見出し画像

フォークソング部がフォークやらない問題

バンドマンとして活動していると、大学生時代フォークソング部に所属していたというバンドマンに出会う機会がある。
そして彼らは二言目に「まぁフォークソング部といってもロックしかしないけどね。」と言う。
どうやら、日本の大学には大抵フォークソング部はあるもののほとんどロックをしているようだ。

確かにフォークと言っても、ボブディランもエレキギターを持ちライクアローリングストーンなどのような名曲を産み出しているし、日本にもサニーデイ・サービスのようなフォークロックのカッコイイバンドがたくさんある。

軽音学部がフォークロックをするように、フォークソング部がフォークロックをすることに大きな違和感はない。

しかしながら現実はそうではない。何故かわからないが、世のフォークソング部を名乗る大学生はやたらシューゲイザーやらメロコアパンクなどをやりたがる。

誰が始めたのか。どうしてそのままなのか。

本人たちに聞いてみても「昔からそうだった」「先輩の演奏がかっこよかったから入部したが、考えたことなかった」など、まともな答えが返ったことがない。

いい加減、この問題について本気出して考えてみるべきではなかろうか。

俺はフォークソング部とは無縁だったので、外野から考えた推測にはなるのだが、実は学生運動が関係しているのではないかと考えている。

元々、フォークの思想としては耳に聞かせるのではなく、口に歌わせる音楽だったようだ。

フォークは差別問題や資本主義を歌い、それに共感した聴衆たちはそれを自分の言葉として口ずさむための音楽だったようだ。ボブディランなどはその代表格で、「生きづらい社会からの隠れ家においで」と、女性が優しく語りかける現代社会へのプロパガンダ的な内容を詩的に歌ったりなどして、聴衆を魅了した。

日本でも森田童子など、革命派、社会主義的な音楽として有名だし、四畳半フォークなどもどこか貧困の中で資本主義から外れた価値観で生きている音楽のように感じる。

ただ、そのようなプロパガンダ的な表現をしている音楽はフォークだけではない。

当時を思い返すと、頭脳警察などのような現代社会を批判するロックンロールもフォークと同じような役割を果たしていた。

また、浅野いにおの漫画に出てきたことからあまりロックの歴史に詳しくない人でも一度は耳にしたことがあるはっぴぃえんどの風をあつめてなども、ビルが建ち、都会になっていく街を寂しく思う曲で、フォーク的な味わいがある。

この辺りでフォークソングをしていた人間が「ロックもいいよね」となったのではないかと予測される。

そしていつしか「ロックもいいよね」が「ロックやりたいよね」になり、「ロック頑張ろうね」となり、それが行きすぎた結果どの部活よりも歪ませるまでに至ったのだと思う。

轟々と鳴るファズギターにツーバスドラムなど、「フォークソングとは一体…」となってしまった昨今だが、もしかしたらいろいろ歴史があったりするんだ、うなと思う。全部妄想だけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?