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原美術館様、ごめんなさい。

 1979年に開館した品川の原美術館が40年の歴史を閉じ、閉館するというので、閉館の前日に美術館を訪ねた。残念ながら緊急事態宣言直後でもあって、予約していないと入館できなかったので、外側から別れを惜しみ、建物とその庭に感謝の言葉をかけてきた。

 1980年代に始まる僕の活動に、いや、その後の他の美術館や学芸員、若い作家達にとって、それだけではなく、現在の世界の美術状況の変化に対してとても大きな影響を与えた美術館であったが、この事実についてどれほど深く語られているだろうか。もしかしたら僕が知らないだけかもしれないが、たまたま僕がリアルタイムに体験してきたことも含めて感謝を込めて僕の偏狭な視点から少しだけ記述したいと思う。

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ごめんなさい。

 まず謝らないといけないことが二つある。一つは1986年6回目となるハラアニュアルに出品した際、パプアニューギニアへ赴任する日程とオープニングが重なり、その前日、僕のためだけのパーティを開いていただいたにもかかわらず、その艶やかなアート業界特有の心地よさに反発し、展示会場の壁に「心地よくて死んでしまいそうだ!」とマジックで落書きを残して出発してしまったこと。ごめんなさい。

 そして、その時、ボロボロに窶れたゴジラの着ぐるみを原美術館の裏庭の大きな植物の下に埋葬させてもらったこと。今更ですが、ごめんなさい。とても個人的な物語とモヤモヤを吐き出させていただき、あの建物に失礼な下品な作品を展示させていただいたこと。本当に失礼しました。

 今考えると、床に敷き詰められたプリントといい、飲みかけの赤玉ハニーワインといい、勝手に手にとって観れるようにしてもらった冊子の展示といい、展覧会を管理する側からすれば、迷惑な展示だったのだろうなとつくづく思う。しかし、それを嫌な顔ひとつせず、むしろ暖かく見守ってくれて、本当にありがたいことです。ありがとうございました。

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80年代の若手作家を開拓したハラアニュアル

 原美術館が開館した1979年は僕が京都の美術大学に入学した時、当時はまだ日本画や洋画、陶芸や染織等工芸、そして70年代全盛だった版画を扱う画廊が主流で、新しい現代美術を扱うギャラリーは少数で、ようやく若手作家に注目され始め、熱を持ち始めた時期だったと思う。その影響もあり、ホワイトキューブと呼ばれる画廊空間をキャンバスとして、空間全体にイメージを表現する手法、インスタレーションが僕ら学生にとっては当たり前になり始めていた。そんな中、若手作家の登竜門とされていたのが横浜の今日の作家展と原美術館のハラアニュアルだったと記憶する。

 1985年大学院を修了する年に多摩美術大学の企画する「TAMAVIVANT 」と横浜の「今日の作家展」に出品する機会を得たが、美術評論家が人選に関わっていて、あとは学生や学芸員や運送展示業者は一緒に展示をつくった記憶はあるが、美術館のキュレーターやコーディネーターと一緒に展示をつくるという体験をしたのは86年のハラアニュアルが最初だったと思う。僕は逆にそこからはじまってしまったので、それが当たり前なのだと勘違いしてしまい、また別の新たな美術システムを求めるようになったのかもしれない。

ホワイトキューブが表現の現場だった80年代

 過去の資料を読み解いてゆくと、日本における80年代はホワイトキューブにインスタレーションという手法で「空間に表現すること」が美術表現の前提となった特殊な時代だったのではないかとあらためて思う。絵画や彫刻の問題も額縁の中や台座の上の問題としてではなく、空間を作り出す一部のコンテンツの問題として捉えて直す視点も芽生えていった。(この辺りは多くの専門家が論じているのかなぁ)

