見出し画像

百合樹 第五章まあこんなもんだ、これでいいんだ ③ 水平

第五章
まあこんなもんだ、これでいいんだ

相手と対峙するとき、相手がなにを考えているのか、私をどう思っているのか。
時として、相手の持っているものが全くわからないことがある。目に見えないそれは、一体どこに存在するのだろうか。
互いの手の内ではない、二人の間、ひとりとひとりの隙間には一体何があるのだろうか。


水平

帰り際、駅舎から見る海の先は、どこまでも長い直線だ。

どこまでも穏やかでフラットな景色のみである。
その直線の長さに海の偉大さを感じる。
『来て、見て、よかった。』
と、非日常に心から感銘を受けながら、磯臭い二人は、明け方の電車に揺られ日常へ帰っていった。
海辺での慣れない生活は、記憶に鮮明に残る特別な体験だった。
が、日常に帰ってきてからというもの、私の身体は、なんの変哲もない生活にあっという間に順応してしまった。

穏やかで、激しく波立つこともない、静かな日常である。
いつも通り小旅行に出かけ、大好きな音楽を聞いて、敬愛するその歌声に自分を奮い立たせる。
友人とたわいもない話をして過ごし、うちに帰る頃には隣に彼女がいたり、共に音を鳴らす仲間がいたりする。

見ている景色、聞こえる音は普段の通り。
私は、何気なく過ごす。

不思議なもので、一、ニ年前の今頃には全く別物だったはずなのだ。
全く別の世界が広がっていたはずなのだ。
しかし、今の私は、帰ってきた日常が、以前と変わり映えしないものと思い込んでいる。

錯覚を起こしていることに気づけないまま。
私は、何気なく見過ごす。

自身が立っているフラットな足場に(要は、私を支えている何気ない日々のことだが)大事なものが置かれた時、それは凸になって現れる。
目に見えて分かるのだから意識せざるを得ない。
その特別な凸に乗れば、一段と高い位置に行けるし、世界は広く見えたりする。
時には、自分がいつもより幸せになれた気がするのだ。

フラットな足場においては、小さな穴が開いたり、どこかが欠けたりすることがある。
私は、何かを無くしてしまった気になったりするのだが、そんな時、大事なそれは、真っ先に穴を埋めて足場の一部になってくれる。
地に足つけて歩くための支えになってくれるのだ。
それでなくとも、私にとって大事なもので、より自分のものにしようと、当たり前のものにしてやろうと、足場の中に知らず知らずのうちに取り込んでいってしまう。

そうこうしいてるうちに、最初は目に見えて特別だった凸は、段々と見えづらくなって、私を支える足場がまたフラットになっていくのだ。
実は、私は、この時、前にフラットだった頃よりも、少しだけ高い場所にいるのだが、ここに気づけないのだ。
(わかる人にはわかるだろう。この話をするために敬愛する人の言葉を少し拝借した。)

『私は、今日も水平線に立っている。』

そう思ってしまった時には、特別という感覚を見失っている。
本当は積み重なっていて、そして、均されていっただけのはずである特別を、なんの変哲もない穏やかな日常と呼び、何も疑わぬまま、その上に立っているのだ。

そんな風にして、当たり前のようで大切な理屈に気づけずモヤモヤと過ごしているうちに、いつのまにか、私と彼女の足跡は、交わらない平行線を描いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?