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腐草為螢

くされたるくさほたるとなる。

昨日6月10日は七十二候の「腐草為螢」だった。
草の中から蛍が光を放ち飛び交う頃。という意味らしい。役目を終えた草の中から、あえかながらも力強く輝く蛍の飛び出る様はとてもうつくしいように思う。
手のひらの金魚で活動をしていると、よく“復活”を目撃する。作品の復活、旧字旧仮名の復活、読者の復活、文芸の復活……。一度はくされたる、とまではいかないけれど萎びかけた文学から、新たな光がまた灯されようとしている。さながら蛍のように、あえかながらも力強い、文学の灯火が。

もしかしたらそれは主観の、とても小さな出来事で、世の中は全然変わらずにいるのかもしれない。しかし目の前の景色が変わらずして、どうして世界を変えられようか。
私はスイミーのいちお魚で、一人では到底何もできない。持っているものも少なければ、知識もお金もない。コミュニケーションは得意なのにコミュニケーション不足やから人望もそこまでない。それでも守りたいものは全力であるし、繋ぎたいものは山ほど抱えている。そしてそれは、周囲の人々も同様で、好きなものがこのまま衰退していくのを黙って見ていたい人間などいないのだ。

自信がなくてもいい、私だってない。
力がなくたっていい、私だってない。
知識がなくてもいい、私だってない。

それでもできることが、あるはず。と、
手のひらの金魚は教えてくれた。
主に「め」の存在が大きいのだけれど。

腐草為螢。

誰が言ったか近代文学が斜陽というのならば、我々が夜を迎え討とう。草むらの中から光を放ち、飛び出して、夜を昼に変えてしまえばいい。一人一人は微力でも、千も万も集まれば眩いばかりの光になるのだから。そうして成った昼の元、また文学の種を蒔こう。

いつの日かまたその草むらが、新たな光を生むと信じて。

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