死ぬまで少女のようだった高群逸枝、世田谷の「森の家」は祭祀場
死を身近にかんじて巡礼した24歳の女教師
2004年に四国の遍路道を歩きながら「娘巡礼記」を読んだ。
婚約者とほかの男性との三角関係になやむ熊本の24歳の女教師が、職をなげうって四国巡礼にでる。好奇の目にさらされ、観音様の生まれかわりとあがめられ、「遍路は泊められない」と宿からおわれ……泣いたり笑ったりしながら半年間歩きつづける。
「私自身も、巡礼の姿のまま、はかなくならぬとは限られない。真の孤独に耐えうる人にしてはじめてそこに祝福された自由がある」
「病的な戦慄を感じてどうしても眠れない。みんな死んでいった。色んな物を書き残した少年も青年も佳人も。時逝いて人在らず」
そんなことをつづっていた彼女も、この世にはもういない。
路傍の遍路の墓をおがみながら、みずみずしい感性で「死」を意識して旅していた。
そして、大きな悲しみ、大きな喜びがあるほど人生は豊かになる、ともしるした。
「喜びでも悲しみでも、ひと晩泣き明かした経験がない人は薄っぺらだ」
四肢障害をかかえて弁護士になり、水俣病被害者支援に奔走した夏目文夫さんの言葉を思いだした。
「無難な人生よりも振幅の大きい人生を」と考えていた彼女に、時代を超えて親近感をかんじた。だがその時は「振幅の大きさ」がどれだけつらいか、ぼくにも、おそらく24歳の彼女にもわかっていなかったろう。
著者の高群逸枝(1894〜1964)が女性史学の研究者で、石牟礼道子にも大きな影響をあたえたと知ったのは何年か後のことだ。
「森の家」で女性史を研究、夫は家事をになう
逸枝は四国巡礼からもどると、26歳で東京にでて、追いかけてきた水俣出身の婚約者・橋本憲三と暮らしはじめる。
憲三は平凡社の創業にかかわり、2人の家は、アナキストの若者が常時居候し、若者たちのたまり場になっていた。
炊事や居候たちの汚れ物の洗濯、買い物……と膨大な家事に疲れはてた逸枝は、憲三の収入が安定したのをみはからって家出する。その際、居候の若者といっしょだったから「駆け落ち」と報じられる。その時に逸枝が憲三にあてた手紙は、「あなたをとても好きです」というラブレターだった。憲三が半狂乱になって逸枝をさがしていると報じる新聞をみて、逸枝はみずから警察に出頭してつれもどされた。
家出事件後、憲三は友人をつれてくるのをやめ、平凡社を退職し、逸枝のための専属編集者になった。
そして、切り売りされていた鹿鳴館の材料も活用した30坪の洋館「森の家」をたて、庭先に「面会お断り」の看板を掲示した。憲三は家事をにない、逸枝の研究生活をささえつづけた。
逸枝は平塚らいてうらと親交があった。欧米の女性解放運動は、近代的自我を基盤にするが、らいてうや逸枝は「元始女性は太陽だった」にあるように、女性解放の場を古代の母なる自然界にもとめた。石牟礼道子はそんな逸枝に共感し、近代的自我は孤立や排除をもたらし、人間世界を豊かな方にはみちびかないと考えた。
逸枝は、日本の婚姻は南北朝時代までは嫁入婚ではなく招婿婚だったことをあきらかにする。だから嫁姑の問題などはなく、女性が死んだとき、夫の実家ではなく自分の実家の墓にはいった。皇后は、女御や内侍として入内し、事後的にえらばれて立后するが、死ねば氏族の墓地に葬られた。天皇家に厳格な意味で嫁取婚が発生したのは明治以後という。
1964年5月、70歳の逸枝は病におかされて入院する。
6月7日朝、病室にはいった憲三は、逸枝の寝顔の美しさに「彼女は神だ」とうたれる。
ヘアトニックを髪にふりかけてブラシですいてやると逸枝は目をつぶってよろこんだ。頭から手や足をさすると、とても気もちがよいという。それから「手を握ってください」ともとめた。
「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。私とあなたの愛が『火の国の日記』でこそよくわかるでしょう。『火の国』はもうあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いて置いてください。本当に私たちは一体になりました」
