「人生のストーリー」は「人生の選択肢」を狭めてないだろうか?

「御社を希望した理由は、過去に〇〇という体験をしたからです!」

人生の目標を定めたり、何かの決断をするとき、「自分の人生のストーリー」を基盤にしている事はよくある。

軽いものなら「中学はテニス部だったから、高校もテニス部に入ろう」とか。

もう少し重い決断ならこんな感じだろうか。

「昔、人に数学を教えた時、"数学が面白いって思ったよ!"って喜んでもらえたんだ。元々教えるのは好きだし、もっと沢山の人に数学を好きになってもらいたいから、教師になるんだ」

僕たちの「過去の体験」は、知らぬ間に繋がり合い、その人の人生決定の理由として、もっともらしいストーリーに仕上がっていく。

「人生のストーリー」はドラマチックなんだ。
そして過去のリアルさもあり、その人の目標を応援したくなるんだ。

しかし、「人生のストーリー」が、「人生の選択肢」を狭めてしまう時もある(ような気がする
)。


僕は中高と硬式テニス部だった。テニスで学んだ事も多いし、単純に楽しかった。テニスは生涯スポーツだから、ずっと趣味にしていたいと思っていた。

僕の体験から作られたストーリーは「大学でもテニスサークルに入るものだ」という固定概念だった。

そして、、、、、入ったテニスサークルは、わずか1年で辞めることになった。

そのサークルとは単に合わなかったんだろうが、なぜすぐに気付けなかったんだろうか。

理由は明確。サークル選びの選択肢に「テニスサークル」しかなかった。何故か自分の作った「ストーリー」にこだわってしまったからだ。

結局僕はアカペラサークルに入る事になるんだが、卒業するまで没頭するくらいの、良い選択となった。この決断に「僕のストーリー」は存在しなかった。

「〇〇になるもんだ」という自分で作ったストーリーは、それ以外の選択肢を排除する恐れがある。思いがけない出会いや、人生の選択を、捨ててしまう可能性を秘めている。

しかし、ストーリーが全くないのは、これまた不便だ。

一体私は何者で、何を達成すべきなんだろうかと、人生の軸みたいなものを完全に失いかねない。
(そもそも「我々は何者でもない」という前提に立つべきかもしれないが)

用はバランスが大事なんだろうなぁ(達観)

僕は高校教員になった。
昔から憧れを抱いており、夢を実現した。
毎日の仕事はやりがいに溢れ、充実している。

しかし、今一度考えたい。

本当に人生をかけてやりたい仕事なんだろうか。

「自分のストーリー」に縛られて、何か本当の自分の気持ちを押し殺していないだろうか。

「何かをやらない言い訳」にしていないだろうか。

うーん、、、
わからん。笑

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