紀伊路⑩二階王国を震撼させたふたつの選挙(御坊駅~塩屋)
悲劇のテロリストの墓
6月初め、1カ月ぶりに御坊駅におりると、0番線に1両だけの気動車が停まっていた。かつて「日本一短いローカル私鉄」として鉄道ファンに注目された紀州鉄道だ。街外れにある紀勢線御坊駅と御坊市街地を結ぶため1931年に開通し、現在は西御坊駅まで計5駅2.7キロを往復している。
御坊駅の近くの湯川子安神社には推定樹齢千年のクスノキがそびえ、農村に開けた住宅地のところどころに沖縄で見かける「石敢當」の碑が立っている。
清姫伝説の大蛇を欄干にあしらった橋で日高川を渡る。ウグイスが鳴き、用水路に沢蟹がはいまわるが、田植えを終えたばかりの水田にはアメンボの姿もない。1カ月前に福島県の有機農法の田を見学してきたから、命のざわめきが感じられない田が異様に思える。ビニールハウスではピーマンが揺れている。
水田のわきにある岩内1号墳は一辺19.3メートルの方墳だ。副葬品が立派だから、有間皇子の墓ともいわれている。
謀反の容疑で中大兄皇子(天智天皇)に絞首刑に処せられた、悲劇のテロ容疑者だ。
「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」(家にいたなら食器に盛る飯を、草を枕に寝る旅にあるので、椎の葉に盛るのだ)などと連行される途中にうたうおぼっちゃんをはめることなど、蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こし、有力勢力を次々に粛清した当代一のテロリスト中大兄皇子にとっては、赤子の手をひねるようなものだったろう。
近くの公民館の前に「焼芝王子(岩内王子)神社旧跡」の碑があった。
アジサイが彩る丘の上の新興住宅地から森の小径を下ると、「旧羽山邸跡」という「森畠医院」に出た。南方熊楠は若いころ、羽山繁太郎、蕃次郎兄弟を「美男子だ」とほれこみ、同性愛の対象としていた。明治時代には旧制中学から大学にかけての男色はめずらしくなかった。2人は医学を学び将来を嘱望されたが、いずれも熊楠が外遊中に早世してしまった。
隣の山にまつられている塩屋王子神社の石段をのぼると「美人王子」と染め抜かれたのぼりが翻っている。主神の天照大神の神像が美しいからそう呼ばれているそうだ。ナギノキやイスノキ、ヤマモモなどの老樹がうっそうと茂り、後鳥羽院の行在所(あんざいしょ)の跡とされる「御所ノ芝」も残されている。
使用済み核燃料中間貯蔵施設
神社からつづく塩屋の街道沿いには、洋館風の古い建物が点々と残っている。
海側には関西電力御坊発電所の煙突がそびえる。日本で初めて外洋の人工島に建てられた火力発電所で1984年に完成した。
民家の壁に共産党のポスターがあった。2016年に取材した御坊市議(当時)の楠本文郎さん宅だ。
その年の5月、御坊市長選があった。御坊市は二階俊博・自民党幹事長のおひざ元で、現職の柏木征夫氏は二階氏の支援で1992年以来6選を重ねてきた。それに対して二階氏の長男で政策秘書をつとめる俊樹氏が立候補し、二階一門同士の泥沼のたたかいになり、全国の注目を集めた。
ぼくは保守の内紛にはあまり興味はない。なにか争点になる政策を探して記事にしたかった。
そんなとき役立つのが共産党の地方議員だ。都市部では教条的な共産党議員もいるが、地方の議員は、正義感が強く優秀な人が多い。権力と癒着しないから、行政の問題を客観的に指摘してくれる。
楠本さんに教えてもらった問題のひとつが、使用済み核燃料中間貯蔵施設問題だった。
御坊市では2003年に、関西電力が第2火力発電所予定地に中間貯蔵施設建設を検討していることが明るみに出た。だが2005年に発電所計画が中止され、2011年の福島第一原発事故をへて問題は終息した……はずだった。
ところが、海岸部の市民を対象に、日本原子力発電東海第2原発(茨城県東海村)への視察旅行が再開されているという。
この問題が争点になって「反対」を主張する側が勝てば中間貯蔵施設建設を止められる。俄然やる気が出て、視察旅行の参加者らに取材した。
2015年に参加した60代の男性によると「ほかの地区も行ってるから」と「エネルギーの勉強会」に誘われた。参加費は1泊2日で1万円。関電のマイクロバスで関西空港に送ってもらって羽田に飛び、東海第2原発で、使用済み燃料を保管する乾式キャスクなどを見学した。夜は東京のホテルで飲み放題食べ放題の夕食を楽しみ、その後はラウンジでフルーツや飲みものがふるまわれた。関電の社員が添乗員のように付き添っていた。翌日は東京スカイツリーや浅草、築地市場などを見学した。
