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社交性ダンス

社交性、の話が上がった。
確かに今でこそ誰とでも話し、どこへでも飛び込んでいくが、昔からそうであったかと言うと、真逆であった。
幼少期は常に誰かの後ろで俯き、挨拶をされても喉がつかえて返せない。小中学校では学校で飼っていた動物が友達で、人間の友達には余計なことを言って疎まれた。部活動は美術部であったが、独り轆轤を回して土と戯れていた。

姉妹のように育ったいとこに、何故今の仕事を最初からしなかったの。と先日問われた。絶対向いていないのに、接客業。と。彼女だけが知る私の姿を思い出されたのであろう。
よく学校を休んでは、いとこの家へ預かってもらっていた。学校へ行くより田舎の静かな家で本を読みたかった。いとこの家でもあまり話さなかった。吃音気味だった。話すまでにS音をしばらく挟まないと喋れない。口をパクパクさせて、赤面してやめる。その繰り返し。
その割には余計な一言はスルリと出るもので、よくいじめられた。中学も、高校も。そしていよいよ、完全に不登校になった。
高校でのいじめはそこそこ酷く、幻聴まで現れるほどに追い詰められていた。でも教師にも親にも何も言えなかった。また言葉がつかえて出てこない。祖父母の家に逃げたこともある。「ただの甘えだ」と父親は連れ帰った。

高校だけは出て、と通信制の学校を用意された。
それだけでは弱いと思ったのか専門分野のいくつかから好きなコースを学べる学校だった。変わりたかった。故に演劇を学ぶ事にした。
その場を取り繕うことだけは得意だったが、本番になるとからきしで、頭が真っ白になることしばしばであった。成績だけは良く、主役に抜擢されたりもしたが、その公演は最初の10分ほどしか覚えていない。気づいた時には終わっていた。汗だけが異常に流れていた。

そのあとも紙芝居や城でのおもてなしや、色々やったが、確かに人前で喋るのは慣れた。が、ひどい疲れを覚えるのだった。苦しい、重い。でもこれが生きるということ…………。
仕事も接客業がいちばん手っ取り早かったのでなんでもやった。苦しい、苦しい、嘘だらけ、薄ペラな、笑っているのは誰?

しかし、それは、結局は無理に目を瞑っているだけで克服などできていなかった。限界は、訪れた。

——死んだら、楽に、なれるだろうか。

その頃にはすっかり医者のお世話であった私は、飲み忘れて溜まりに溜まった睡眠薬を一気に飲んだ。襲う嘔気、吐いてはいけない。40、50、60錠。そこで意識は途絶えた。

次に目を覚ました時には世界が真っ白で、黒い影がユラユラ揺らめいていた。ここはあの世か。あの世は味気ないなぁ……また意識を失う。
その次は誰かに怒鳴られたり心配されたりしていた。誰だか分からなかった。
その次にやっと息苦しさで目を覚ました。病院だった。体が動かない。唾も飲み込めない。目も長くは開けられない。ああ、また、睡ってしまう……。

ICU、なのだと聞かされた。
睡眠薬の弛緩効果で涎による誤嚥性肺炎が酷く、3日間心肺停止の状態で、今は管を喉に入れていると。
動けないのは搬送時にせん妄で暴れたため、拘束してあるのだと。なんのことか一瞬わからなかったが、考えたのち「生き延びてしまった」そう、思った。

それからは鬱々しい日々をしばらく過ごした。
生きていてもなんの希望もないからだ。
それでもある時ふと、
「一度死んだのだから、これから先の人生は、ボーナスステージだと思えば良いのでは?」
と閃いた。そうだ、ここから先は何をしてもいい。我慢も、嘘も、つかなくていいし、人の顔色など窺わなくてもいい!だって人生が一度終わったも同然なのだから!

そう思ったら不思議と人と話すのが苦では無くなった。喋っても、沈黙しても、何を思われても、もうそこに私は居るようで居ないのだから。皆が見ているのは私の残像で、私はあの時死んだのだから。
そう思って過ごしているうちに友人が増え、大切な場所も増え、到底死人ごっこをしている暇が無くなってしまった。
良かったのか悪かったのか、それはまだ私にはわからないが、ひとつ言えるのは、後悔はしていないということだ。きっかけがなんであれ、いつのまにか赤面も吃音も克服し、人と喋るのが好きになった。
この話を読んで引いた人もいるかも知れないが、人は変われるという事実に勇気づけられる人もいるかも知れない。それでいい。それくらいでいい。踏み出して、戻って、ターンして、不規則な歩みをダンスのように踊る人生で、ちょうど良いのだ。

今日も私は人と喋る。今はもう、苦しくない。

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