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老人会の「高齢化」笑えぬ課題です

老人会の会長をしている。会員数は200人を誇るが、老人会の高齢化という笑えない課題に直面している。中心になっていた人たちが80歳を超え、体力的に活動が難しくなってきたのだ。この1年間でも活動家3人が退かれた。「若返り」をはかりたいが、60歳代は働いている人が最近は多い。私たち70歳前半が支えなければならなくなっている。

80歳代は戦争を生き延びた世代だ。年齢的に軍隊にはいかなくてよかったが、幼少期に食糧難による飢餓や空襲を生き抜いてきた人たちだ。たくましく生命力も旺盛である。この人たちの体験談は真に迫っている。

広島原爆について、ある女性は「学校で朝礼しているときにパッと光ったので、地面に伏せた。家に帰ると、広島で大けがをした人を2人ずつ預かってくれという命令が各家にあったみたいで、うちでも2人預かったの。女の人の髪の毛がごそっと抜けるのも見た。近くの海岸では遺体をどんどん焼いていた。恐ろしいことよ」
違う女性は「父は印刷の仕事をしていた。ある日、憲兵がやってきて印刷の機械を供出せよと命令する。これがなければ仕事ができず、明日から、ご飯が食べられなくなると、父は必死で頼んでいたけどダメだった。ひどい話でしょう。でもね、仕事ができなくなったので、私たちは郊外に転居したから原爆に直撃されなくてすんだ。何が幸いするか分からないね」

本で読むのと違って体験者から聞くのだから生々しく、数年前に聞いた話でもこうしてすぐ文章にできる。そういうすごい体験をしてきた世代は助け合わなければ生きていけなかった。老人会の活動にも熱心だ。助け合いの心が幼いころからしみついており、生きるすべとして普通に行動できるのだろう。

この世代が戦後日本の高度経済成長を支えたのだと思う。団塊の世代は戦後直後の生まれで、成人後は日本の史上はじめて「核家族」となった世代である。農業社会では労働力が必要なので3世代同居が普通であり、田植えや稲刈りでは隣近所が協力しなければできなった。助け合わなければ生きていけない社会だった。それができない人は村八分で排除された。

しかし、工業社会になると、都会に人々が集まり、夫婦に子ども2人が統計上の標準家庭となり、核家族が普通になった。農業のように隣近所の助け合いも必要なくなった。集団より個人を大事にする。そのあとに生まれた私たちは、もっと個人主義が進んだ世代だろう。個人主義が悪いのではないが、助け合って生きていくという考え方が希薄なので、老人会に限らず自治会(町内会)も最近は衰退が目立つのだ。

これに加えて60歳代は働いている人が多い。年金だけでは暮らせない、少しは蓄えはあるが将来が不安、まだ元気なのだから働かないともったいないーー理由はいろいろだが、この10年で変わった老後の姿である。老人会で副会長をしている男性も70歳近くになっても働いており、役員会に出席できないことが多い。私のように70歳代の前半が活動の担い手にならなくてはならないのだが、この年代は、助け合い精神は乏しいから、そう簡単には役員になってくれない。ずっと働いてきたから退職後はゆっくりしたいという人も多い。老人会の活動は次第に停滞していく。自治会でも同じことが起きている。

なぜ私は会長を引き受けたのか。仕事をしているときは、近所づきあいなど全くしていなかったが、退職間近で閑職だったときに、自治会長をする羽目になった。役員候補は順番で決まるのだが、その中から会長を互選するのに、誰もやりたがらないからいつまでも決まらない。くじ引きで決めようとしても、もし当たったらと不安な人たちが、できない理由を並べ立てて反対する。めんどくさくなって私がやると言ってしまった。

やってみれば結構楽しい。初めて知り合った人たちが任期の2年間はお互いに助け合って自治会を運営していく。これがけっこう楽しい。80歳代は生き延びるために助け合った人たちだが、私たちにはそういう過酷な体験はなく、サークルの乗りでやる。それが自分では楽しかったので、老人会の会長も指名されたら抵抗なく引き受けた。

2年の任期は今春で満了となるが、再任は妨げないとの規定があるので、前任者にならって、不信任が出なければ、あと2年は続けることになりそうだ。この間に、後継者をみつけ若返りを図らねばならない。もうひとつの課題は男性の参加を増やすことだ。いろいろな催しに女性の参加は多いのだが、男性は少ない。女性と同じくらい男性が参加してくれれば、課題の多くは解決できる。家に閉じこもり、暇を持て余している男たちを引っ張りだす方法はなんであろうか。


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