仙骨と私 その21
学者の血筋に生まれた私は頭を使うことには長けていて、おまけに幼少期に感情と感覚を思いっきり押し殺した分、とにかく頭の世界をパンパンに膨らませて大きくなった。
手に入るありとあらゆる本は片っ端から読み尽くしたし、シャンプーのラベルや食品成分表示まで貪るように読んだ。文字は何よりおいしい栄養だった。
大人になってから知ったけど私の読み方はどうやら「速読」に該当するもののようで、物心ついた時には自然とその読み方だったので、ものすごいスピードで情報を吸収することができてしまう。
文字を読んでいない間は、目の前で起きることを常に同時通訳のように頭の中で文章化していたし、同時に物事の仕組みを図形もしくは数式のように整理する作業も自然としていた。
本当に頭の忙しいお子さんだったと思う。
だけど頭の世界というのはどこまで行っても「相対」だ。前提を一つ崩せば全てが変わってしまう思考にエネルギーを注ぐことが、だんだんとバカらしくなってきた。無駄じゃんこれ。
思考をフル回転させてもどこにも行き着かないことに発狂しそうになった私が、だんだんと憧れ始めたのは「悟り」だった。そこで今度は世界中のいわゆる覚者の本やら、トランスパーソナル方面の本を読み漁り始めたのだけど、
どいつもこいつも、だ。
本当にどいつもこいつも、肝心な部分の話になると言葉を濁し始める。
だから!!その悟りの境地は!!どうしたら手に入るんだよ!!具体的に言え!!
私は怒り狂って何度も本をぶん投げたくなった。
(今なら分かるよ。あれは言葉を濁してるわけじゃない。頭の世界にいる人には、どんな言葉を使ったって伝えられないものだったのだ)
10代後半から20歳あたり、怒りの本ぶん投げ期を過ごした私は、本を読んでいない間も相変わらず思考をフル回転させていたわけだけど、
はっきり覚えている。ある日勤めていたレストランの裏の冷蔵庫から巨大な肉の塊を取り出して立ち上がった瞬間、もうやめた!!と思ったのだ。
オーバーヒートした頭を、もう使うのが嫌になった。こりごりだった。アホらしい、やめよやめよ。
びっくりするほどすっぱり、そこから私は真剣に思考することをやめた。本を読むのもやめた。
とは言っても、思考に期待しなくなった私が、本の中で誰も彼も言葉を濁していた部分のことを分かり始めるまで、それから7年ほど要するわけだけど。。
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