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7歳息子 発達グレー 要治療とは思えなくて。

先日7歳息子と発達クリニックに行ってきた。
目の検査のためである。

視力は悪くないはずなのに、
見えにくそうに表情をゆがめることがある。

それは5月にクリックで診察を受けた時に言われたことでもあるし、
9月の授業参観で息子を見て気になったことでもある。

正直言うと、
「この発達クリニックに通うのはやめようかなぁ」
と考えていた。
元々放課後デイサービスに通うための医師の診断書が欲しくて
行ったクリニックなのだ。
「追視」が出来ていないということで色々指導していただけるのだけど、
元々は治療を求めてはいなかった。

私は息子の特性(発達性協調運動障害の傾向があり、ややぶきっちょ。見通しを立てられない等)は
学校生活を送る上で困難を生じる(生じている)と考えている。
でも積極的に「治さねばならないもの」ではなく彼の個性だとも思っている。
もっと言うならそのみんなの「個人差」を社会(学校)は受け入れるべきだと思っている。
公教育が受け入れられないようなら、それが可能な場所に行けばいいと思っている。

でも7歳息子は今の小学校に通いたい。
少なくとも今のクラスでは、
「みんなと違うことをするのはいけない」ことだと教えている。
(もちろん公にそんなことは言わないけど、息子はその印象を毎日学校から持ち帰る)
そのような場所に息子はいたいと言うのだ。

なら私は親として、
彼が今の小学校で楽しく過ごせるように手を尽くすべきなのだ・・・

「朝の散歩」「脊椎散歩」「頭蓋骨タッピング」「目の体操」
バタバタする日常でこのすべてをこなすのは私には大変。
「お子さんのためですよ」とクリニックで言われると、
やれない自分はダメな親のような気になる。
たしかに「この程度」のことなのだ。
気持ちに余裕があれば。
フルで働きながらこれ以上のことをやっているお母さんたちはいくらでもいるもんな。
私にだってできないことではない。
夫が一切やってくれないことでもやもやしてしまうけれど。

それよりも気になること。
それは息子自身がその特性を「治さねばならないこと」と思っていることだ。
ハハがテヲツクシテおきながら本人に「気にするな」は矛盾している。
でも自分が持って生まれた性質を「治さねばならないこと」って捉えるのは何だか悲しいことではないか。

息子は「朝の散歩」は楽しそうだけど、
「目の体操」「頭蓋骨タッピング」はチリョウのためにガマンしてるっぽい。
「やらなきゃダメだ」と思ってるっぽい。

ダメなのかな?ダメなんかじゃないよ。
そのままの君でいいのに。

それでもやってる私は矛盾の塊だ。


結局この発達クリニックへの通院は続いている。
治ると言われたらそれで息子が楽になると言われたら、
止めづらい。
もし息子が重い病に罹ったら宗教とかはまるんじゃないだろうか、私。

考えは凝り固まり、
なにが良いのか正しいのかわからなくなる。




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