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硬券0084 攝陽商船

攝陽商船

攝陽商船は、大正末期頃、大阪商船から大阪湾岸の一部を譲り受け、また自社として、さらにこまめに湾岸の町や村に寄港していく航路が四国香川東岸、紀伊水道にまで及んで運航していました。
これも昭和17年には航路も主要港に整理されていき、残ったものは関西汽船になりました。

大正12年 硬券 赤ベタ 一般式 3等 右書き

左書きの時代に入っていたと思いますが、残券使用でしょうか。
しかし攝陽商船ほか、この手の報告片のあったタイプのD’型硬券は、放出品が結構見られます。
しかし、高松から引田なんて、湾岸を横に航行するなんていうのは、鉄道がまだ主体でなかった頃を象徴する運行形態でした。

大正 硬券 赤ベタ 一般式 3等 右書き

沼島への航路なんていうのもあり、淡路にも各所寄港がありました。


ここにはありませんが、南海との連絡として、当時は淡輪港接続で洲本と難波を結んでいました。
深日港が出来るのは昭和23年でしたから。

 

大正 硬券 青ベタ 一般式 旧2等 右書き

和歌浦から湯浅という今は定期船など考えられない所にも、こまめに航行していた証しです。
和歌浦は、多分この時代(~昭和の初期)かつては小松島への航路もありました。恐らく昭和13年頃までだったと思います。
和歌山港が整備されたのは昭和26年でしたから。

 

ここまでは、何もいい券がなく、これなんかマシ。

昭和7年 C型硬券 赤GIRてつどうしゃう過渡期地紋 補充往復(割引)券
3等 省腺連絡運輸  社神戸(兵庫桟橋)

よく見れば補充でなく、大阪商船のものに上から判子で社名を押印しており、大阪商船が大正末期まで使っていた残券であることが判ります。
先週の大阪商船の切符としてまとめるべきものだったかもしれません。

院線から省線に変わったときにGIRのまま「てつどうしゃう」と書かれた過渡期地紋になっているのですが、そのまま昭和7年の廃札にされるまで残ったというものです。

神戸港も大阪商船の時代から関西汽船の時代になっても鉄道連絡駅としても役目を果たしたのですが、この時代の表記として、大阪商船時代は「兵庫」または「(社)兵庫」、攝陽商船時代は「社神戸」のようですね。
関西汽船になると「神戸港」表記です。
この切符も小松島港~徳島が省線で、四国側鉄道への連絡のものです。

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