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心が温かくなった日

いつも通り。今日もそう思いながら仕事を始めたはずだった。

「熱っ!!」

高齢者のデイサービスで働いている私は、目の前にいる大勢のお年寄りに、いつも通りお茶を入れていた。

もともと、内気で人と接することに苦手意識を持つ私には、日替わりで何十人と訪れるお年寄りと世間話をすることも、大きな声で元気に動き回るスタッフの人たちと連絡事項のやり取りをすることも、上手にできない。なかなか就職が決まらず焦っていた大学4年の冬、ただ事務職というだけで応募し、やっと勝ち得た内定に飛びついた結果がこれだった。これはもはや事務職というより苦手とするサービス業だ。
今では毎日のルーティンの中で最も大切なのが「いつも通り、いつも通り。大丈夫。大丈夫」という自己暗示となっていた。

今日はそんな自己暗示も役立たずで、いつもより早いペースで送迎車が到着し、お茶を入れるのが間に合わない。そんなに慌てなくても良かったのに、いつもと違う、それだけで私は完全にパニックに陥っていた。慌ててポットに手をのばし右手指に熱湯をかけてしまったのだ。

急いで水道水で水をかけて冷やす。冬の水はキンと冷えていて気持ちがいいと感じるほど指がほてっているのが解る。このままこうしていたいと思ったが、次から次へと到着するお年寄りを放っておくわけにもいかず、じんじん痛む手を無視してお茶を入れてフロアを回りだした。

なんだか、いつにも増して帰りたい気持ちでいっぱいだ。泣き出したりしないようにぐっと顔面に力を入れてフロアを回り、やっと空になったお盆をもってカウンターに戻ってきた。

「はい、保冷剤」
顔をあげるとお迎えから戻ってきた介護士の村田さんが、小さな保冷剤をペーパーにくるんだものを私に差し出している。
「えっ?」
「あれ?火傷したんじゃないの?さっき看護師さんが、車戻したついでに厨房でもらって来いっていってたから」
村田さんはフロアにいる看護師の山川さんを顎で指してそう言った。
「あっ、・・・ありがとうございます」
「ん、焦んなくていいから気を付けてね」
そう言って慌ただしくフロアに出ていく村田さんを、驚きの目で見送りながらもらった保冷剤を指にあてる。村田さんは背が高い上に無口な男性で、私が苦手な介護士さんの一人だった。けがをしているせいだろうか。いつもより穏やかな表情で接してくれたように見えて、怖く感じなかった。ひんやりとした保冷剤がとても気持ちがいい。

指に保冷剤をあてながら、朝のバタバタするフロアをフォローしていると、後ろから声をかけられた。
「片桐さん、お待たせ。指見せて」
振り返ると山川さんが立っていて、手に持っていた血圧計などを片付けている。
「あっ、・・・山川さん。あの、保冷剤ありがとうございました」
「いえいえ。水でちゃんと冷やしてるみたいだったから大丈夫かなって、後回しにしちゃったんだけど。ごめんね、水ぶくれとかなってない?」
私の手を取って、しみじみと指を見るとホッとしたように手を放してポーチから絆創膏を出した。
「表面だけで済んだみたいだね。これ貼ってとりあえず様子見ようか。あんまり様子がおかしい時は病院行ってちゃんと見てもらいな?」
そう言って慣れた手つきで絆創膏を指に巻いてくれる。
「はい、これ。念のため何枚かあげるから必要なら交換して清潔に保つようにね」
差し出された絆創膏は、会社で購入している安いものではなく、傷が治りやすいという謳い文句の良いやつだ。
「えっ、でも、これ、私物なんじゃ」
「いいの、いいの」
ひらひらと手を振ると山川さんもあっという間にフロアへと消えていく。山川さんは目が早い。他の人が気づかないような、お年寄りの体調の変化も目ざとく見つけて対応する。あれだけバタバタしていた朝の時間に私のドジまで見られていたのかと思うと、指だけでなく顔まで赤くなる。

まだ少しヒリヒリするが、絆創膏を貼ってもらったことで心が落ち着き、いつもの業務に戻ることができた。カウンターに届いている返却書類を確認していると、朝の会を終えたお年寄りが1人カウンターに近づいてきた。
「怪我しちゃったの?」
「えっと、ちょっと・・・失敗しちゃいました」
声をかけてきたのは軽度の認知障害がある、早見さんという小柄なおばあちゃんだった。
「痛い?」
私の手を取って心配そうにゆっくり撫でてくれる。ほんわかした雰囲気の優しい、比較的話しやすい人という印象の女性だった。
「大丈夫です」
上手に笑えているかは分からないが、ニコリと微笑んで見せる。
早見さんは少し小首を傾げると、手を持ったまま懐かし言葉を唱えた。
「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んでいけ」
そして、にっこり笑うとゆっくりした動作で手を放して言葉を重ねる。
「早く治るといいわね」
嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちが混ざり合ってまた顔を真っ赤にした私は早見さんに向かって小さく「はい」とうなずくとお礼を言った。
「ありがとうございます」
80代の早見さんから見たら、私はまだまだ子供なのだ。なんだかくすぐったい気持ちになった。


