「銀波」A.P.wymanに寄せて
<公立高校の発表の日>
私は 吹き出してくるような喜びで駆けていた。京都の真ん中の交差点を! 人の目も気にせず 小走りに 止まっては また走り出す。 ビルの影と影の間を 人の往来をぬい乍ら! 私は 嬉しさと安堵を一度に抱え 頬をほてらせ 息を弾ませ走っていた。 耳には「あったよ!」の 母の声が! 走って はしって 校門に辿り着いた。 そこで待っていた母が 手招きする。 そして、人だかりの黒い頭の隙間から 自分の名を見つけた。 そして、私は 憧れの高校生になった。
<新入生歓迎会>
昭和の重厚でクラシックな講堂で いろんなクラブの紹介が発表された。 その中で、「音楽部」のコーラスがあった。最初は「校歌」四部合唱だ。 男声の低音の効いた「校歌」は ひときわ私の五感を虜にした。目を上げると、指揮者は ニコニコしながら指揮棒を振っている。魅力的だった。そのにこやかな顔から 目を足元に落とすと、洗いざらした運動靴が目に入る。二年生なのに 学生服がくたびれて見えた。 たったそれだけの理由で、私は一目惚れした。それは まさしく少女小説の中のように! そして、私は音楽部に 入部した。
<五人会>
音楽部の中の とりわけ仲のいい女生徒四人と男性一人。新入部員は他にもいていたはずなのに、取り分け この部員が仲良かった。私達は 歌ってうたって一つになった。放課後のクラブが待ち遠しく、学校に通った。夏休みの早朝練習に 私は一番早く音楽室の鍵を受け取りに行った。静まり返った石造りの階段を ゆっくり上りながら、朝のヒンヤリした大気の中で体育系の男子の掛け声が響く そんな朝が好きだった。秋になり文化祭の練習が始まると 私たちは廊下にオレンジ色の電気が灯り 夜間学生が来るまで歌っていた。帰りの四条通りでも「校歌」をハモって帰った。楽しかった。別れ際の交差点に 馴染みのひなびたラーメン屋があって、そこで、青春のエネルギーを補充した。そのかつおだしの味は 私の最高のラーメンとして今でも忘れることなどできない。中学時代の反抗期も 歌うことによって卒業できた。親は ほっとしたに違いない。その五人会の一人に とてもピアノが上手な女子がいた。その子の祖母は お琴の先生であり母はピアノ先生だった。その女子が いつも弾いていたのが「銀波」だ。私たちは みんな聞き惚れた。そして、その女子にクラブ活動後も みんな「銀波」をせがんだ。 弾いてくれるその曲に 聞き惚れ酔いしれた。そして、私も 自然体で習得して 弾き始めていた。
<女子大の謝恩会で>
その後、それぞれの道に行ったけれど、やはり その女子は音楽大学声楽部に進学した。私は 高校まで公立で男女共学だったのに、なぜか カトリックの女子大生になっていた。公立高校の自由な校風の中で 私は存分に青春を謳歌していた。大学になってカトリックの細々した規律は 生意気にも従えなかったことを記憶している。しかし、その女子大の卒業の謝恩会で こともあろうに、私は「銀波」を弾く事になった。当日、外国の先生たちが多かったせいなのか 司会は英語でなされた。その時の司会者を務めた彼女が
Next piano is [ Ginpa ] , It is not [Silver tooth], [Ginpa] is[ Silvery Waves]
と 言って会場を和ませてくれたことを思い出す。その司会を務めた女性は 国連に入って外国の人と結婚されたとか…
そして、私は
その「銀波」の楽譜を 何十冊もの楽譜の中から 今、手に取り出して 開けてみる。しみじみと… その楽譜は ZEN-ONのピース版として 幾重にもセロテープが貼られ、黄色くなってくたびれていた。「銀波」の楽譜は 私が いつ、その楽譜を思いだすのか… 待ちくたびれてしまっていたよう見えたのです。しかし、今の私には 手が指が そして 頭がついていかないように思えました。 長い間 楽譜の間に差し込まれ棚に埋もれていた「銀波」。 私の手元に取り上げるのは 何十年ぶりでしょう! 暫くの間、この黄色く変色した楽譜を 大切に労わっていようと思います。