映画「裸のムラ」
ドキュメンタリー映画「裸のムラ」(五十旗頭幸男監督)をみた。
私はこの映画の舞台になった石川県で4年間新聞記者をしていた。
石川県のような超保守県で選挙を取材すると、日の丸の鉢巻きをしたどぶねずみスーツと作業服の建築会社員ら数百人が「ガンバロー!」をさけび、たすきをつけた候補者が支持者の手をつつみこむように握手してまわる。あいさつの順番も判で押したように決まっている。滑稽さに最初はおどろく。まさに「オトコ村」なのだ。でもそのうちなれてしまった。
谷本正憲知事は7期28年も知事の座にすわりつづけた。気のいいおっさんで悪い人ではなかったが、晩年には失言がめだってきた。長期政権で裸の王様になっていたのだろう。
県職員は知事の思いを先回りして忖度する。記者会見のときは知事の机に水差しをおき、女子職員が何度も丁寧に水滴をぬぐう。私が会見に出席したときは気にもとめなかったが、あらためてその映像をつきつけられると、権力者への「忖度」のシンボルであることがわかる。
谷本をおいおとす形で知事になった馳浩は、「女性の活躍」をかかげて選挙序盤の集会では多くの女性を舞台にあげた。だが当選後のバンザイでは、女性は花束を手わたすだけ。舞台上では、どぶねずみのオトコたちが得意そうにバンザイを三唱した。
「新時代」をかかげる馳浩が、オトコ村の正当継承者であることがよくわかる。
こっけいな政治家や県の役人たちの生態とは別に、金沢市のムスリム一家やワゴン車やキャンピングカーでくらす一家もとりあげる。
イスラム教を信じる日本人男性とインドネシア人女性の一家は、「ふつうの人たち」のあたりまえの価値観の押しつけが、社会の少数派にとっては残酷なほどの同調圧力であることをしめす。
キャンピングカーで放浪している自由人一家は、「ふつうの人」の押しつけをきらって、葛藤しながら生活している。でもそんな自由人の父親が、娘に4歳の時から「日記」を義務として課している。娘は父親の顔色をみながら毎日日記をパソコンにうちこんでいる。
同調圧力や「忖度」をきらってアウトローになった人でさえも、子どもには自らの価値観への同調を強いる。
取材記者もまた「忖度」や同調にからめとられている。たぶん、監督がいちばん描きたかったのはこの部分ではないか。
知事就任直後の馳浩の記者会見で、読売新聞の記者も毎日新聞の記者も「ご就任おめでとうございます」と言祝いだ。背筋がかゆくなった。私の古巣の朝日新聞の記者はどう発言したのだろう?
記者は事実を質問しさえすればよい。権力者を言祝いではいけないというのは基本のキのはずなのに。でも「おめでとうございます」と発言した記者はなにも意識していないだろう。
私も地方の選挙取材は数多く経験し、「選挙戦おつかれさまでした」と当選者をいたわる記者の発言を耳にして気持悪かった。自分では口が裂けてもそんな発言はしないけれど、五十旗頭監督のようにそれが「滑稽でおもろい題材」と認識できる感性はもちあわせていなかった。もったいないことをした。
監督の前作「はりぼて」は、富山市議会の不正を喜劇調にあらわにした傑作だった。それにくらべると、今回の作品はわかりにくい。「忖度」があたりまえになっている社会では、その滑稽さに気づかない人が(私もふくめて)多いからだ。
私たちが骨がらみになっている「オトコ村」「忖度文化」を真正面からとりあげているからこそ、わかりにくい。わかりにくいとかんじてしまうのは、自分が忖度文化に染められているからなのだろう。
自分の忖度度合いを知るためにも必見のドキュメンタリーだ。
(能登の友人がスタッフとして名をつらねていたのもうれしかった)