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大重潤一郞監督のドキュメンタリー2作 基地や公害を民俗誌的な深みで描く

 1970年代の制作当時未発表だった大重潤一郞監督のドキュメンタリー2本を鑑賞した。以下感想です。

能勢 能勢ナイキ反対住民連絡会議

 ナイキJは、アメリカの核ミサイルから核を抜いた国産ミサイルで、1970年に能勢町への配備計画があきらかになった。時代遅れの兵器だったが、いつでも核兵器に転換できる。すでに北海道や関東、九州に配備が決まっていた。能勢町議会は即座に反対を決議する。
 このドキュメンタリーは、能勢町での住民たちの動きとともに、すでに配備に同意してしまった三重県白山町の様子をまじえてえがく。
 1970年年代は、駅の地下道には傷痍軍人がハーモニカを吹いていて、東京でも荒れ地があちこちに残っていた。ぼくら子どもにとっては戦争ははるか昔のことだったが、大人にとっては敗戦は「ついこのあいだ」の記憶だった。
 能勢町の農家のおばちゃんは「戦争だけは悲惨だからなぁ」「デモなんてやったことないもんなぁ」「デモしたために流産したんや」「もう2度と悲惨を子どもに伝えちゃあかん」となど発言する……。
「悲惨な記憶」が生きているから、ふつうの農婦がデモや学習会に参加する。
 一方で国側は、三里塚の混乱の反省から、土地収用の前に、道路網や水道、通信網などの整備をすすめる。国道を改良し、地道を府県道に昇格させ、ダムをつくって水道をひく。山の集落の住民にとっては道路整備は長年の悲願だった。基地と利便性のあいだで揺れる思いも映像で表現する。
「生かしめるままに生きて……」
「生かしめられるべく……たたかう!」
「幸せを生きるためではなく、悲しみを生まないためにたたかおう!」
 「たたかい」の連呼は現代からみると違和感はあるが、自然と生業と祈りと、ある種のあきらめとともに生きる村人の思いと、戦争の悲惨な記憶の重さがじわじわとつたわってきた。「基地問題のドキュメンタリー」に終わらない、民俗誌のような深みをかんじられた。

かたつむりはどこへ行った

 高速道路やゴルフ場建設で山は削られ、谷は埋められる。川はどぶ川になり、PCB汚染は母乳におよぶ。
 都市近郊の野山や川辺がなくなり、子どもたちは自然のなかで遊べなくなる。
 伊丹空港では1964年にジェット機が就航すると、騒音で夜も眠れなくなる。
 海に面した尼崎では、大気汚染によるぜんそくで、ゼーゼーと肩で息をする人たちが急増した。
 あのころ、幼稚園児だった私は東京の板橋区にすんでいて、ひどいぜんそくで、「このまま東京にいたら死ぬよ」と医者に言われていた。二段ベッドの柱をつかんで、息ができないのを必死にたえたことや、深夜にはこびこまれた暗い病院の消毒液のにおいをよくおぼえている。ただ板橋区のまんなかでも、土管などが放置された空地がけっこうあって、遊び場にはこまらなかった。
 高度経済成長まっただなかの時代、公害は「健康被害」として可視化されていた。自然や祈りや生業とともにあった暮らしの破壊なのだと表現する大重監督の視野の広さと深さに脱帽する。あの当時、これだけの視野をもっていたのは、水俣の石牟礼道子さんらごくかぎられていたのではあるまいか。

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