 僕らの多くの先輩たちからは、作家として活動を継続するために、公募展や団体展へ出品することが当たり前だと教えられ、あるいは作家同士で団体をつくり、公共施設や空間で体制に反発するような前衛的な活動を行ことを見せられた。しかし、僕らの世代以降その流れは断ち切れる。あたらしい公立の美術館でもアニュアル展が企画され、作家個人が自由に展示できる空間がギャラリーや美術館、商業施設やメディアの中に用意されるようになっていった。その源流に原美術館があった影響は大きかったのではないだろうか。そしてその後、さらに様々な質のオルタナティブな空間が発生し、活動の現場は多層に広がり始める。

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アートシーンを牽引する企業と建築家

 1986年から88年、僕は残念ながらバブル期に向かう日本の美術状況に立ち会うことを避け、パプアニューギニアからの視点で表現を学び直すことにして、日本の状況を俯瞰していたが、その時期はそのあとの日本の美術状況を方向付ける重要な変化の時期だったような気がする。日本経済を牽引した日本企業の商品やブランドイメージとともに日本のアーティストも注目され、当時の友人や後輩達が海外でも活動するようになる。

 僕が日本に帰国した1988年、群馬県の伊香保に磯崎新が設計したハラミュージアムアークがオープンする。僕が目指す美術表現を模索する為に、空間を成立させている建築や都市、あるいは地域の問題からの美術表現のアプローチを志し、基礎から学びなおそうと都市計画事務所に働き始めた時期と重なる。ハラミュージアムアークでは89年と90年の夏に勤め先に長期休暇をもらい、勤め先で抱えている世界食料銀行の問題をテーマにした公開の滞在制作をさせてもらったが、ハラミュージアムアークとほとんど同じ展示室の構造を持つ水戸芸術館が90年に開館し、ハラミュージアムアークでのプロジェクトを引き継ぐ形で91年、水戸芸術館で展開させてもらったりした。実は磯崎さんが作ったこの二つの美術館は僕の作家歴と並走してくれていて、空間の面からばかりでなく、運営の面からも語りきれないぐらいの大きな影響をうけている。アーティストインレジデンスと呼ばれる制度が日本に定着する前の美術館の空間は、作家が滞在しながら表現を実現する現場だった。

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地域での草の根アートプロジェクトへの影響

 それと、あまり知られていないことかもしれないが、作家が滞在しながらその空間で制作することに対して若手作家であっても数十万のギャンティを支払うという先例を作ったのも原美術館だったと記憶する。ハラアニュアルでの作家へのギャランティがその後の福岡でのミュージアムシティプロジェクトの基準をつくり、その影響は90年代の様々な地域で行われるアートプロジェクトへも影響を与えて行った。

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 それと原美術館が企業の財団の運営する現代美術のスマートな美術館であったということは80年代半ばに大きく成長する新しい企業にも大きな影響を与えているように思う。近代の芸術作品と企業のつながりでいえば資生堂や西武、ブリジストンなどが有名だが、85年に開館したワコールアートセンターの運営するスパイラルや92年に福武財団が開館したベネッセハウスは明らかに現代美術の為の空間としてつくられ、先駆的な若手の作家に資金や空間の提供だけではなく、作品制作にその企業のスタッフが並走するという態度を持つという大きな流れをつくっていった。それが90年代以降のトヨタアートマネジメントやアサヒアートフェスティバルに連鎖してゆく。

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 ところで、品川の原美術館の庭にはまだ僕の京都の芸術大学の大学院の修了制作作品「ゴジラとハニワの結婚離婚問題」のかたわれ、ゴジラくんが埋まっているのだろうか。もう一つの片割れのハニワさんは紆余曲折のあと、西山にある京都の芸術大学の池の中にしずんだままになっている。そこも東山の京都駅前に移転する計画がある。そろそろ引き上げに行かなければ池も埋められてしまうのかな・・・。その作品こそがまさに近代の美術が作ってきた制度に対しての違和感を表現し、その後の40年の活動の転換点となった記念碑的なものなのだと思うのだけどなぁ。誰も語ってくれないので自分で語ってみました。



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