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中山道・東から④ショッカーベルトに傷ついた うんこもらしの幼稚園児

和宮も避けた縁を切る榎

 JR板橋駅から徒歩10分の「板橋宿」と掲げた商店街は、老若男女でにぎわっている。地方都市の商店街は郊外の大型店の影響で衰退しているが、大規模店が進出できない都心は商店街が元気なのだろうか。

「板五米店」という1914年築の商家建築は、火災を防ぐため、れんが造りの左右の妻壁が屋根の高さまで立ちあがっている。

「板橋」の名前のもとになった橋

「縁切榎」は、悪縁を切りたい時や家族の断酒を願うとき、樹皮を煎じ、ひそかに相手にのませた。逆に、嫁入りの時は縁が短くなるのをおそれて下を通らなかった。和宮が徳川家茂と結婚する際はこの木を避ける迂回路がつくられた。

太股にたれるうんちのぬくもり

2022年の富士見幼稚園
1971か72年の富士見幼稚園

 このへんの景色はなぜかなつかしい。スマホの地図を見ると、幼稚園のころ近くに住んでいたことがわかった。
 都営三田線の板橋本町駅から脇道を5分たどると僕が通っていた「富士見幼稚園」があった。記憶よりもずいぶん規模が小さい。
 幼稚園の記憶は「うんち」と結びついている。
 なぜか幼稚園で個室トイレに入れなかった。
 便意を覚えながら400メートル離れた団地に帰る途中、しばしば耐えられなくなって、もらした。
 パンツのなかに、生あたたかいものがモリモリとふくらみ、太股までツツーッと落ちてくる感触は忘れられない。家の鍵がかかっていて、友だちのマー君の家に行く途中でもらし、着替えさせてもらったのは4歳児にとっても屈辱だった。
 もらすことにくらべたら、大便所に入る方が恥ずかしくないのに、いったい何にこだわっていたのか。そういえば、小学校に入っても学校での大便は避けていた。
 2017年の「日本トイレ研究所」の調査によると、小学生の 51.3%が学校でうんちをしないと答え、その理由の1位は「友達に知られたくないから」(57%)だった。小学生の37.3%が便秘状態・便秘予備軍だった。「うんちタブー」は今も昔も同じらしい。

風車が回転するライダーベルトはあこがれ

 必死で肛門に力を入れて歩いた道をたどると「スパ・ディオ」という温泉施設がある。たぶんここが富士山の絵が描かれていた銭湯だった。

 幼稚園の年長になったころ、自宅のトイレのわきに木製の風呂桶が導入された。4歳の僕と父がいっしょに入るのもむずかしい小さな浴槽だった。最初は小さな風呂に興奮したが、そのうち銭湯に行けないのがさびしくなった。
 父が社有車の日産グロリアを置いていた車庫は、タクシーの車庫になっている。近くにはよく吠えるブルドッグがいた。

ライダージャンプ! 一番上の写真には二段ベッドが写る
現在は大きなマンションに

 その先に、4階建ての古びた団地が4棟ならんでいた。その2階の2Kの部屋に住んでいた。
 今は東京都住宅供給公社の「コーシャハイム前野町」というマンションになっている。

二子玉のウルトラマンショー。MATの隊員に

 団地の庭で、仮面ライダーごっこやウルトラマンごっこをして遊んだ。
 いじめっ子で、「ドラえもん」のジャイアンのような存在だったツネヒサくんは、風車が回転するライダーベルトを自慢げに腰に巻いていた。僕もライダーベルトを親にねだった。
 クリスマスの朝、枕元にあった紙袋を興奮して開けると、ライダーだけでなくショッカーの怪人をプリントしたペラペラのベルトだった。風車が回転するベルトは高価だったのだろう。
「よかったねぇ、ずっと欲しかったライダーベルトをもらえて。サンタさんにお礼の手紙を書かなきゃね」
 母の言葉にイライラした。
「ショッカーベルトなんていらない!」
 怒りをぶつけたいけど、そんなことを言ったら忙しいサンタさんを傷つけてしまう。喜んだふりをした。幼児でも大人に気を使うものなのだ。
 当時の僕はぜんそくでしょっちゅう幼稚園を休んでいた。息ができず、ひと晩中二段ベッドの柱をにぎっていた記憶がある。発作が起きるたびに病院につれていかれた。
 真夜中の病院の待合室は暗くて静まりかえっている。吸い込まれるような闇の空間になぜか魅力を感じていた。
「東京は空気が悪いから引っ越さないと治らないよ。このままじゃ息子さん死んじゃうよ」
 近所の「齋藤医院」の医者に忠告され、小学校入学を機に埼玉県大宮市の公団の団地に引っ越すことになった。
 3DK48平方メートル400万円の公団団地は、大きな風呂とは別に独立したトイレがあって、明るくて、団地の芝生も広々していて、「こういうのがお金持ちっていうんだ」と興奮した。

一軒家の友人ができるまでは、「お金持ちの団地」と思っていた

鳥居のない神社はうさぎのお宮

 板橋の「志村一里塚」は片側2車線の国道17号の両側に巨木が茂る塚が残っている。日本橋から数えて3番目の一里塚だ。
 幕末の混乱で多くの一里塚が荒廃し、1876(明治9)年に内務卿から府県あてに「各街道一里塚ノ儀、里程測定標杭建設既済ノ地方ニ限リ、古墳旧跡ノ類ヲ其儘一里塚ニ相用或ハ大樹生立往還並木ニ連接シ又ハ目標等ニ相成、自然道路ノ便利ヲナスモノ等ヲ除クノ外、耕地ヲ翳陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ総テ廃毀シ……」という達しが出され、一里塚の廃止が一気に進んだ。
 志村では1933(昭和8)年からの新中山道の工事の際、周囲に石積みされて土砂の流出を防いで保全されたという。
 富士・大山道の道標と庚申塔を経て、旧中山道最初の難所だったが今は住宅街になってしまった清水坂をたどり、戸田橋で荒川をわたると埼玉県戸田市にはいる。

荒川の戸田市側
拡大すると横断膜の文字を読めます

 巨大なクレーンが何本も立つ工事現場の隣のマンションには「物流施設断固反対」「私たちから太陽を奪うな」「我慢の限界」といった横断幕がはためいている。こんな風景、昭和時代はそこかしこにあったが、最近はあまり見かけなくなった。

「中山道蕨宿」の旧道沿いには、商家風の建物が点在し歴史民俗資料館もある。
 さいたま市にはいって、「辻一里塚跡」や、焼米を売っていたという「焼米坂」の碑を見ながら車道をたどり、浦和の中心市街に近い調(つき)神社に着いた。

 武蔵国の「調」(絹や糸などの地方の産物を納める律令時代の税)を集める場所だからこの名がついた。調を搬入するじゃまになるから鳥居がないそうだ。調(つき)が「月」になったことで、うさぎの狛犬ができた。手水舎もうさぎの口から水が流れている。

 地元の人がツキノミヤと呼ぶこの神社周辺には、高校時代は毎月のように来ていた。信仰心ではない。おめあては、神社の裏にある浦和第一女子高校、通称「一女(イチジョ)」だった。

 浦和高校からジョギングで訪ねてはテニス部の練習などをながめていた。文化祭にも毎年通った。
 熱心に通ったわりに成果はなかった。
 でも期待に胸が高鳴ったことがなかったわけではない。
 高校2年の秋のことだ。(つづく)

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