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「あなたの知らない京都旅」を観て

 私の携帯電話がならないのは 寒くてお天気が悪いせい?
いえいえ、最近ずーっとご近所さん以外はどなたからもかかって来なかったけれど、久しぶりに携帯の軽やかな音が流れた。
どなた?と、思って見てみると大徳寺の管長さまからだった。
「今日の午後9時からのBS5で檀れいの「あなたの知らない京都旅」に真珠庵が放映されます。御用と予約がないならご覧ください」
あら まあ、私はすぐに返事を打った。
「ご案内ありがとうございます。ぜひ拝見いたします。お知らせありがとうございます」

今回の「京都の旅」は 紫式部という女性作家が「なぜ 生まれたか?」を
探る番組だった。

 最初に訪れた滋賀県の「石山寺の源氏の間」で籠り 紫式部(30歳の頃)「須磨」「明石」の着想を得た。といわれる。
石山寺には紫式部の最古の肖像画(室町時代)が 残されている。
そこには 今は時代に煤けて真っ黒になっている壺が置かれ その中から
「源氏物語」の絵巻が2,3浮き出ているのが示された。

 執筆活動の発端は 当時の中宮の依頼といわれ、54帖(原稿用紙2300枚)という長さの源氏物語の紙など貴重で高価な援助は 藤原業平や藤原道長等の助っ人があったればこそ続けられたのではないか、と言われている


 NHK大河ドラマ「光る君へ」が始まったばかりで、幼き頃出会った道長とこの先どのような成り行きで繋がっていくのか?が 楽しみである。

 紫式部の生誕の地が「紫野」に在ったことは さもありなん、合点!
当時小さな紫色の花が一面に咲く場所に大徳寺が出来たとある。
その住所が 京都市北区紫野大徳寺町というから間違いはない。
その僧堂の一つに「真珠庵」がある。
その創設者はあの有名な一休さん!
祀られているのは仏像でなく、在りし日のままの禅僧一休さんなのだ。
そのお寺に小さいけれど深~い井戸がある。
その井戸で汲み上げた水で 紫式部は産湯をつかったという。

 真珠庵を案内されるご住職は 大徳寺納豆をご自分で作られる(これもNHKのテレビで知ったことだけど)そのご住職のご修行中 我が家の両親の時にお世話になった雲水様で、懐かしく拝見することが出来た。
真珠庵には2,3度行ったことがあったけれど、まさか紫式部の産湯の井戸があるなんて、想像うだにしなかった。

 漢詩を教える者として仕えた紫式部の父藤原為時は 我が息子(式部の弟)に漢詩を教えていた時、脇で聞いていた式部の吞み込みの速さに驚き「そなたが男の子であったなれば…」とつぶやいたことが 式部の心の中にずっとうずいていたのであろうか…?と 憚れる。

 紫式部のライバルは清少納言であった。
清少納言はよく笑い華やかであったという だから文書も率直であった。が 式部は頭がよく清少納言とは違う率直さ故 女房たちから疎まれ、それに気付いた彼女はアホの振りを強いられることを余儀なくされた。
当時16,7才で夫を通わせる女房たちだが、式部は26歳で年の差20歳上の藤原宣孝と結婚、女児を設けたが 2年で宣孝の死に廻りて執筆活動に入ることとなった。

 京都の紫の野に生まれ、その後 滋賀に移り越前(福井県)で子供を産み晩年京都に戻り紫野の近くの「雲林院」で余生を送り52才でこの世を去った。雲林院は火災に合い 現在は跡地の遺跡しかないが、紫式部のお墓はあるという。

 源氏物語は紫式部一人で書いたのか?という説も言われている。
当時は写本といって「書き写し」だったので、加えられた?という疑問もわからないではない、しかし、紫式部が「当時の女性の生き方に悩み 考えていた」ことは確かであったに違いない。と、私は確信した。

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