なぜ誰一人出てきて雪かきをしようとしないのだろう。
少しでも、はやく助かるために動こうとしないのだろう。
なんで待ってるだけなのコイツら?!

雪国出身者にこそ、自ら道を切り拓く力が備わっているのではないか。
そう自信を持った瞬間でもあった。

そして、そういう時こそ、日頃の様々な有り難さ-自然の恵み、物流や交通の便利さ、ライフラインの充実などなど-に感謝する機会なのではないだろうか。

厳しすぎると反論する方には、こう尋ねたい。
あなたは、夜中に、早朝に、ドスンと落ちる屋根雪の音で起きたことがありますか?
玄関の外の景色にげんなりしたことがありますか?
玄関から出られなくて2階から出入りしたことがありますか?
やむを得ずソリやスキーで学校に行ったことがありますか?
しもやけに悩まされたことがありますか?
あちこちに痛みを抱えながら、「家が潰れちゃう」という焦燥感で雪おろし・雪かきに身体に鞭打ったことがありますか?
「北陸の人なら雪に慣れてるんでしょ」「金沢の人は寒さなんてへっちゃらでしょ」そんな言葉に傷ついた経験はありますか?
沖縄や奄美や小笠原の方に「台風に慣れてるんでしょ」が失礼だと理解できるなら、なぜ雪や寒さに対しても同じように考えられないのだろうか。

わざわざ東京から雪の取材にくるマスコミもそう。
わざとらしく驚き、荒らすだけ荒らしていく彼らは、雪かきの手伝いくらい少しでもしていったのだろうか。

とはいえ、若くて体力のある雪国出身者でも、“使えない”のは存在する。
我がまちは多分に洩れず高齢化真っ只中。
御歳65オーバーのいつも決まったメンバーが雪すかし(=雪かき)に精を出している。
そんな中を、この通り唯一の若い健康な男子が間の抜けた挨拶だけし、礼を述べるでも労いの言葉をかけるでもなく、自分の車の周りだけすかして、さっさと出社する。

通りの一番奥に住む家族は、自分たちの車が出せないと他家へ文句タラタラ。
お宅が一番の大家族なのですから総出でしていただければ早く片付くと思うのですが…
さすがに今回の豪雪では皆さん会社や学校を休み、車を出すことはなかったが。
古都の水面下ならぬ雪面下ではそんなご近所トラブルも勃発している。


そんな中、母の声が飛ぶ。
「アンタは家ん中入っとろ!
またひどなるぞ!だめやって!」
乳がんサバイバーもうすぐ3年め。まだ体力100%とはいかないのが、とても、とても不甲斐ない。
母ももともと丈夫な人ではないから、少しでも役に立とうとこちらも自身を奮い起こそうとするものの、母の愛の鞭の前では、無理はできない。
その分いつも以上に家の中のことを、と張り切って、雪すかしから帰ってきた母と二人、茶の間で大の字になる。

そんな母の手前では不謹慎かもしれないが、この雪の真っ白さには心躍らせる力がある。
雪すかしへの“げんなり感”以前に、童心や清新といったものを思い起こさせてくれる。

私にはウィンタースポーツの趣味はない。
雪国に生まれながら、何故わざわざ更に大雪を見に行こうとするのだろう、という素朴な不思議さからだ。

私には雪山登山の趣味はない。
山は仰ぎ見るものであって登るものではない、という宗教上の理由と、
ましてや雪山なんて、という危機管理意識からだ。
(新人研修の雪山登山で遭難しかけたトラウマもあるのだが、その話はまた改めて)

ただ、まっさらなこの白さを見ていると、わざわざ見たくなる人の気持ちもわかる気がする。

そんな力を、雪は持っている。

雪が降るから水が美味しい。
美味しい水があるからたくさんの実りがある。
その実りを、都会も享受している。

雪があるから命がある。
地方があるから中央がある。

だからこそ、雪を、雪国を、自然を、地方を、
ナメてはいけない。

わかったか、ぬるま湯ども。


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