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四国の風⑦(過去ブログ記事転載)(2005年12月)

今から25年ほど前。19歳の夏と20歳の夏の2回に分けて、四国八十八箇所を歩いて回りました。43日間。自分の人生の基点になったとも言える一人旅。過去のブログ記事にも残っていますが、こちらにも念のため、お遍路を回りながらつけていた日記を、アーカイブとして残しておこうと思います。誤字脱字もありますがそのまま掲載しておこうと思います。


「1999年3月21日」の日記

今日やっと結願を迎えるだろう。
八十八番を打ち終えること。いつしか当初の目的はそのひとつの情熱に摩り替わっていた。
朝七時、朝食を頂く。しかし食事が喉を通らない。吐き気がする。
夕食と変わらずに豪華な朝食は重荷となっておしかかる。
食べ残すことは失礼にあたるので時間がかかっても食べきろうと思うが体が言うことを利かない。一言いって、少し残すことにした。
悪いと思ったが本当に食べられる状態ではなかった。
そこの女将さんは心配して胃薬を用意してくださった。
七時四十五分冨士屋を発つ。歩いて十五分も発たないところに第八十六番志度寺があった。すこぶる調子が悪い。
志度寺では朝の掃除がなされているところで慌しい雰囲気であった。
住職の方に納経をしてもらい、その足を駆って次へ向かう。
次の寺は残り二つ目となる第八十七番長尾寺。どうやら昨日の雪の影響であろう、風邪をひいたのかもしれない。頭痛がひどくなってきたし、歩くと吐き気を催す。長尾寺までの距離はおよそ7キロとそれほど遠くではないが、体が重くてどうしても先に急ぐことができない。
千鳥足で進むこと長く、ようやく到着間際。途中まで見えていた電車も脇にそれていき、やたらに静寂が支配する場所をとおり、いかにも寺前町という感じのところの奥に第八十七番がある。

第八十七番長尾寺。
寺に入るや否や、やけに明るい雰囲気があたりを覆う。そこではツアーの人たちでごった返しており、また警察官が交通安全のキャンペーン活動を行っておりまさしくそこは残り寺を一つとのこしての違った意味でのお祭り騒ぎのさまを呈していた。納経にはまたかなりの時間を要する。
この体にはかなりこたえるものだ。

調子が良くなったとは到底言うことはできない。
休憩所みたいなところがあり、そこで少し休ませてもうらことにする。
周りはバスで回られているツアー客ばかりであるので少し居心地が悪い気がするがそんなことはかまっていられない。警官の方が心配して声をかけてくださった。薬を下さるということなので警察署までパトカーに乗せて連れて行ってもらうことになった。
警察署について薬を頂く。
そこで少々休む。お腹の調子がかなり悪い。昨日もこんな状態であった。
ここまでやたらに雨が多かったのでそのためであったろう。

警察署をでる。次は結願寺である、第八十八番大窪寺。
ここまでの道程はひたすらに長かった。
そしてここからの道のりも厳しいものになる。長尾寺からは延々と穴吹の方に向かって登り道が続くことになる。
何箇所か遍路道と車道との選択肢があるのであるが、自分は一番安全で距離もそれほど遠回りにならない中間のコースを取る。
登り道が多く、この体ではかなりきついものがあるが今日中に八十八番につかざるをえないので進まざるをえない。
歩き遍路の方が一人追い抜かしていった。

前川ダムというところを越えたところで本格的な女体山登り口が始まる。
途中までは比較的、坂は緩やかなものであるが、進むにつれてその坂は険しさを増していく。どこまでこの苦境は続いていくのか。果てしない登りの連続がすでに限界に近づいているこの体に猛然と襲い掛かる。
およそ1キロほどで150メートルほどの標高差がある。太郎兵衛館というところを過ぎると、更にこの道は険しさを増していく。驚くほどの坂道はどこまでも続いていった。
あの横峰寺のような坂であった。周りは登っていくにつれて昨日降ったであろう雪で覆われて白い世界が広がっていく。冬の雪山をのぼっているような感じさえする。開けた空間に出た。
上を見上げれば太陽が照っている。山の頂上が見えたとき自然に足は早くなってしまう。そしてすこしばかりの無理も犯してしまうのであろう。
失敗であった。
遍路道を取ってしまった。雪道を掛けわけながら女体山の頂上を目指すルートをとっていた。

雪が積もっていなかったらこれほどまでにも苦労はしなかったかもしれない。
足を滑らせて崖の下に落ちていきそうになることも数度ある。
ロッククライミングのような感じである。
まさに第八十八番の前に立ちふさがる最後の要衝といった感じである。
「死」の存在を感じた。「神」の存在を感じた。
そこから「自分」という存在を知り、すべての観念は止揚されて自分はそれらを乗り越えることができる。
白い雪は赤い血の妄想で塗りたくられて、青い空と同質の存在となって純化されていく。
杖の存在は不要となっていた。自らの足だけが頼りであったし、運命だけが頼りであった。そこにニンゲンの存在できるだけの余地は残されておらず、ひたすらに祈りに満ちた自然の草木の鼓動が波打っている。

