雑記2

突然だが、私は性的マイノリティである。とは言っても、私を知る人は「結婚もして子供も二人もいるのに何を馬鹿なことを」と思うだろう。これは私も全く予想外のことではあったが、これから綴る内容を読んでもらえたらなんとなくわかってもらえるのではないだろうかと思う。
そして、島に在住する性的マイノリティの人々に、私のようなケースもあるよ〜というのを分かってもらえたら嬉しいし、今悩んでいる人の参考になればと思う。

知った人の性的嗜好の話など、シラフではあまり聞きたくはないだろう。今回はあまりセンシティブ過ぎる内容は書かないつもりだ。私が他人のどういった箇所が好きだとか、そういう話をしたい人は、仲良くなって酒を酌み交わすようになった時に話したいと思う。そんな人はいないと思うが。


前回の内容を読んでくれた人なら、幼少期は孤独で常に自己との対話と言う自問自答を繰り返していた私の様子は簡単に想像がつくだろうか。雨の日には雨音に耳を傾けその様子を詩にしたためるなどという、凡そ小学生らしからぬ変人であった私は、知的好奇心の赴くまま、そのへんに落ちていたエロ本もめくって読んでいたものだ。昔は本当にそのへんの茂みにエロ本が落ちていたと思う。今では考えられないことだ。そういったこともあり性的なものへの知識を得ることになんの疑問も抱かなかった私は、他の教科の勉強をするのと変わらないように保健室の書物にも関心を示した。今思えば変人かつマセたガキだったと、周囲の大人も思ったことだろう。保健の成績が良かったことを恥ずかしく思うこともなかった。

そうして思春期を経て男女の性的な違いなど体のつくりを知る一方で、自身の違和感に少しずつ気が付いていった。私は生物学上女に分類されるが、周囲の女子達とは考え方も全く違い、かと言って完全に男性的かと問われれば頷くこともできなかった。この頃から、「自分とは?」という自問が始まり、自答が返ってくることはしばらくなかった。思春期によくある自問だが、一般的にはそこに性自認が含まれることはないそうだ。自分が女である、男であるということは、一般的には当たり前のことで疑問にすら思わないのだと。忙しい親よりも距離感の近かった友人たちに聞けば、そういうものらしいということだけはなんとなく察しがついた。友人たちも色恋ごとより趣味に生きる人達が多かったので、好きな人の話になりにくい関係に居心地の良さを感じていた。他の同級生はやれ誰かが誰かを好きだの、誰それが付き合っているだのと、野生育ちの私には目まぐるしい青春を送っていたようだった。


こんな私だが、今まで誰のことも好きにならなかったのかと問われればそんなことはない。しかしそのラインナップ、というと語弊があるが、相手の性別が本当にバラバラだったのだ。スポーツマンの男子同級生、可愛い女の子、自分と同じような性自認の子など、本当に幅広かった。節操がないというのかもしれない。そのどれもが実らなかったという悲しい事実だけが共通している。泣いてはいない。今は。

そもそも、人を好きになるとは一体なんだろう。私の場合、一目惚れということは全く無い。ある程度の関係を築き、相手の人間性を見て、尊敬し始める所からがスタート。友人になるまでが長いタイプだと思う。深く狭く関係を築いてしまいがちで、一度身内に入ると依存度が高くなってしまう。大事に思いすぎで重すぎる感情を抱えてしまうので、友人たちにもあえて連絡を密に取らないようにしている。すまない。その重すぎる友愛から尊敬になり、そこから恋愛になるので激重だ。だから好きになった人数というのはそんなに多くはない、と思う。当社比。

だからこそ、私は性別の重要度が低いのだと思う。性別よりも相手がどんな人なのかが、私の中では最重要項目なんだと思う。


さて、ここまでは相手の性別に関することだったが、話を戻して自身の性自認だ。好きになる相手が男女問わない場合、それは両性愛者ということになる。多分私はそういうことになるだろう。しかし、私自身では『女に生まれたけど女だとは思っていない。しかし男でもない』と思っているので『ノンバイナリー』ということになる。ノンバイナリーとは男女二元論に囚われないということらしい。先程名前を調べた。なるほど。学生当時はまだまだLGBTsに対する見方は厳しく、そもそもこんな名前は無かったか、知名度が低かったと思う。当時私は自分のことを『無性』だと言った。しかし今日は無性、無性愛者とは『アセクシュアル』と呼ばれ、そもそも他者に性的に惹かれない人のことを指すそうで、これは私の認識違いであった。私に当てはまる『ノンバイナリー』は『第三の性』とか『クィア』と呼ばれるらしい。カッコいい。

私は自分が「ノンバイナリーである(当時自称していたのは『無性』であったが)」と結論付けたのは、「自分とは?」という自問からしばらく経ったときのことだった。当時高校生だった私は、友人と自身の性自認について話す中でその方向性が定まってきていた。周りの女の子たちと自分は違う。かといって男子とも違う。そして好きな相手は生物学上女でありながら性自認は男という、まあなんとも複雑怪奇な状況のなかで、何となくこうだろうと理解した。私は性別よりも、人間性を見ている。相手も、自分も。ストンと収まった性自認は、今でも私の核となっている。私は性別はともかく私という人間なのだと。女でも男でもなく、私という人間なのだと。胸を張るでもなく、後ろめたく思うでもなく、そう自然に思っている。私はそんな人間だ。


私が住む種子島では、まだまだそういった性的マイノリティへの理解が進んでいない。そもそも日本で僅かに進み始めた程度のものが、田舎でそう簡単に爆速推進していくはずもない。実際、子どもたちに「なんで男の格好してるの?」「男になりたいの?」と無邪気に質問される。昔は男になりたかったね〜と笑いながら、「こういう格好が好きだからだよ」と答えると、ふ〜んと興味なさそうに返事をされる。子供なんてそんなもんだ。それでも、令和になってから』好きだったらいいよね』というような雰囲気のお陰でだいぶ生活がしやすくなった。子どもたちの理解も早い。そういう流れを加速できるよう、これからもメンズファッションを続けていくつもりだ。


思春期前の子どもたちがもしこれから悩む事になったとき、「なんか変なやついたな、相談してみるか」と思ってくれたら万々歳。そうでなくても、「あんなやつがいたから大丈夫か」と思ってくれたら幸いだ。


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