「キャスクをさわったらほのかにあたたかかった。化石燃料は燃やしたら終わりだが、原子力はリサイクルできる、などと説明を受けた」と男性は話した。「うまいものを食えるから」と複数回参加した人もいるという。
一連のツアーは、大阪商工会議所が中心になって原子力利用の啓発活動をするために設立した「関西原子力懇談会」(大阪市西区)が主催していた。懇談会の担当者に確認すると「エネルギーについて勉強していただくため、地域の人のご要望に応じて見学会をしている。御坊の方たちの見学会は以前から実施しており、回数や期間はよくわからない」と話した。
現職市長の柏木氏は市議会での楠本さんの再三の質問に対して「事業者から設置について要望を受けたこともないし、こちらから要望したこともない」「御坊にはその場所はない」などと答弁してきたが、選挙直前の3月の議会では「今のところではなく、金輪際ノーです」と反対のトーンを強めた。
これに対して二階俊博氏の長男・俊樹氏は立候補表明した2月のパンフレットでは「地震津波などのリスクも高い地域であり慎重な対応が求められる」と記していた。津波をおそれる多くの住民は「スーパー堤防」を望んでいた。「国土強靭化」の名でこれを整備して「安全」を確保したうえで中間貯蔵施設を受け入れる……という可能性が残る玉虫色の表現だった。
だが4月の事務所開きでは「地震が来るんだから、明確に反対。知事も認めるわけない」と踏み込んだ。
これで、どちらが勝っても当面は建設されることはなくなった。
市民の判官贔屓が二階王国を痛撃
取りあげたかった争点は消えてしまったけれど、市長選挙はおもしろかった。
二階俊樹氏は父の政策秘書時代、その横柄な態度で評判が悪かったが、選挙戦では、小泉進次郎や稲田朋美、公明党の漆原良夫、森山裕農林水産大臣らが駆けつけ、中盤からは父の俊博氏も応援のマイクを握り「御坊みたいなまちの市長選挙に大臣がおいでになることがありましたか」などと訴えた。仁坂吉伸知事や、柏木氏に近いと思われた首長の大半も駆けつけた。集会には毎回1000人近い人が集まった。陣営幹部は「追いついた!」「追い抜いた!」と自信を深めていた。
一方、柏木氏側の動員はあきらかに見劣りしていた。事務所開きに集まったのは30人(俊樹氏は千人)。出入りをチェックされて圧力が加わることをおそれてプレハブの事務所は大通りに背を向けてたてた。大規模な集会はせず。ミニ集会に力を入れた。各種団体には「(圧力があったら)あっち(の集会)に行っていいから、気持ちだけは残して」と働きかけていた。だが陣営幹部には不思議と焦った様子は見られなかった。
5月22日の投開票日、市立体育館で午後7時半から開票がはじまった。職員が投票用紙を整理する手元を双眼鏡でのぞき、どちらの票が多いか数えるのを「開披台調査」という。やってみると柏木と二階の比率は6:4だ。接戦を予想ていたマスコミの記者たちは騒然としはじめた。最終的には柏木9375,二階5886という予想外の大差がついた。
二階側の圧倒的な組織力と、絶大な権力をもつ父親の圧力で、周辺自治体の首長も各種組織も(少なくとも表向きは)次々に寝返っていた。みんなが勝ち馬に乗って二階が競り勝つとぼくは予想していた。御坊市民の判官贔屓は痛快だった。柏木陣営は選挙後、「御坊の状況どころか、候補者のことを知らない人が次々来ることに市民の反発が高まったのでは」「むしろ俊樹氏が、地道に頭を下げて歩きまわっていたら脅威だった」と振り返った。
3年後(2019年)の和歌山県議選御坊市選挙区では、自民現職の中村裕一氏に、取材でお世話になった共産党の楠本文郎氏が挑んだ。ふつうなら中村氏の圧勝で終わるはずだが、中村氏は、市長選で二階俊樹氏を応援したことで市長派に嫌われていた。自民党幹事長の二階俊博氏のおひざもとで共産党が勝利するというまさかの大どんでん返しとなった。ぼくは当時富山県にいたが、御坊市民の痛快な選択に「ざまあみろ」と思った。
地方の取材はおもしろい。大変だけど楽しい日々だった。記者をやめた今つくづくそう思う。
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