「ゴールやプロセスがない学習モデル」をデザインすることは可能か
ゴールを設定してそれを追いかける生き方をやめる
一応、書籍の著者ではあるのですが、恥ずかしながら、実はあまり本を読みません。そんな私の現在の書棚がトップ画像です。
ビービットに入社したころは、もっと成長したくて色んなビジネス書を読んでいました。速読のマネごとのようなこともできるようになって、ビジネス書であれば、1冊1時間で読み切ることを繰り返し、1日何冊も読む、なんてこともやっていたのですが、ある時気づいたことがありました。
「いろいろ読んではみてるけど、大して何も使えるようになっていないな...」
書籍から頭に入れた情報がそこまで身にならないタイプなのだと思いますが、それだけでなく、身の丈に合った本を選んでいなかったり、今の自分に必要なことが書いてある本を選べていなかったり、背伸びしていたんだろうなあと思います。経営なんて自分には当時あんまり関係ないのに、経営の本を読んで高尚ぶって見たり、「ああ、ドラッカーですよね」みたいな会話に入れるようになったり。当時はまじめに「勉強しよう!」と思って読んでいたのですが、後から振り返ると本当に「何も使えるものとして残っていない」状態でした。
そんな中でも一番自分の記憶に残っているのは、「仕事は楽しいかね?」という本です。
タイトルと表紙の感じから、ビジネス書というより、モラトリアムな迷える子羊のための自己啓発本っぽく見えるのですが、非常に有名なビジネス啓発の名著です。
記憶に残っているのは、「ゴールを設定してそれを追いかける生き方をやめるべき」という言葉でした。コンサルタントになりたての私は、ゴールを設定して当たり前で、それを成し遂げて当たり前、という感覚だったので、はじめは「何言ってんだこの本」と思いました。
書かれていたのは、「時代も変わり、自分のステージや置かれている状況も変わってくるのに、過去に決めた目標をやりぬこうとするのは、単に盲目になるだけであることが多い。自分にとって良いチャンスが舞い込んでいたり、元々の目的がもっと短期で達成できる機会ややり方が近くにあるのに、『決めたことだから』と見ないふりをするのはあまりにもったいないことだ」といったことでした。
もちろんその本でも、短期で何かを成し遂げたり、皆で何かを目指したり、役割分担をしたりする際に、数値でゴールを設定することはもちろん有用だし、それは否定しないと言っています。しかし、人生に必要な機会が来たり、目的が達成できるブレイクスルーが生まれる時に、如何に元々のゴールを手放せるかが重要だ、といっているわけです。
これは未だに、自分の行動指針としても残っています。
学習にプロセスとゴールは必要か
自分に合った学習方法と、ゴール設定の話をしましたが、本当の意味で何かを習得したい時、「学習」においてプロセスとゴールを明確に決めるべきか、という問いがあります。
先週のニュースレターでも紹介した『ファンカルチャーのデザイン 彼女らはいかに学び、創り、「推す」のか』に登場する、自分でコスチュームを裁縫して創るコスプレイヤーの話が出てきます。ここでは「弥縫(びほう)」という概念を通して、このコスプレイヤーが習熟していく様子を描いています。
「弥縫(びほう)」とは、「一時のがれにとりつくろって間に合わせること」の意味だそうで、とにかく本番で間に合わせるため、コスプレ衣装を一着でも多く仕上げる生活をしているこのコスプレイヤーは「できることならうまく作れるようになりたいが、ちゃんと学ぶ時間もエネルギーもない」と語るそうです。
「ちゃんと学ぶ」という発言の裏には、「学ぶ」とは普通、「教育サービス的な手順を踏んで習得する」というプロセスとゴールがあるものだ、という想定が見え隠れしています。こうなれば一人前であり、そのためにはこの複数のスキルを身に付けなければいけない、といった考え方です。しかし、実際にこのコスプレイヤーは周囲からの依頼が増えていっており、衣装づくりは一般的に見て十分なレベルに達していると言えます。「この服やキャラをこう表現したい」という短いゴールが終わりなく更新され、プロセスが決まっていないため、「ここの縫い方が分からない」「どうしてもここがうまく行かない」といった壁に毎回ぶちあがりながら、思いつきや無理やりの抜け道で弥縫的に乗り切ります。
実践知を積み、我流で、手探りで「こうしたい」という想いを達成していく方が、成長確度も高く、アウトプットや思想もユニークになる分、学習として強いとも言えるのかもしれません。「こんな服を創りたい」「この曲をこんなふうに演奏したい」といったモチベーションが、どんどんとアップデートされていき、その実践を通して実力をつけていくわけです。
