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小沼丹、極限の枯淡 [小沼丹『ゴンゾオ叔父』幻戯書房/2019]

気づかないうちに、小沼丹の本が6冊も出ていた。小沼丹は講談社文芸文庫さえチェックしておけばいいと思っていたら、幻戯書房の銀河叢書というレーベルから刊行されていた。出た6冊いずれも未刊行作品で、未知谷から出た全集から漏れているものを収録したようだった。

もっとも好きな小説家は誰かと問われれば、私は、「小沼丹」と答える。
小沼丹の何が好きなのかと問われれば、「文体」と答えるだろう。
小沼丹の筆致が紹介されるとき、それは、ユーモア・ペーソスのある、滋味あふれる、軽妙な、といった言葉で表現される。使われている言葉は平易で、きわめてシンプルな文章だが、硬質に寄らず、ふんわりとした優しげな佇まいがある。そして、そこには知的で洗練されたチャーミングさも兼ね備えている。

さらに絞って言えば、その文章が極限的に枯淡であることが私にとっての小沼丹の魅力となっている。
それは肩の力が抜けたとか、ほのぼのしているとかいうレベルではない。徹底的な、意図的な淡白さだ。シンプルで淡白というと味気ないと思われるかもしれないが、優しげな佇まいに反し、淡さそのものがきわめて強靭。いわゆる「私小説」にも関わらず、生活感が一切ない。この作家の短編小説群はまるでエッセイかのようにごくごく普通の生活を綴ったものがほとんどだが、そこに描かれているのは生臭さがまったくない淡い世界で、日々のなにげない日常のはずなのに、現実を描いている話だととうてい思えない。この世とは思えない。実際、半分、あの世に片足突っ込んでる話だと思う。

これは文体だけでなく、内容や構成もあいまってかもしれない。さっきまで話していた人が次の行でいきなり死んだり、実はだいぶ昔に死んでいて、今語られていたことは回想だったことがわかったりする。
変な例えだが、小沼丹の世界では『仁義なき戦い』くらいの速度アンド頻度で人が死ぬ。(※世界観は真逆です)
描かれるのは失われたものたちで、小沼丹の創作のベースは、永遠に失われた、過ぎ去っていったものたちへの思いにあるのだと思う。

私にとって小沼丹の描く世界は、戦前の無声映画の上映のようにイメージされる。
写っている風景自体はモダンなものなのだけれど、劣化やキズで掠れた映像は所々コマが飛び、しばしばがたがたと揺れて見づらく、損傷が多い場合はシーンが結構長く飛んでしまったりする。登場人物たちは口をぱくぱくして何かを喋っているようなんだけど、そのメッセージを伝えるのは一瞬しか表示されない簡単な字幕だけで、現代の私たちは彼らの言いたいことすべてを知ることはできない。こうやって無声映画を見ているとき、一番重要であるはずの映画のストーリーはなぜか背景に退き、スクリーンに映し出された「現象」とそれを通した過去の世界だけが浮かび上がって、ずっと昔には、ああいう人たちが、ああして生きていた時間があったんだなという間接的な「思い出」だけが浮かび上がってくるように感じることがある。出演している俳優たちも、映画を作った人たちも、とっくの昔にこの世を去っている。映画が終われば「思い出」は消える。


小沼丹がこのような作家になったのは、最初の妻を亡くしたことなどによる諦念からきていると言われている。……という話を聞いたことがあるが、そうなると元々は違っていたということになる。幻戯書房から刊行された6冊のうち、『ゴンゾオ叔父』は初期作品集で、ここには文章が淡白になる前の10作品が収録されている。読んでみると、初期の文章は装飾的で、誇張や感傷の度合いが強い。話自体もクドめで、のちの作品にあるような垢抜けた佇まいやこの世ならぬ気配はない。

『ゴンゾオ叔父』巻末に収録されている中村明氏による解説「小沼文学の原風景」には、収録されている作品はいずれも「習作」で、後々、ブラッシュアップされた別題の「改作」が発表されている旨が書かれている。確かに「この話、別の作品で読んだな」と思えるモチーフがいくつかあった。表現に生々しさのある初期作と飄々とした後期作では、モチーフが同じでも味わいがかなり違っていて、初期作品だけ読んだとしたら、惹かれなかっただろうなと感じた。
解説で興味深かったのは、「習作」と「改作」でどのように内容や文章が改変されているのか、簡単にではあるが具体例を挙げての比較がされていたことだった。内容自体の改変は措くとして、文章でどのような改変なされたか、それを私なりにざっくり要約すると、改作時に以下のようなブラッシュアップを行なっているようだった。

(1)時代性の強い言葉(歌謡曲の歌詞等)をカットもしくは改変する。
(2)漢文調・文語調の硬く格式のある文章、欧文の構文風・英文直訳調の文章は用いない。
(3)感傷的な強調表現、大仰・極端な表現、持ってまわった用語を用いない。
(4)紋切り型などの手軽な形容表現、また逆に抽象的な概括は用いない。

中村明氏はこの変化を「総じて、気負った若書きが消え、洗練されて飄逸の表現へと向かう」と書いている。

極端さ、安直さの排除は、一見、至極普通のことのように思えるが、小沼丹は徹底していると感じた。
本書の収録作品は年代順になっていて、最後に収録されている「テンポオ翰林院」では文体がだいぶ後期作品に接近してきている。と、私は思ったんだけれど、改作「昔の仲間」ではそれでも余分と判断した表現を直している。極端さや安直さといっても、文章として稚拙だったり安易なものだけを切っているわけではなく、「エクスクラメエシヨン・マアクを三つばかり必要とするやうな口調」のような、周囲の文章を鑑みてもこれくらいはありえるのでは?と思える表現も改作ではカットしているという。単純に排除していくと読み味の豊かさ、つまりユーモアやペーソスも同時に飛んでしまうように思うが、抜いてもちゃんと、作品自体はチャーミングになっている。おそるべきセンス。


これらは引き算的な文章洗練だけど、後期作品では逆に独特で印象的な文章が出現するようになる。
たとえば、「吃驚した。」「閉口した。」「可笑しい。」等、心情の言い切りでブツっと終わる、特徴的な文末。細かい描写をせず、一言で言い切りだけをするところにニュアンスを感じさせて、私もこれを真似したいのだが、無教養の浅はかさ、どうにも心象を一語に出来ずに「〜と思った。」で終わることが多く、ただのアホ感想丸出しになっている。
それと、「〜かしらん?」で終わる文末。可愛くて、とても好き。都会育ちの教養のある男性っぽい雰囲気。藤子不二雄のキャラクターたちもこういう喋り方をするように思う。
そして、もうひとつの大きな特徴は、会話文をカギカッコ(「」)で括らずダッシュ(−)で起こすという点。ダッシュの線のあいだに、書き手がその会話を交わした相手を思い出している時間が経過しているようなイメージを受ける。文章が回想っぽく感じるのは、会話文が全部ダッシュ起こしがそう思わせるのかしらん?

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