いつも通りなら、こんな風に会社の人やお年寄りと話をすることなんてない。どうすれば、ランチタイムにひとりになれるか、世間話から逃げられるか、そんなことばかり考えていて、こんな風に自分に優しくしてくれる人がいるなんて思ってもいなかった。


いつも通りじゃない1日を終えて、帰り道ではドラッグストアに寄ることにした。山川さんに絆創膏をお返ししようと思ったのと、三連休で病院がやっていないので、念のため塗り薬などを買っておこうと思ったのだ。
 絆創膏はすぐに見つけられたけれど、壁一面に置かれているお薬を見ていると途方に暮れてしまう。火傷なんてめったにしないからどんな薬がいいのか見当もつかない。そびえたつお薬の壁を前にため息をついていると、年配の女性に声をかけられた。
「何かお手伝いできることはありますか?」
思わずどきりとしてしまった。声をかけるのも苦手だが、声をかけられるのはもっと苦手なのだ。心の準備ができないから。
「あっ、いいえ!・・・あの」
本日2度目のパニックを起こしている私を、女性はゆっくり見て、目の前の薬棚に視線をやる。
「塗り薬を探しているのかしら?かゆみがあるとか、痛みがあるとか?」
「やっ、火傷を・・・して、しまって」
女性の顔を見られず、足元に視線をやりながらやっとのことでそれだけ答えると、女性はそんな私の態度を気にした風もなくゆっくりと声をかけてくれる。
「あら、大変。どこを火傷しちゃったの?」
本当に心配そうに私の方を見る女性に、山川さんが貼ってくれた絆創膏のある指を見せる。
「あぁ、指は火傷しやすいわよね。水ぶくれとかはないのかしら?」
こくりとうなずいてみせるころには、心もだいぶ落ち着いて女性の顔を見られるようになった。
「赤みがあってヒリヒリするようならこれとかこれがオススメなんだけど・・・。絆創膏を貼るとき傷口とかジュクジュクしてるとかなかったかしら?」
「・・・赤くて、ヒリヒリするだけで、・・・会社の看護師さんがこれ貼って様子見ようって・・・貼ってくれたんです」
「あら、優しい看護師さんね」
女性はニコリと笑って話を続ける。
「今は軽いやけどなら、病院さんでもこの絆創膏を貼って治療することがあるみたいなのよ。これは水も通さないから、きっと看護師さんも2,3日貼ったままで様子を見ましょうってことじゃないかしら?逆に少し様子を見て痛むようなら、軟膏を塗るより病院へ行った方がいいと思います」
 一応、常備薬としても使えるという塗り薬を、お守り代わりに買うことにして、女性に頭を下げてレジへ向かう。
  保冷剤で冷やして、絆創膏を貼ってもらって、おまじないをかけてもらい、対処の仕方を聞かせてもらう、と段階を踏むごとに段々と痛みが和らいでいる気がする。朝は涙を我慢するほどつらかった気持ちも、今は感じていない。

自分の番のお会計が回ってきて、支払いをしていると先ほどの女性がパタパタと小走りで近づいてきた。
「ああ、よかった」
なにか忘れ物でもしただろうかと、首をかしげると女性は何やら小さな袋を差し出してきた。
「これ、試供品なんだけど、よかったらどうぞ?」
差し出されたのはハンドクリームだった。
「お姉さん、手荒れが酷くて痛そうだったから、これはおまけ」
そう言いながら、女性は私のエコバックに有無を言わせぬ感じにハンドクリームを入れてくれる。
「ありがとうございます」
上品なのに、おばちゃんじみた行動になんだか笑いがこみ上げてきてしまって少し笑ってしまった。
「お大事にどうぞ」
レジの人と女性にそう言って見送ってもらいお店を出る。


いつもならありえない優しさとおせっかいにたくさん触れて、なんだか少し疲れてしまったけれど、心がぽかぽかと温かくて軽くなっているのがわかる。
「私、意外と単純なんだな・・・」
そう呟きながら、エコバックに入れられたハンドクリームと自分の手を見比べる。もっと自分を大切にしてあげたいと思った。
そして、エコバックに一緒に入れてある絆創膏を見て息を吐くと空を見上げた。

最近は自分へのご褒美に、毎週日曜日のお休みには近所の洋菓子屋さんでクッキーを買っている。明日は、いつもより2つ多めに買って、村田さんと山川さんに持っていこうかな。今ならちょっとだけ頑張れそうな気がするし、絆創膏を返すより、喜んでくれるような気がする。

「喜んで、くれたらいいな」
月曜日は、いつもより少しだけ足取り軽く会社に行けそう。そう思わせてくれた人たちに感謝をしながら、私は家へ向かって歩き始めた。

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