高校世界史の単性論の扱いが間違っている

三位一体説に関する問題の出題ミス


「受験世界史悪問・難問・奇問集」を毎年楽しく読ませていただいているが、2023年の記事で三位一体説に関する出題が取り上げられていた。

慶応義塾大学法学部の入試問題で、キリスト教の三位一体説に関連する問題が出題されたが、正解とされる選択肢は出題ミスに近く、誤った情報に基づいているという。高校の世界史教科書も同様の誤りを犯しており、古代キリスト教の神学論争を教科書執筆者も十分に理解できていないことが記事の中で指摘されている。

出題された問題は、三位一体説が正統教義とされたことへの反発から分立したキリスト教会が何かを問うていて、正解の選択肢は「コプト教会」とされている。コプト教会はいわゆる非カルケドン派の教会なので、出題者の理解ではカルケドン公会議での決定を拒絶して分立した東方諸教会を「三位一体説」への反発としているが、ブログ記事の筆者が指摘しているとおりこれは誤りである。

カルケドン公会議で分立した東方諸教会は「単性論」派とも呼ばれているが、世界史の教科書も誤った説明をしているという。そこで、何がどう間違っているか、どのように理解したらいいかをこの記事では整理したい。

高校世界史教科書の「単性論」理解

といっても手元に高校世界史の教科書がなく、大人用の『もう一度読む山川世界史』しかないので、これを参照する。ブログ記事で引用されていた他の教科書の記述も似たようなものなので十分だろう。

単性論に関する記述は以下である。

キリストに神性のみを認める単性論は、451年のカルケドン公会議で異端とされましたが、単性論派はその後エジプトのコプト教会・シリア教会・アルメニア教会を形成して存続していきました。
『もう一度読む山川世界史 PLUS ヨーロッパ・アメリカ編』P35

確かにこれはまずいというか、端的に言って誤りである。

単性論を「キリストに神性のみを認める」と説明してしまうと、キリストの人性を認めないように読めるが、そうではない。単性論はキリストの人性も神性も認めるが、その本性が一つになっていることを主張する立場である。

キリストに神性のみを認めるのはたとえば仮現論があるが、仮現論はキリスト教の最初期からすでにあった考え方で、2世紀前に成立した「使徒信条」の中ですでに拒絶されている。これは三位一体論が議論されるよりも以前の出来事である。

上記の説明は単性論を仮現論と混同させるようなものになっていて、誤解を招くどころか最低限の用語も抑えられていない。

三位一体論とキリスト論

まず区別しておきたいのは三位一体論とキリスト論である。三位一体論に関する論争はニケーア公会議(とコンスタンティノポリス公会議)でほぼ決着が着いたが、カルケドン公会議で扱われた単性論はそこから派生したキリスト論に関する議論だった。

三位一体論はキリスト・父なる神・聖霊の三者がどのような関係にあるかという問題を扱っていた。子(キリスト)は神、父は神、聖霊は神、しかし神が三つあるのではなく、神はただ一つである、というのが三位一体論である。

325年のニケーア公会議ではアリウス派が異端とされたが、アリウス派が斥けられたのは、「キリストが存在しない時があった」つまりキリストが神に創造されたものであって神とともに永遠に存在するものではないという点で、三位一体論と相容れないからだった。もしキリストに存在しない時があるとしたら、キリストに神性があるとしてもその神性は父と同質ではないということになる。すると父が神であるのと完全に同じ意味ではキリストは神であるとは言えなくなるのである。ニカイア信条にはこの点を明確にするために、キリストは「造られたのではなく生まれた」と宣言されている。

ニケーア公会議での争点が三位一体論だったのに対し、エフェソス公会議とカルケドン公会議での争点はキリスト論だった。父、子、聖霊それぞれの位格が神であること、またキリストが神であり人であることはキリスト教会の間ですでにコンセンサスが得られた。では次に、キリストという一つの位格の中で、神性と人性という二つの本性がどのように結合しているのだろうか。ここに関心が移ったのである。