「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」(憲三)
「われわれはほんとうにしあわせでしたね」(逸枝)
「われわれはほんとうにしあわせでした」(憲三)
夜9時、家にもどろうとする憲三の手を逸枝はかたくにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった。
憲三が帰宅してまもなく、病院から電話がはいった。11時に駆けつけると、「もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた」
「森の家」は御嶽のような祭祀場
逸枝が消えた「森の家」で、憲三は「火の国の女の日記」を泣きながら浄書する。それから「高群逸枝全集」を編纂する。
「世にもすばらしい女性でした。70歳になって病気になるまで、彼女の魂も女体も少女のようにつつましくきよらかで、完璧でした。……僕でなくても他の男性であっても、彼女は相手にそのような至福をあたえずにはやまないものを無限に持っていた女性でした」
1966年に「森の家」で数カ月すごした石牟礼道子に憲三はかたった。
2年かけて全集が完成し、憲三は故郷の水俣にかえるため「森の家」を手放すことになった。
書斎、茶の間、湯殿の横の小部屋、化粧部屋、寝室も踊り場も、壁面という壁面はすべて天井まで書誌類で埋まっていたという膨大な本を古書店に売り、逸枝のマンドリンをたき火で焼く。
本を積んだトラックが角をまがって消えたとき、憲三は石牟礼にむかってつぶやいた。
「貴女がいてくださって助かりました……たいへん苦しくさびしい、死んでしまったほうがよい」
石牟礼の「最後の人 詩人・高群逸枝」を読んでいると、逸枝はシャーマンであり、憲三はそれにつかえる神官で、「森の家」は沖縄の御嶽(うたき)のような祭祀場なのだと思えてくる。
憲三が水俣にかえってまもなく、白い30坪の洋館の「森の家」は解体された。
わずかにのこる「武蔵野」のなごり
「火の国の女の日記」は「森の家」をこう描写している。
「細長い樹木地帯の南端に位置し、南はまるで人通りのない並木道をへだてて畑地、北は森、この森の先は植物園をはさんで稲荷の森につづく。東も森、西は軽部家の一町にあまる広い畑。その遠近にも森や雑木林が点在し、その間から富士がちょっぴり顔をのぞかせている」
跡地は今どうなっているのだろう?
2023年7月の猛暑の日、小田急線の経堂駅におりた。
「農大通り」というおちついた商店街をへて、くねくねとまがる脇道にはいると、木立にかこまれた旧家が何軒か点在している。武蔵野の里の残り香をわずかながらかんじられる。
20分ほどで、低層マンションや戸建て住宅にかこまれた世田谷区立桜公園についた。
滑り台や砂場などの遊具の上に、5,6本の巨樹がすずしい影をなげている。砂場のむこう、200坪の児童公園の奥に「高群逸枝住居跡の碑」があった。
彼女の詩がしるされている。
ここから大量の本をのせたトラックが走り去るのを、憲三と石牟礼道子は見送った。
「逸っぺが……あの、全裸でね、彼女がこのベッドの中に訪れたのです。…じつにふくよかな、あたたかい肉体をしていましてね、ああ生きているときのまんまでした」
「森の家」のベッドで憲三はそんな夢をみたが、妻の肩を抱こうと手をのばしたら、消えてしまったという。
木陰のベンチにすわり、首筋をつたう汗をぬぐいながら、ジージーとふりそそぐアブラゼミの声を聞いていると、「最後の人」に登場する憲三の姿が、つぎつぎに脳裏にうかんできて切なかった。
東へ徒歩20分ほどの豪徳寺で井伊直弼の墓を見学してひきあげた。
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