紀伊路⑥埋蔵金と出雲の不思議(布施屋〜海南)
埋蔵金の山
JR和歌山線の布施屋(ほしや)駅におりると、低く垂れこんだ曇から時折雨粒が落ちてきた。
山に向かって住宅地を進んだ三叉路に、お堂やスタンプ台を備えた川端王子跡があった。
左手の高積山(237メートル)はてんこ盛りのごはんみたい。こうした神奈備型の山は信仰や伝説があるものだ。
高積山には「朝日サシ夕日輝ク其ノ中ニ大判千枚小判千枚朱8石(3石)オハシマス」と埋蔵金伝説が伝えられていた。1928(昭和3)年に発掘すると、深さ約60センチで、平瓦を敷いた底から約45センチ銅銭が積まれていた。総数1万5000枚で、調査できた10470枚の大半が中国・宋の時代(960−1279)の古銭だった。高積山遺跡として和歌山県の文化財に指定された。
ふもとの集落に、周囲に堀をめぐらした豪邸がある。江戸時代の大庄屋だった旧中筋家住宅だ。1852年築の3階建て住宅は望楼も備えている。
出雲とのつながり
県道沿いの和佐王子跡の碑を経て、矢田峠の登山道に入った。大阪から歩いてきて最初の山道は竹林の峠に10分ほどで登りつめ、簡易舗装の農道を下る。みかんの白い花が咲き乱れ、甘い香りに満ちている。柑橘の花の香は「香水のよう」と称されるが、ぼくにはトイレの芳香剤やデパートの化粧品売り場のにおいに思えてしまう。
ふもとの平尾集落まで下ると、自治会館前に平緒王子跡の碑があった。
猫の「たま駅長」などで有名になった和歌山電鉄貴志川線の線路をわたり、盆地の集落のひなびた鳥居にひかれて須佐神社を参拝した。丘の上の社にのぼる石段からは山に囲まれた里を一望できた。
かつて住んでいた島根県の出雲には「日本一のパワースポット」とも呼ばれる須佐神社があった。忌部、加太(加多)、熊野大社……と、出雲と熊野には共通する地名・神社名が多い。イザナミの墓も、古事記では出雲と伯耆国の境の比婆山とし、日本書紀では熊野の有馬村としている。そしてどちらにも水葬の痕跡が見られる。民俗学者の谷川健一は「奄美大島の北で二つに分かれて日本海の出雲と太平洋の紀伊半島とを洗う黒潮文化に原因があると思う」と推測していた(「海の熊野」)。
ただ全国的には、かつて牛頭天王を祀っていた神仏習合の社が、1868(明治元)年の神仏分離令にともなう弾圧で主祭神をスサノオに変更させられ、須佐神社と改名した例が多いという。京都の八坂神社も改名前は祇園社と呼ばれていた。
「アース渦巻き」「昭和白アリ」といった昭和の広告が貼られた農家のわきをのぼった裏山に奈久智王子跡のお堂を訪ね、廃寺の礎石4つをお堂の両側に埋め込んだ「四つ石地蔵」に驚き、県道の山の斜面の松坂王子跡を参った。
棕櫚から家庭用品産業へ
汐見峠を越えると、眼下に海南市の街並みが広がった。
京都から籠に揺られてきた貴族たちはここであこがれの海と対面した。その感動が「汐見峠」の名の由来という。今は埋め立てが進んで海は見えない。1855年の安政の大地震で、大津波で逃げ場を失った人たちが、汐見峠の地蔵の不思議な力に呼び上げられて助かったことから「呼び上げ地蔵」とも呼ばれる。
海南の町に下り。市街地を遠巻きにするように山際をたどる。春日神社の山に100メートルほど分け入ると松代王子跡のお堂だ。
以前に訪ねたとき「棕櫚の木」と書かれた案内板があった。
海南は、ほうきやブラシ、たわし、マット、ビニール製品、ロープなど、家庭用品産業が盛んで、全国の9割を占める製品もあるという。このルーツは、野上谷と呼ばれる地域で昔から栽培していた棕櫚(しゅろ)を使った縄や蓑、箒づくりにある。室町時代の弘和年間(1381~84)から生計の目的で棕櫚を植えるようになったと伝えられている。
工務店のわきに小さな石仏が立つ菩提房(ぼだいぼう)王子跡と、城のような石垣の上に、無数の「身代地蔵尊」がならぶ日限地蔵尊(浄土寺)を訪ねてから、海南駅近くのビジネスホテルに投宿した。
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