先人はここを通り抜けていった。
人には不可能なことも多いだろうが、希望に満ちていれば可能なことも多いのであろう。
岩の間を潜り抜けて、飛び越えて行き着く先に女体山の頂上。
気分が悪いとか言ってられるほどの余裕はない。
人には「生」と「死」しか存在しない。僕は今のところ「生」を選んでいる。
まったくの理由はないのであるが。
「生きる」ということに理由なんてあるのだろうか。
価値観に普遍性はあるのだろうか。

女体山頂上から駆け下りる。
話によればそこからおよそ30分ほどで大窪寺に着くことができるという。
車道と遍路道がある。もう遍路道は歩きたくなかった。車道をとる。
再び失敗。
進めど進めどそこに寺の面影は一つもなかった。下り坂が続く。
携帯電話で道を尋ねる。遍路道を取ればおよそ15分ほどでついたらしい。
こちらの道をとれば2時間ほどかかってしまうようだ。
電話した時にはすでに怪しいと思いつつも進むこと40分ほど。
後戻りは出来ないので、その道を進む。道に間違えてはいないのであろうか不安だけが先行するが、こちらにむかてきた車に道を尋ねたところここから先に大窪寺があることは確かにあるという。
信じて進む。一軒の家がある。
今日予約を取っておいた、大窪寺前の八十窪である。
転がり込むような按配で駆け込んだ。体は変調をきたしていた。

風呂に入っている間も頭痛と寒気でいっぱいになる。
八十八番の手前についた達成感など眼中になかった。
目の前にあったのは迫りくるその高熱の嵐。
部屋に入って休む。宿の方にはまだ風邪だといっていない。
それを述べに下に行く気力さえ残されていなかった。
宿の方と思われる声がふすまの向こうに聞こえる。
ほうほうの呈でそのふすまを開ける。ようやく宿の人に伝えることができた。
薬とその他のものを持ってきていただく。夕食はいらない。
それどころではない。熱は三十九度を越していた。
家に電話してもらい、ここまでついたことを伝えてもらい、もしよければここまで迎えにきてほしいと伝えてもらった。意識が遠のいていく。
何も覚えていないが、夜何度も目がさめて、苦しんだのを覚えてはいる。
すべては自分の自己管理の甘さから出たものかもしれないが、やはりそこには運命があった。


次の日。
第八十八番大窪寺。結願する。
再び、車で明石大橋をわたって帰ることになった。
旅は終わり、再び毎日の生活が始まる。
この境地を再び乗り越えることはありえない。


「2007年8月12日」の記事

ざぁ~っと、四国八十八ヶ所を回ったときにつけていた日記をこのブログに写してきたのですが、結構なボリュームになりました。
四国八十八ヶ所をはじめ、大学時代はいろいろなところに旅にいったのですが、私の中でやはりもっとも印象に残っているのは、そのお遍路です。

四国で人の心に触れて、自然の壮大さに触れて、私の価値観は大きく変わったと思います。それまでの19年間と、それからの9年間は生きる意味において、自分の使命をもって生きてこられたという点では大きな違いがあると思います。
いまさらながら、あの当時の日記やメモを見るのは気恥ずかしいのですが、初志貫徹、なぜ会社を作ったのか?本当にやりたいことを思い出すためにも確認するためにも、この大きく事業が拡大しつつある現在、見ておく必要があると思ったのです。

人生を88年と考えるならば、わたしはまだ29年しかいきていません。
四国の29番札所を振り返るならば、本当の困難はこれから10年に訪れると思います。それを乗り越えることの喜びも、結願が近づくにつれての、人生の楽しみについてもそうした困難を乗り越えたときに見えてくることもわかります。
四国に渡って本当によかったなぁと思います。

今、45歳。四国遍路から25年も経ちました。2005年と2007年に関連する記事を書いてから数えても20年近く経っています。日記は最後の7日分しかブログ記事には残っていません。何処かにそれまでの36日分の日記が残っているのかもしれません。

人生を88年と考えるならば、私はいま45年。第四十五番札所岩屋寺辺り。修行の道場と言われる高知県を越え、これからは愛媛県を歩くことになります。この岩屋寺があるのが、久万高原というところですが、目の前一面に黄金色のススキが広がる場所でした。私は今でもあの光景を思い出します。四国お遍路には様々な景勝地がありますが、私が最も印象的だったのがこの久万高原のススキの原でした。ここからの旅は、きっともっと楽しくなると思います。あと、八十八箇所を回り終えることを「結願」といいますが、最後、高野山金剛峯寺に登ってはじめて「満願」となります。まだ私はこちらに行くことができていません。時間を作り、25年越しの「満願」を果たしたいと思います。


◇筆者プロフィール
藤井哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc 共同創業者
1978年10月生まれ、滋賀県出身の45歳。2003年に若年者就業支援に取り組む会社を設立。2011年に政治行政領域に活動の幅を広げ、地方議員として地域課題・社会課題に取り組む。2020年に京都でパブリック Xを第二創業。2021年から東京でSOCIALXを共同創業。
京都大学公共政策大学院修了。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。著書いくつか。
個人用「X」はこちら


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