分離か、混合か、そのどちらでもないか

大切なのは、エフェソス公会議で斥けられたネストリウス派も、カルケドン公会議で斥けられた単性論も、三位一体論に関しては認めており、キリストの内で神性と人性がどのように結合しているかという点で、異なる見解を持っていたということである。

神性と人性の結合、これはどういう問題かというと、たとえばキリストが福音書に書かれているように受肉し、人としての生涯を生きていたときに、キリストの内に神性と人性がどのように併存しているかという謎に説明を与えようとするものである。二重人格のように神の人格と人の人格が同時にあるのか、ある行動は神としての行動で別の行動は人としての行動なのか、はたまた一つの人格に統合されているのか。

キリストの内にある神性と人性がどのように結合されているのか、という問いに対して答えるアプローチは大きく3つある。

  1. 神性と人性が分離されている

  2. 神性と人性が完全に結合し区別が消滅している

  3. そのどちらでもない

結論から言えば、公会議で認められた正統な理解は第三の選択肢「どちらでもない」である。カルケドン公会議で宣言された信仰基準によれば、キリストの二つの本性(神性と人性)は「分離せず」「混同せず」、一つになっているがその区別は廃棄されない、とされている。キリストの内で二つの本性が一つの人格となって存在しているが、その結びつき方に関しては極端でわかりやすい説明を避けるというのが正解で、これ以上単純化した説明を求めるべきではないという線引きを明確化したのがこの公会議だった。

431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は、神性と人性を「分離した」として斥けられた。

451年のカルケドン公会議で異端とされた単性論は、神性と人性を「混同した」として斥けられた。高校生向けのシンプルな単性論の説明は、もしそんなものが可能だとしたら、神性と人性がキリストの内で完全に結合されて一つの本性となっているという立場である。しかしカルケドン公会議で分立した非カルケドン派の人々が擁した「単性論」というのはそれほど単純に説明できるものではなく、むしろカルケドン公会議の「分離せず、混同せず、しかし区別は廃棄されず」という宣言が、すでにして神性と人性の区別を強調しすぎていることを危惧したのだという。事態は複雑である。そもそもカルケドン公会議から分かれたシリア教会などは自分たちのことを「単性論派」の教会だとは言っておらず、それは不当な非難だとしている。

なぜ三位一体論とキリスト論を区別することが重要か

ニケーア公会議で決着のついた三位一体論と、カルケドン公会議で論じられたキリスト論を区別することは重要である。というのも、ここを区別しておかないとキリスト教で現代行われている超教派の対話が理解できなくなるからである。

キリスト教の大きな分裂といえば、11世紀のカトリック教会と東方正教会の分裂が思い起こされるが、カルケドン派と非カルケドン派の分裂は5世紀である。日本国内で普通に「キリスト教」といえばカトリックもプロテスタントも正教会も全部カルケドン派であるため普段は意識しないが、世界には非カルケドン派の教会があり、別の歴史をたどっている。

近年、キリスト教で教派を超えた対話が盛んに行われている。プロテスタント教会とカトリック教会、カトリック教会と東方正教会のみならず、カルケドン派と非カルケドン派の間でも行われている。

しかしキリスト教会にとって「対話の成立しない相手」というのがいる。それが異端と呼ばれるものであり、たとえばカトリック教会と末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の間で対話は成立しないし試みられることももない。

そして別の教派でも対話が可能かどうかの重要な基準となるのが、三位一体論、あるいはニケーア・コンスタンティノープル信条である。異なる教派が対話しているということは、少なくとも三位一体論においては合意があるんだな、と理解できるのである。異端が悪いとか良いとかではない。そうではなくキリスト教会が異なる教派と対話をするとき、最低限これだけは合意できないと対話不可能というラインがあるということである。

非カルケドン派の教会を「三位一体論への反発から」分立したというのは、現代のキリスト教を理解する上でもたいへん雑な理解と言わざるを得ないだろう。


参考文献

  • 『キリスト教史 上巻』(フスト・ゴンサレス)

  • 『キリスト教思想史Ⅰ』(フスト・ゴンサレス)

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