一方で、ゴールとプロセスが決まったサービス的な学習では、「習得したい」というモチベーションを元にして、通り一辺倒な技術を身に着けて満足することになるため、実際に世の中で戦えるレベルになるのかというと、学習としては弱いのかもしれません。そもそも「習得」をゴールに設定していますが、例えば楽器演奏やスポーツに、本当に「習得」は存在するでしょうか。「この曲をピアノで弾けるようになりたい」はある程度ゴールが見えるように思いますが、ショパンコンクールのようなものがあるわけですから、優勝する、コンクールに出る、といった「短期の達成目標」はあったとしても、終わりはないわけです。
私自身、ドラムも、映像制作も、全部独学であまりどこにも習いに行かないタイプでした。結果、ときおり基礎が抜けていることはあれど、「自分のスタイル」のようなものが確立されやすく、埋もれず目立つことができ、それが評価されていたようにも感じます。
学校教育的な意味合いで、テストで点を取ったり、型の決まった作業をこなすには、プロセスとゴールが明確であるべきなのでしょうが、他に埋もれずに生きていく、勝っていく、といったことを考えると、「こうなりたい、こうしたい」という偏愛や熱意のような感情をモチベーションにできているかが何より重要で、ゴールやプロセスは有機的に変化していくものであるべきなのだろうと思います。
学び直しが必要になり続ける時代に
前回、今回のニュースレターでテーマにしているのはいずれも「成長可能なのに、向かうべきベクトルがない、半永久的な体験はデザイン可能か」という話です。前回は流動的・自然発生的で中心のないファンカルチャーのようなコミュニティをデザインすることは可能かを考えました。今回はゴールやプロセスがない学習モデルをデザインすることは可能か、という問いです。
SNSや昔の2ちゃんねるのようにUGC(User Generated Contents)であれば、コンテンツがユーザによって無尽蔵に創られていく中で終わりのない体験を楽しみ続けられる例は多くあるだろうと思います。しかし学習や成長をターゲットとした場合、どうしてもゴールやプロセスが意識されてしまい、レベルや段階を固定しがちになってしまいます。
なぜこんなことを考えているのかというと、社会の向かっている方向として、如何に自分のモチベーションエンジンを見つけられるか、燃やし続けられるかが重要になってきているように思うからです。
これまで終身雇用、年功序列で、特定の技術を磨いていれば安定的に収入が得られた時代だったところから、そうした仕組みが崩れていったり、ジョブ型雇用になっていったりすると、「自分の得意なこと」を見つけ続けないといけない世の中になるかもしれません。自分が身に着けたスキルや経験に甘んじていることが出来ず、自分と時代に合った何かを見つけ、身に着けていかないといけないかもしれない。
学び続けなければいけないという強迫観念はおそらく学びの質を下げますし、一方でゴールとプロセスが固定化した資格をハンターのように狩り続けたとしても、通り一辺倒で型抜きのようなスキルでは、仕事にはありつけても抜きんでていくことは難しいでしょう。
自分の偏愛を見つけて、モチベーションを自ら燃やせる人なら良いのですが、皆が皆そういうわけではないとすると、そういう「学び直しが必要になりつづける社会」は、人によってはもはやディストピアなのかもな、と思うわけです。それを考えると、小さいモチベーションを元に、プロセスとゴールの決まっていない学習をし続けられる仕組みは、意味があることのように感じています。
コントロールせずに促すUX
まだまだ「こういう考え方が大事なのではないか」という提起しかできず、何か良い事例やUX設計手法が見えているわけではないのですが、「コントロールせずに促すUX」は、今後も考え続けていきたいテーマです。
現在どんどん市場規模が拡大しているダンススクールあたりは、スクールやダンサーが「今週はこのアイドルのこの曲を踊ります」といった形で、特定のアイドル(KPOPが多い)の曲がテーマとして設定され、それを練習したい、踊れるようになりたい人たちが流動的に集まる、といったことが起きています。メタファーとしては、フォートナイトやスプラトゥーンに近しい流動性を感じており、こういったモチベーションと流動性に何かヒントがあるような気がしています。
この記事は、隔週で限定公開しているニュースレター、"AFTER DIGITAL Inspiration Letter"で1月に公開されたものです。ご興味ある方は、以下から無料登録できますので、是非。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?